美しい人
聖川は息を切らしながら走る。 こんな風に全力で走るのは一体何年ぶりだろうか。 冷静に考えながら、身体が軋む感覚に、タクシーを飛び降りた数秒前の自分に後悔した。
まだまだ渋滞が続いているし、正しい判断だったはずだ。もっと言えば、昨晩締切にも余裕がある原稿なのに、異常に筆が進む状態を止めるのがもったいなくて、ついつい明け方まで進めてしまったのが問題だった。今そんなことを後悔しても、どうしようもないことだけど。
自分の書いた作品が、映画化する。
まるで夢のような現実を担当編集から聞かされたときを思い出す。
そもそも小説家になれたのもまぐれのようなものだった。さして大きな賞も取ったことがなく、いつまでもフラフラとしていた聖川を見兼ねた父が、大財閥という己の権力で半ば強引に売り込んだというのが大きい。
今でも頭の上がらない父に、やっと胸を張れるかと思えば、この体たらくである。情けない。
激しい呼吸を繰り返したせいで、脳に酸素が行き届かず、くらりと意識が遠のく。なんとか体制を整えて、膝を抑えてたちどまる。車道は相変わらず渋滞の車がじわじわと、ひしめいていた。息を整え顔を上げると、薄くぼやけた視界に、煌びやかな灯りが飛び込む。 映画祝賀会のホテルの入り口だ。担当編集が、大きく左右に手を振っているのが見えた。
どうやら間に合ったようだ。 聖川はほっと息を吐いた。
「聖川さん、珍しいですね、ギリギリなんて」
「申し訳ありません、他の原稿に没頭してしまって…」
入口で待つ担当編集の一ノ瀬に頭を下げて謝罪する。同時に、きっちりとしたスーツを身に纏った一ノ瀬を見て、自分の身なりが正式な場には些か不適切なことに気が付いた。
セットもせず、起きたままの無造作な髪に、着古したTシャツ、ジーンズではないがくたびれたチノパン。遅刻しないようにと急いでいたとはいえ、なんとも情けない格好に思えた。
一ノ瀬もそれが少し気になったようで、申し訳なさそうに聖川に言葉をかけてきた。
「聖川さん、スーツだけでも借りられるか、ホテルに聞いてみましょうか」
「す、すまない……」
俯きがちに謝ると、ホテルの扉が開いた。
「あれ?もしかして、小説家センセイ?」
甘く響く人懐こい声にはっと顔を上げると、見たことのない程の美麗な男と視線がかち合った。
「あなたは…?」
一ノ瀬が怪訝な顔でその男を見る。
明るい金糸の長髪をひとつにまとめ、仕立てのよい生地のストライプスーツに長い手足を身に包んでいる彼は、まるでテレビに出ている俳優のようなオーラを放っている。聖川の方はというと、ただただ見つめることしか出来なかった。
彼は聖川から一ノ瀬に視線を移し、流麗な所作で会釈をした。
「不躾にすみません、私は本日の映画化発表会の出演者のためのメイクと衣装を担当しています、神宮寺レンです」
「ああ、本日は俳優の方も来ますしね」
一ノ瀬が納得の声を上げた。そして、ちょうどよかったというように言葉を続ける。
「大変申し訳ないのですが、この方の衣装を貸していただけないでしょうか?先ほど仰られた通り、原作者の方なのですが、多忙のため準備が整っていなくて」
後で支払いは致しますので、と一ノ瀬が続けると、神宮寺と名乗った男は唇の端に笑みを浮かべ、肩をすくめた。
「声をかけたのは、磨いたら光る原石を見つけたからなんだ。支払いとかは特に気にしないから、ぜひ俺にやらせてくれませんか?」
普通に話しているようなのに、随分挑発的な色香を放つ男だ。こんな男が裏方など、少しもったいないな、と聖川は思った。
「いえ、きちんとお支払いはさせて頂きます。聖川さん?」
「は?」
「もう時間もあまりありません、彼といってください」
「こっちだよ、小説家センセ」
神宮寺は苦笑いをしながら聖川の手を掴み、メイクルームへ案内してくれた。
「なかなか堅物そうな担当さん?だね」
椅子に座り、メイクが始まった。手の甲に丸く塗ったファンデーションを少しずつ肌に伸ばされる。
「ん?ああ、厳しいがとても頼りになる」
