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「行くな!」

聖川に腕を掴まれ、強引に引き留められる。神宮寺は落ち着いた声を出すように努めた。


「なんなんだよ、お前。」

「……」


「条件を守れないなら、俺は出ていく」

「それは…すまなかった。ピアノは弾く。」

聖川は真剣な瞳で神宮寺を見据える。


「ピアノだけじゃ、駄目なんだよ」

神宮寺は何故だか泣きたくなった。きっと、聖川にはわからない。

神宮寺の不安や、鬱屈は理解されない。行き場のない欲求や、破滅への衝動は共感されない。

「条件を出された時は、出来ると思った。でも、お前に口付けされた時に、駄目だと分かった。」

「気持ち悪かったか?ごめんな」

自嘲すると、聖川は首を左右に振る。


「違う。こういうことは、段階を踏むものだと思ったのだ」


「は?」

予想外の言葉に、神宮寺は間抜けな声を上げてしまう。


「互いの気持ちを確認し合い、共に時を過ごし、互いに求める気持ちが一致したら、するものだ。だから、駄目だと言った。」

「なんだよ、それ……。」


今時こんな、律儀というか、固い人間が存在していたのか。神宮寺は冷めた目を向ける。


「じゃあお前は俺のこと、どう思っているんだ?まずは、気持ちが先なんだろう?」

「憎からず思う」


神宮寺が問うと、聖川は即答する。


「はっきりしないな」

「俺も当惑している。ただ…」

聖川は続ける。


「お前が誰かとそういう行為をしていると知ったとき、胸がかき乱された。愛がないのなら尚更だ。もっと自分を大切にして欲しい。」


「俺にどうしろって言うんだ。俺がお前を好きだって言ったら、お前は俺を抱いてくれるのか?」

神宮寺は情けない声を絞り出す。
聖川はきっと、神宮寺を理解することはないだろう。
頬に涙が伝った。
最初から、放っておいてくれれば良かったのに。


「それはできない。」

聖川は即答する。
神宮寺は拗ねたような声を出す。恥ずかしくてやっていられない。それでも止まらなかった。


「段階を経ればいいんだろう。矛盾している。お前は、俺のことなんて好きじゃないんだ」
「…それは、お前の言葉が信じられたらという意味だ。だから、それまで俺はお前を抱くことはできない」

「お前には性欲ってものがないのか」

「ある。ただ、理想だからだ。」

「お前、それ愛じゃないよ」


神宮寺が吐き捨てると、聖川は神宮寺の体を抱き寄せた。頬の涙は乾いている。


「お前の望みを叶えないからか?俺自身、当惑していると言っただろう?お前はお前が愛せる人間を探してくれ。」

「俺は…」

聖川の切なげな表情が目に入り、神宮寺は言葉を失う。


「なんて顔してんだよ…」


「だから、俺はお前を絶対に抱かない。」


寂しさを紛らわすだけの存在にはなりたくない。
聖川はそう続け、神宮寺の体をいっそう強く抱き締めた。


神宮寺はどうしていいかわからなかった。
ただ、この真っ直ぐで真面目な男を巻き込んでしまったことが、ひたすら申し訳なかった。


抱いてなんて言えない。当然、愛の言葉も言えない。

神宮寺は自分の気持ちがわからなかった。


密着した人肌の温かさに、再び涙腺が壊れたように、静かな涙が流れた。




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