04.愛の塩漬け

アリア・カードナーという女性に、婚約者、またの名を、許婚がいることは真実だ。
トレイが知ったのは、ナイトレイヴンカレッジに入学する少し前くらいのことだが、アリア自身はもう少し前から知らされていたらしい。一応拒否する選択肢もあったらしいが、心のどこかで養子であることを気にしていたアリア自身には、選択肢はなかったのだろう。
幸いというべきか、相手の家も悪いところではないという。いや、そのせいで、よりアリアには選択の余地がなくなったともいえるかもしれない。

(だからお前は、一生、隠す気なんだろうな)

アリア自身すら将来を決心する許婚がありながら、アリアは、幼馴染の一人を想ってしまった。いつどのタイミングかは、さすがにトレイにはわからない。だが、簡単に整理がつく気持ちではないだろう。少なくとも、トレイにはそう見えた。
だから、トレイは今まで気づかないふりが最善だと思っていた。
仮に彼女が嫁いだあとでも、自分たちの関係が変わらなければ、何かの役に立つだろう。多少疎遠になったとしても、幼少期の思い出を分かつ昔馴染みがいえれば、嫁いだ先で苦悩しても、多少は彼女も安らぐだろう――と。

“トレイくん、リドルくんの件もそうだけど、――その『思ってたけど言わない』っての、良くないと思うな〜”

トレイは、ケイトの言葉を思い出して、苦笑する。ケイトの言葉はリドルの件を乗り越えた今となっては説得力があるが、こればかりは、口に出して言うことが正解かどうかはわからずじまいだ。
だが、リドルを叱らないままだったせいで彼を孤独にしていた一件は少なからず心身に効いているのも事実。
だから、自覚した。認めてしまおうと思った。
アリアの気持ちと――己の気持ちも。

そうだ。もう無視はできない。
彼女の気持ちに気づかないふりをしないのであれば、いい加減向き合わなければならない。

◇◆◇

おそらく、一番最初のきっかけは、八歳を過ぎたリドルが家にいちごタルトを食べに来たあの日だった。
そう、あまりにも嬉しそうにおいしそうにいちごのタルトを食べるリドルに、いつも一緒に遊んでいたチェーニャも、念願かなってようやくリドルに会えたアリアも、――誘いの言い出しっぺであり、最も時間に気を付けなければいけなかったはずのトレイも、“時間を忘れてしまった”あの日だ。

リドルの自習時間を見計らって、遊びに誘い続けていたこと、その上、砂糖たっぷりのいちごタルトを食べさせたこと――家にまで押しかけていたリドルの母親に懇々と何時間も、怒鳴られるほど責められ、叱られて。
子どもながらに、いや、子どもだったからこそ。何かとんでもないことをしでかしてしまったのでは、といういいようもない恐怖と、家に帰ってもっと怒られているだろうリドルへの罪悪感に襲われてしまった夜があった。

ただ普段、兄としてふるまっていたからか。どれほど悔しくても、強い無力感を感じても、トレイは感情のまま泣くことがうまくできなかった。
どうするのが最善だったのか、もっと自分が時間を気を付けていればよかったのか。そもそもリドルを家に誘ったのが間違いだったのか――ぐるぐると頭の中だけで後悔が巡り、リドルがタルトを食べる時に使った、白い皿がいつものようにしまわれている姿が、やけに虚しかった。

『悪いな、……ようやく、アリアにもリドルを会わせられたと思ったのに』

もう時間が遅いからと、実家に連絡して泊まるように促されていたアリアも同じように部屋でうずくまっていた。やはり兄としての振る舞いが抜けなくて、つい元気づけなければと声をかけた。はずだったのだが。