神宮寺の自分を見る真剣な眼差しにたじろぎながらも、聖川は答えた。変な風に声が裏返ってしまい、格好が悪い。
「やっぱり、思った通りだ。すごく肌が綺麗だよね。こんなふうにするのは初めて?」
「あ、ああ」
「そうか、緊張しないで?ちゃんと綺麗にしてあげるから」
耳元に吐息交じりで囁かれるとメイクではなく色っぽい何かをしているようで、聖川の頭は混乱した。
「綺麗というよりは、その、男性的魅力を出したいのだが」
「美しさだって男性的魅力の一部だよ?でも、そうだなあ…」
キスをされるのではないか、という距離で、耳をなぞるように触れられた。神宮寺が横に移り肩を叩き、正面の鏡を見るように促される。
普段は真っ直ぐに頬の横を流れる髪が、耳にかけられている。
「こうすると、より色っぽい」
「色っぽいというのは、貴方のようなことをいうのではないか」
確かに雰囲気は変わるが…と、あまり自分の容姿に関心のない聖川が言うと、神宮寺はくつくつと笑った。
「言うね、センセ」
「そうか?」
「うん、面白い。ああ、もうそろそろ時間だ。衣装は大体決まっているんだ。白もいいと思うんだけど、黒いデザインスーツに、胸元にブルーローズ。センセイは、寒色系のイメージだね」
その、センセイというのはやめて貰えないだろうか、聖川の頭にそんな言葉が過ったが、神宮寺に急いで、と衣装室に手を引かれたため、言いそびれてしまった。
神宮寺の手によってあっという間に外向けに変身した聖川を見て、一ノ瀬は驚きつつ聖川を席へと急かした。きちんと神宮寺に挨拶しようと思ったが、慌ただしくそれも叶わなかった。
司会が開始の宣言をしてすぐに、一ノ瀬が会場に入ってきた。役者の挨拶や、お披露目が終了してから、立席式のパーティとなる。一ノ瀬が近くにきて、「きちんと神宮寺さんにはお支払いしてきましたから」と事務的な報告をした。
「あと、以前から言っていましたが最後に原作者の聖川さんから挨拶をお願いされています。あまりマイナスなことはおっしゃらないように」
「ああ、分かっている」
聖川は視線をあちこちにやりながら、投げやりな返事をした。会が始まってからずっと神宮寺を探しているが、見つからないのだ。もしかしたらスタッフは参加しないものなのかもしれない。
一ノ瀬が心配そうな声を上げた。
「聖川さん、もしかして、神宮寺さんを探しておいでですか?」
「ああ、彼は参加していないのか?」
「先ほど持ち込んだ道具などは片付けてから参加するとおっしゃっていましたが……、ああ、私が探してきますので、先生はご対応なさってください」
一ノ瀬は聖川の周りに近づいた記者に気づき、会場を出て行った。あまり知らない人間と話すことに長けていない聖川は、心細さを感じる。
そういえば、神宮寺と話しているときは、そんな不安を全く感じなかったなあ、と思い出していた。
「それでは、最後に本作品の原作者である聖川真斗さんに、お言葉を頂きたいと思います。聖川さん、壇上にお上がりください!」
会が進んでも、一ノ瀬と神宮寺は帰ってこなかった。司会の言葉に聖川が、落胆しながらも壇上に上がると、ざわついていた会場が一気に静まり返った。
会場全体を見渡せる位置で、神宮寺を探すが、やはり見当たらない。諦めてマイクを持って話し出そうとした瞬間、会場の扉が開いた。
一ノ瀬と神宮寺だ。静寂の中、扉が開けた彼らはいささか目立っていたが、二人とも涼しい顔で頭を下げていたため、変に思う参加者はいなかった。
聖川は会場の一番端にいる神宮寺から目を離せない。神宮寺は聖川の視線を知ってか知らずか、また愛想のよい表情で笑った。
「では、聖川さん、お願いいたします」
「はい。この作品は私が高校生の頃に構想した話で……」
用意していた言葉を紡ぎながら、聖川は神宮寺から目を離せなかった。
無事に最後の一言を終え、会は滞りなく終了した。
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