スーツを脱いだ後に
「俺は別に、気にしないけどな」
同期の中に、ゲイだと噂される人間がいた。下世話な話に盛り上がる同期に、神宮寺は冷めた目を向けて言い放った。研修中、唯一神宮寺を見直した瞬間でもあった。
*
「あ……すまない、神宮寺」
神宮寺の傷付いた顔に、聖川は反射的に謝罪した。すぐに神宮寺は強気な表情に戻り、聖川のネクタイを掴んだ。
「っ、」
「だとしたら?」
挑発的な笑みが放つ妖艶さに聖川は息を呑む。神宮寺のペースに巻き込まれないように、身体を離した。
「情けないな、聖川」
「……」
神宮寺は肩をすくめ、唇の端だけで笑う。その後、期待はずれといったように、あからさまなため息を吐いた。
聖川は沸き上がる苛立ちを必死に押さえつけながら努めて冷静な声を出した。
「全力で止める。あの時と同じようにな」
神宮寺の表情が一瞬固まる。ネクタイを握る指先が微かに震えた。
きっと、彼自身も忘れてはいないのだろう。聖川は我ながら卑怯なカードを使ったと思う。
お互い、無意識に話題に出すことを避けていた。けれどそろそろ、向き合って、前に進むべきだろう。
お前も、そして俺も。
二人は見つめあったまま、研修時代に体験したあるシーンを思い起こしていた。
*
「ぁ、……」
それは社会人になって初めての研修旅行だった。羽目の外せる同期同士飲み会が開催され、各々が酔いつぶれれば、自由に就寝しているような状況だった。
同期が騒ぐ様子を微笑ましく思いながら、聖川はトイレへと席を立った。 まだ神宮寺のこともきちんと認識していない時期だったため、個室からその声を聞いたのは、偶然のことだった。
「や、め……」
「どうして?どうせ初めてじゃないんだろう?」
下卑た声に悪寒が走る。卑猥な水音に、個室でこの場にそぐわない行為が為されていると、疎い聖川にも分かった。
「や、……っ」
聞こえてくる微かな拒絶の声から、合意ではないことは明らかだった。そのまま知らない振りをして出ていってもよかったが、聖川の生真面目さがそれを許さなかった。
「すみません、大丈夫ですか?」
声の聞こえる個室のドアを叩く。閉ざされた向こう側の誰かがはっと息を呑むのがわかった。
「具合が悪いのなら、誰か呼んできますけど」
聖川が叫ぶと、ガタガタと尋常ではない音と、悲痛な叫びが耳に届いた。
「助け……っ」
「この馬鹿!ちっ、」
盛大な舌打ちと共に、個室の扉が乱暴に開かれ、中から40代くらいの男が逃げるように出てきた。あまりに突然で視界の端でしか捉えられなかったが、確か新入社員の教育担当だった男だ。
とんでもない会社に入ってしまったと思いながら個室の中を覗くと、神宮寺がいた。正確には、名前も知らなかったため、「ゲイを庇った男」がいた。
「大丈夫か」
聖川はそれだけしか言えなかった。乱れた着衣と露になっている上気した肌に釘付けになっていた。
「大丈夫に見えるか?」
神宮寺が乾いた笑いをこぼし、衣服を直しながら立ち上がる。不意によろめいた彼の体を支えると、ふわりと甘い香りが髪から漂った。
おかしいくらい心臓が高鳴り、動揺した。自覚したことはないが、自分は同性愛者だったのだろうか。そういった嗜好を揶揄する輩に不快感を持ったのは、正義感ではなく、自分を否定されたから?