『ううん。……わたし、より、トレ、うっ、う、うぅぅ……っ!」
『え、え、アリア!?』

その時、トレイはひどく驚いた。アリアがぼろぼろと珠のような涙を流して泣いていたからだ。
アリアも、昔からそれほど泣くような子供ではなかった。小さい頃からの付き合いも含めてそれなりの時間を一緒に過ごしてきたトレイですら、その時初めて彼女が泣いている姿をみたくらいだ。
――ようやく会えて、友達になれるかもしれないと意気込んでいたリドルとあんな別れ方をしたからだろうか。それとも、リドルを連れ戻しにやってきた母親の剣幕が恐ろしく怖かったからだろうか。
トレイは弟や妹の宥め方を思い出して普段の自分に倣おうとしたが、何故だか頭が真っ白になって、ハンカチを取り出して落ちるばかりの涙を拭うことすら思いつかなかった。

『ど、どうしたんだ、アリア。何が悲しい? それともどこか痛めたか?』
『だって、っ、トレ、イが、泣かない、からっ……』
『………………え……?』
『トレイ、苦しそうなのに。っだって、トレイは、うぅ、リドルくんにおいしいって言ってもらいたかった、だけなのに。リドルくんに、もっと笑ってほしくて、おいしいいちごタルトを食べてもらって、それで……なのに……』
『――』

確かにアリアは、普段から、子どもながらに人一倍気遣いができる、優しい子ではあった。養女という育ちであることもあっただろう。だが、まさかその涙が自分のためだとはトレイは思わなかった。予想だにしていなかった。
トレイはまた何も考えることができず、ただただ、目を見開いて驚いていた。その零れ落ちる涙の一粒一粒を見つめていた。――だからこそ、気が付くのはアリアよりはやかった。彼女の頬に張り付いた、スミレ色の花びらに。

『……アリア? 花なんか、いつ顔につけ――っ!?』
『ふ、ぇ……?』

最初はただ、何かの拍子にどこかで花びらを頬につけてしまったのだと思った。だが、その花びらは彼女のあふれ出る涙をぬぐう手元から――いや、正確には目じりから次々とあふれていた。
瞳から雫がこぼれたかと思えば、一片の花びらにかわり、ひらひらと漂い、涙よりも遅く落ちていく。

『え、え、なんで。トレイ、これ、私、なんで、なに……!?』
『っ、おちつけ、アリア。もしかしたら、これは――』

ようやく、普段の調子――弟や妹をなだめる時に回す思考が戻ってきたトレイは、アリアの手を握り、一緒に深呼吸をして、パニックになりそうだったアリアを落ち着かせた。彼女の涙が引くように、その花弁は次第に生み出されなくなっていく。
だが、泣き止むころには両手ではあふれるほどの花びらがアリアの前に舞い咲いていた。彼女の家で育てている果実の花を中心に、スミレやシロツメクサなど、多種多様な花弁が不ぞろいに混じっていた。
やがて“ティアズ・ペタル”と名付けられたアリアのユニーク魔法は、そうやって発現した。といっても、彼女が自由自在に扱えるようになったのは、しばらく先のことだったが。



「……ただでさえ、思い出の多い日だったのにな」

ふと、昔を振り返っていた自分に気づき、トレイは苦笑する。
そう、ただでさえ、いろいろ起こって忘れられない日だったのに。
初めてイチゴタルトを食べたリドルの嬉しそうな顔や、初めて四人そろってわかりやすく上機嫌だったチェーニャのことも覚えている。初めて見たアリアのユニーク魔法のことはもちろん、当然、家に乗り込んできたリドルの母親の剣幕も。

その上、ここで自覚をしてしまえば、もうひとつ加わってしまう、思い出の景色。

(俺の代わりに、俺を想って泣いていたアリアの顔が忘れられなかったのは、あいつのユニーク魔法に驚いたから、だけじゃない)

トレイは生徒手帳に挟んでいた、一片の紙を取り出す。手中にすっぽりと収まるサイズのその紙は少々古びている手作りの栞だ。装飾は、押し花のように水気の抜けた、本物のクローバー。
あの日、彼女のゆかりのある花々ばかりが咲き落ちた中で、唯一、自分も彼女も見たことがなかったものだ。――本でその存在を知ってから、いつか一緒に探そうと話していた、三つ葉ではない、四ツ葉を持つクローバー。

