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私は今、どこで何をしているのか。
目が覚めて、まず最初に考えたのはそれだった。
体を起こそうとしても手足はうまく動かず、嫌な予感にドクリと心臓が波打てば、一気に覚醒した。

「(そっか…わたし、まちがえたんだ)」

意識がほぼ完全に浮上したのに、心はどんどん暗く冷え切った場所に沈んでいく。
待ち合わせ場所に現れたクイロさんに『考える時間をください』と言った。彼はいつものように笑った。人の良さそうな笑みに、私はずっと騙されていたのだろう。

『いいけど、どうせすぐ俺のことしか考えられなくなるよ?』

まるでナルシストの口説き文句のようだったが、そこには甘さはなく、思わず身を引くほど冷たい声色だった。『おかしい』、気がついたけれど遅かった。体に何かの衝撃が走り、意識が途切れた。
そして今。手足は縛られ、見たこともない部屋に閉じ込められている。正確には小屋と呼ぶべきだろうか、壁をはさんだ向こう側は外のようで風によって木々が騒いだ音が微かに聞こえる。
小屋の中は暗いが日中であるため、周りの様子は見て取れた。時間は午後二時前、彼らの出航直前の時間だ。

「(私の、バカ。期待して、どうするの。選んだのは私のクセに)」

頭をどこかに打ち付けたいほど、自分が情けなくて仕方がない。無意識に彼らに望みを託そうとした自分も、クイロを信じた自分も、ここで震え上がってうまく手足が動かせない自分も。
――冷えた心が、ただただ叫ぶ。死にたくない、と。

「逃げな、きゃ」
「――ほう、どこに?」

心臓にむき出しの氷が当てられたのではと錯覚するほどの、恐怖。いやだ、うそだ。

「いつのまに、って顔だな。残念、最初からいた」
「う、そ」
「嘘じゃないさ。せっかくさらったのに、目を覚まして絶望に染まっていく顔を見逃すなんてもったいないだろう?」

悪趣味。この場でそう罵ることができた人間だったなら、私はもう少し強かったのかもしれない。海賊として生きていく道も、選べたのかもしれない。どうしようもないことを考えてこの現実から逃れようとするも、やはり目の前にあるのは逃れられない現実だった。

「改めて自己紹介だ。俺はアニメイ・トキリク。あ、今のこの顔はちゃんとクイロのもんだけどな。こいつなかなかイケメンだよなあ」
「トキリク……、って、仮面屋…?」
「お、知ってくれてるとは嬉しいねえ。まあ海賊船に乗ってたくらいだ、手配書のチェックぐらいはしてたかな」

仮面屋、アニメイ・トキリク。変装を得意とし、その本来の相貌は誰も知らないとされる犯罪者。彼が連れ去った女性は何かが壊れた状態で見つかるという。時に肉体が、時に精神が。
トキリクは近づくと、かがんで私を見下ろした。人の良さそうな笑みが、もうただの仮面にしか見えない。

「あのトラファルガー・ローの船に乗ってたくらいだ、それなり腕が立つ海賊かと思えば、思ったより一般人だったな」

釣り上げられた口元は苛虐心が滲んでいる。私は後ずさりすらできない。

「まあいいさ。本当なら女海賊を飼い慣らすのが好みなんだが、普通の女も俺は悪いとは思わねェ。トラファルガーの船に乗ってたくらいだから、何かしらは買われてたんだろう?だったらそれだけでそれなりの価値があるってもんだ。
それが性格でも知識でも、」

「こっちでも」とトキリクの手が太ももを撫でる。嫌悪と恐怖に体が震える、拒絶反応を示したくても自由の聞かない手足ではうまくいかない。
叫びたくても何もかもが怯んで声がでない。いやだ、いやだ、こんなの嫌だ。こんな男にいいようにされたくない、死にたくない。私はただ、生きたかっただけなのに。

「(こんなところで、飼い殺されるくらいなら、死んでしまうくらいなら――!)」

声が聞こえる。それは幻聴と、思い出。夢を抱いた声と同じ色で、私を呼ぶ彼らの声だ。

――こんなところで潰えてしまう命ならば、この命にもっと大きな夢をかけてみればよかった。
明らかな後悔だった。いまさらどうしようもない“夢”だった。

「そんな簡単に死にはしねェさ」

お守りにしようと思っていた言葉。もう、その言葉の真意を問うことはできない。
恐怖と絶望しか生まないこの状況下で、彼が口にした言葉の意味を知りたくなったのは、もはや自分への皮肉だろう。

ねえローさん。私はあの船で誰よりも弱かった。誰かに殺される可能性は、誰よりも高かったのに。
不思議なものだ。あなたがそう言ってくれるなら、あの時は私だって『簡単に死なない』気もしたんだから。ああそうだ、だって私は。

「(死にたく、ない、――生きたい)」

たとえ未来にどんな苦悩あったとしても、それに押しつぶされそうになって死んでしまいたいと思ってしまっても。ほら思い出して、私は今、生きたがってる。

あの船で私は誰よりも弱かった。誰かに殺される可能性は、誰よりも高かった。
でも多分、あの船で誰よりも死に怯えていて、誰にも負けないくらいの生きたがりだった。

「(簡単に、死んでなんか、やるもんか)」

例え何度この男に手酷く抱かれようと、飼われようと、何もかもが絶望に染まり命尽きるその時まで。

「お前みたいなやつがいたことぐらいは、忘れねェで覚えておいてやるよ」

あの人が忘れないでいてくれる私は、簡単に死なない私だ。あの人が認めてくれた私であれるなら、私はまだきっと死なない。
屁理屈で、根拠もなくて、ただの願望。でも、支えにはなる。不思議なことにトラファルガー・ローというあの男が紡ぐ言葉には、力があるのだ。こんな臆病者を僅かにでも前を向かせるような力が。

「へえ…」

トキリクが目を細めて感心したように呟く。

「存外、買われたのは性格かもな。怯えきって震えてるくせに、目が死んでない」

時刻は午後二時を過ぎた。彼らはもうこの島にいない。一縷の期待を頭から弾いて、もう一度心から思う、「生きたい」と。

「突き崩すのも好みだぜ?安心しな、その目が狂うまでは、ちゃんと飼ってやるよ」

いやだ、怖い。怖い怖い怖い。でも、でも私は、わたし、は。

「(――簡単に、死なないから)」


怯える体を叱咤し転がるようにトキリクの傍から離れれば、トキリクは苛立つこともなくむしろ楽しそうに口元を釣り上げて私に手を伸ばしてきた。
やはり捕まってしまうようだ。彼は飼うといった、すなわちすぐには殺されない。ならば今日は諦めるのも手かもしれない、死ぬほど嫌だけど、死ぬよりマシだ。
覚悟を、決めろ。奥歯を噛み締めて自分に誓いを立てようとしたところで―――それは訪れた。

ドォンという激しい音。驚愕に染まった顔をしていたのは私だけではなく、目の前の男もだった。
暗がりだった小屋に、強制的に光がさす。見えたのは青のカゴメと、白。

「我々は海軍である!仮面屋、アニメイ・トキリクだな。今すぐその女性の身柄をこちらに引渡し、投降しろ!」


希望だと、素直に思えなかったのは。
海賊である彼らのことが大好きだと心の底から思ってしまうくらい、彼らと共にいたから。



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