定かなのは、神宮寺には男女問わず人を惹き付けるフェロモンがあるということだった。
自分と同じくらいの、もしくはそれ以上の身長の男を抱き抱えながら冷静に言い聞かせる。
「大丈夫じゃなさそうだな。寝室に送る」
「ん」
もしかしたらさっきの出来事は同意の行為で、自分は無粋なことをしたのかと思った。しかし、素直に頷き聖川の服の裾をぎゅっと掴む神宮寺を見て、これが間違いではなかったと安堵した。
神宮寺にあの状況になった経由や理由を聞くことは出来なかった。
聖川は自身に芽生えた感情に蓋をするために、懸命に「可哀想な同僚を介抱する男」を演じた。
寝室で神宮寺が眠りについた後も、その寝顔を見つめながら、聖川は沸き上がる感情について自問を続けていた。
*
二人見つめ合い、何分ほど経過しただろうか。本当は数秒かもしれないが、やけに長く感じた。
突然サーバーが停止する20時を告げるアナウンスが社内に流れ、緊張の糸が切れた。
「帰るか」
神宮寺が背中を向け、PCの電源を落とす。はぐらかされたと感じ、聖川は焦った声を発した。
「飲みにいかないか?」
金曜の夜を理由に誘い文句を紡ぐと、神宮寺の背中が一瞬止まる。
「お前と?何を話すっていうんだ」
「社内では話せないことだ」
聖川が答えると、神宮寺は鞄を手に取り、聖川の方へ向き直った。やはり駄目か、と諦めた瞬間、神宮寺が普段と変わらない調子で提案してきた。
「ホテルならいい。行こう」
今度は聖川が固まる番だった。
*
神宮寺に連れられ、会社近くのビジネスホテルに入った。
男二人なのに六畳ほどのセミダブルの部屋に通され、聖川はドアを開けたまま立ちすくんだ。
先に入った神宮寺はスーツの上着を脱ぎ、カッターシャツの釦を外し始める。
「神宮寺!」
「入れよ」
仕方なくドアを閉め、神宮寺が座るベッドの横に立つ。
「座らないのか」
「俺は話に来たんだ」
「お前、それ天然?まあいいや、いきなり取って食ったりしないから。ほら」
ぼんぽんとシーツを叩き、神宮寺の横に座るよう促された。
自嘲気味な表情の神宮寺を不思議に思いながら、聖川は腰を下ろす。
ネクタイを緩め、神宮寺の横顔をぼんやりと眺めた。
営業には珍しい明るく肩まで伸びた髪を指で遊びながら、居心地が悪そうに体を動かしている。さっきは余裕がある雰囲気だったのに、こうしたちぐはぐな態度を取ることが神宮寺にはあった。
あの日、神宮寺を助けた日も聖川はそんな神宮寺に違和感を持っていた。
「で、なに?」 「え?」 「話があるんだろ」
神宮寺が何を考えているのかと思っていると、苛立ったように催促されて、はっとする。聖川は意を決して先刻はぐらかされた話題を出した。
「新人研修のときのこと、覚えているだろ?」
神宮寺がこちらを見て、肩をすくめた。
「ああ、覚えている。それで?枕営業ってか?」
「違う!あのときお前は嫌がっていただろう?」
失言を指摘され、聖川は強く否定する。
「だが、あのときは聞けなかったからずっと気になっていた。神宮寺、お前は何故あんな状況になったんだ?」
神宮寺がじっとこちらを見つめてくる。質問の真意を図りかねているのか、返答に窮しているのかわからない。美しい顔をしているから、彼の無表情はいっそう冷酷に映る。
「あの夜、俺は嫌がってたと言っただろう?無理やり連れ込まれたんだよ」
「トイレの個室にか?あの夜、俺たちは同期同士で宴会をしていた。新入社員以外の人間は各々の部屋にいたはずだ。どうして神宮寺がトイレに立つ瞬間に合わせることが出来た?」
聖川が畳み掛けるように問いただすと、神宮寺は冷静なトーンで返した。
「待ち伏せされてたんだよ、トイレに行ったらいきなり連れ込まれた。そしたらちょうどお前が来て、助けてくれたんだろ」
神宮寺の答えに、聖川の疑問は深まる。彼は嘘をついている。理由はわからないが、確信があった。
「神宮寺、俺はあのとき、お前が出ていった時間を覚えている」
「は?」
「少なくとも一時間は経っていた。けれど、俺がトイレに行ったとき、お前は今まさに襲われそうだったよな?」
「……俺がお前より一時間早く席を立ったという証拠は?」
鋭い視線に捕らわれて、聖川の鼓動は早まった。
「覚えてたんだよ」
聖川が続ける。
「お前が席を立ったのは、同期に同性愛者がいるらしいという噂で盛り上がっていたときだ。お前は『気にしない』と言いながら、機嫌が悪そうに出ていった。」
「……」
神宮寺は初めて驚きの表情を見せた。
「俺も忘れてたのに、すごいな、聖川」
「そうか?お前は目立っていたからな」
「そう?案外お前もゲイなのかもな」
洒落にならない台詞を何気なく口にしながら、神宮寺は不敵に笑う。
「神宮寺、あの日何があったんだ?」
言外に、「お前の方から誘ったのか?」と酷い意味を込めた。聖川自身も、何故こんなにもしつこく食い下がっているのか理解できなかった。
異常な執着は一端見せてしまうと止まらなくなる。聖川は神宮寺を誘ったことを少し後悔した。
「申し訳ないが、言った通りのことしかない。確かに宴会場から出たのは早かったが、トイレに行く前にうろうろとしていただけだ」
「本当に?」
「本当だ。お前だって俺が出たとき、真っ直ぐトイレに行ったかなんて証明できないだろ?」
確かに神宮寺のいう通りなのだが、どうも釈然としなかった。けれど、これ以上話すのも無駄のような気がした。
神宮寺もそう思ったのか、ベッドから立ち上がったので聖川もそれに続く。
「神宮寺、帰るのか?別に寝ていっていいぞ?俺は近いから」
「本当、天然だな」
神宮寺はふっと吹き出し、備え付けの冷蔵庫から缶ビールを取りだし、一本を聖川に渡した。
「帰すわけないだろう。ほら、飲もうぜ」
挑発的に笑う神宮寺に、聖川ははっきりと彼についてきたことを後悔するのだった。
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