「結局、後にも先にも、あいつが具現化したクローバーは、これだけだったな」

今のところ、ではあるが、四ツ葉はもちろん、三つ葉クローバーの葉すら、いくら試してもアリアは咲かすことができていない。本来、花びらに特化した魔法であることを考えると、葉が生み出せないことは、なんらおかしくはないのだが。

「……だからこそ、お前がもつべきだっただろうのに」

二度と咲かすことができないかもしれない、幸せを呼ぶというわれる四ツ葉のクローバー。
頬に花びらを乗せながら、アリアはその奇跡に近い葉を――幸福の祈りを、トレイに差し出した。

“――また、リドルくんとトレイたちが、笑って遊べますように”

その時は、次こそはアリアも一緒に遊ぼう、と願いを込めて四ツ葉のクローバーを受け取ってしまったのだが。その祈りを、彼女の温かな気持ちを、あれから何年経っても捨てられずにいる自分も大概なのだろう。

そう。もう無視はできない。
彼女の気持ちに気づかないふりをしないのであれば、いい加減向き合わなければならない。
あの頃から、この心が彼女に向ける感情は、幼馴染の区分けを超えたものであること。

「果たして、これは成長か、自棄か、だな」

トレイは自嘲する。ケイトに“甘味嫌い”を言及したことについては、自身の成長だと認めていた。『思ってたけど言わない』ことをなくすつもりはなくとも、少しは踏み込むことも必要なのだと。そうして踏み込むことで、好転していく道もあるのだと知ったから。
だが、アリアへの気持ちに関してまで、気づかないふりをやめたことは、本当にいいことだったのかは、まだわからない。ただ少しだけ、リドルの一件から、“好転しない現状維持”というのが怖くなっているのかもしれない。

(だがまあ……自覚したからといって……もしかしたら、何も変わらないかもしれないが)

自分に恋心を向けていることに気づかれていないと思いながら、彼女は許嫁のもとに嫁ぐだけ。トレイ・クローバーという幼馴染が、心から自分の結婚を祝福してくれると思いながら。

(だとすれば、この気持ちは、やはりお前のための何にもならないかもしれないな)

そうきっと、この気持ちは取り立てて彼女のためになるものではない。
アリアだって許婚の存在は、一時期悩んでいた。だがもう彼女は選んだのだ。二十歳になれば、アリアは姓を変えると。ならば猶更、告げる意味のない不要の感情だ。俗に言われる両思いだろうと関係はない。
過程よりも、結果だ。
アリアが選んだ道を、祝福するだけ。きっとそこには、それなりの苦悩があり、それなりの幸福がある。

「トラブルになるくらいなら、……悩ませるくらいなら、このままでいい」

アリアやカードナー果樹園も、取引先とトラブルになることは避けたいからこその選択だ。おまけに益は両家ともあるという。いくら幼馴染でも口を挟めることではない。できることはただ、見守って、然るべきときに祝福してやること。

「まあどう転んでも、一生幼馴染だ。……一度はお前を大切に想った男として、何かあったら愚痴くらい聞くさ」

その時は、アリアの好きな色とりどりのフルーツを乗せた、贅沢なフルーツタルトを作っていこう。旦那にはいい顔をされないかもしれないが、そういうときくらいは、幼なじみという肩書を振りかざしてもバチは当たらないだろう。

――自覚しなかったころには、戻れない。だからこそ、どう自覚したものかと、悩んで先に進めなかったが。

「こういう自覚の仕方なら、まあ、してよかったかもしれないな」

リドルの件もあり、ようやくこれが自分なりの前進だと、信じられる気がした。


「トレイ、少しいいかい?」
「……ああ、リドル。わかった、今行く」

部屋のノック音と、我らが寮長の声をきっかけに、トレイは回顧と決意を終える。
そっと四葉のクローバーの栞を手帳に差し込みなおし、机にしまってから、いつもどおり、リドルの呼び声に従って部屋を出た。


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