首筋にキス

「枕営業でもしているんじゃないか」


時間を戻せるというならば、戻したい。

なぜ、あんな酷いことを言ってしまったのだろう。


一瞬だけ見せた、傷付いたような奴の表情が頭から離れない。


俺は、奴が本当は繊細で気にしいで、弱い人間だと知っている。


なのに、激情に任せて、心にもないことを言ってしまった。


本当に取り返しのつかないことをしてしまったんだ。







聖川と神宮寺は社内でライバルとして有名だ。

年齢は神宮寺の方が年上であるが、同期で営業職として入社し、グループは違うが同じ部署に配属された。

二人とも新人にも関わらずトップクラスの成績を常にキープしており、上司などに比較されることが多い。


二人とも、そんな社内の様子には沈黙を決め込んでいたが、お互いの存在を多少は意識していた。

聖川は、正直神宮寺のことが苦手だった。


モデルのようなすらりとした長身に、女性に好まれる甘い容姿、余裕のあるスマートな雰囲気は、聖川が持っていないものだからだ。


女性を口説くように顧客に商品を勧める話術も、飄々と仕事も遊びも楽しんでいるような要領の良さも、聖川のコンプレックスを刺激する要因だった。

だから、自分から話しかけるということはめったになかった。






金曜日は、オフィスに人がいなくなるのが早い。その日は土日の計画停電に合わせ、社内サーバーが20時には停止される予定だった。


聖川は月曜日に顧客との打ち合わせに使用する資料を作成していた。終了の目処が立ち、はっと時計を確認すると、19時半を指していた。周囲の人間はほとんど帰宅しており、PCの音も聞こえないせいかフロアは静まり返っていた。


辺りを見渡すと、入り口間近の聖川の席からちょうど反対側に座る人間が視界に入った。


珍しいこともあるものだ。


時折伸びをするその背中は神宮寺だった。人気者である神宮寺が金曜日に残業をしているなんて、不思議に思う。


好奇心が首をもたげ、聖川は席を立った。20メートルほど先の神宮寺は集中しているのか、聖川が肩を叩くまでその存在に気付いていない様子だった。


「神宮寺」


「わっ、びっくりした。聖川か」


神宮寺が椅子ごとこちらを振り返り、頭を掻いた。久しぶりに見る表情は、少し疲れているように見えた。


「珍しいな、お前から声をかけてくるなんて」


「まだ仕事か?お前も、金曜日に珍しいな。今日は20時にサーバー落ちるから、気をつけた方がいいぞ。忘れているかもしれないと思ってな」

「相変わらずお人好しだな。月曜の資料を作っていたんだが、もうそろそろ帰ろうかと思っていたんだ」


神宮寺が乾いた笑いを浮かべた瞬間、聖川はドキリとした。


普段聖川に対しては険のある態度であるのに、どうも違ったのだ。何故かその笑顔が弱々しく、儚げで、どこかに行ってしまうのではないかと不安になった。


何馬鹿なことを考えているのか。聖川は自分の心情の変化に戸惑い視線を落とすと、神宮寺の開かれた胸元が目に入った。思わずため息が溢れる。


「神宮寺、暖かくなったとは言え、まだクールビズではない。ネクタイはともかく、きちんとシャツのボタンを締めろ」


「いいじゃないか。客先でもないんだし」


「だめだ」


拗ねたように唇を尖らす神宮寺をたしなめ、聖川は神宮寺に近付いた。上から三番目まで大胆に開かれたシャツの襟に手をかける。

大人しくしている神宮寺にやはり違和感が浮かんだが、首筋にある鬱血に気付いた瞬間、そんな感情は全て吹き飛んでしまった。


「神宮寺、これはなんだ」


「ん?」


聖川は自分から出された低い声に驚いた。この感情は怒りだ。


「なんだよ、なんだっていいだろ?妬いてるのか?」


神宮寺はからかうような口調で笑った後、その鬱血を隠すように聖川の手を払い、シャツの襟を手で寄せ合わせた。


プレイボーイの神宮寺のことだ。ガールフレンドの一人や二人に、うっかり付けられたものかもしれない。


しかし、聖川の頭の中には一つの答えしかなかった。そしてその事実は聖川の怒りを倍増させた。

嫉妬からくる馬鹿げた妄想だと、理性では可能性を否定している。


けれど、神宮寺には以前も同じようなことがあったのだ。信用できるはずがない。


聖川は乱暴に神宮寺の手を取り、再び首筋を露にさせた。


「っ、何を、」


「誰にされたんだ?どうしてさせた?言え」


命令口調に反抗心が沸いたのだろう、神宮寺は眉をひそめた。しかし、次の瞬間、聖川の行動に驚愕することになる。


「つ、……」


聖川が神宮寺の首筋に噛みついたのだ。故意に鬱血に重ねて。


「聖川?」


真面目で堅物、相性がいいとは言えない同期の行動に、神宮寺は不思議に思う。聖川の表情は、怒っていた。何がそんなに、気に入らないのだろう。


聖川の方も、嫉妬のままに大胆な行動に出た自分自身に自問していた。


俺は何てことをしているんだ。


淫猥な夜の行為を想像させる忌々しい痕に噛みつき、口唇で吸い付いた。


甘い。理性の警鐘は最初だけで、後はひたすらに、その甘さに酔いしれた。舌先で首筋をなぞり、もう一度その薄い皮膚を口に含もうとした、瞬間。


「聖川!」


神宮寺の制止に聖川ははっと我に帰る。


「聖川、お前……疲れてるのか?」


神宮寺の呆れた顔に、かっと頭に血が上る。オフィス内で、しかも神宮寺に対して、こんな愚かな行為をしてしまうなんて。


自己嫌悪に陥っている聖川が面白かったのか、神宮寺が聖川に近付いてきた。


「欲求不満か?勃ってるぞ?」
からかうように笑い、パンツの上から聖川の屹立に触れてくる。自分が勃起していることに初めて気付いた。


羞恥と悔しさに聖川は神宮寺を睨み付ける。と、神宮寺は自身の唇を舌で舐め、挑発的な目を向けた。


「神宮寺?」


「舐めてやろうか?」


ちらちらと、赤い舌が覗く。明らかに、馬鹿にしている。聖川はなんとかして、神宮寺の余裕な表情を崩したいと考えた。

「神宮寺、お前、枕営業でもしているんじゃないか」


そうして、冒頭の失言に至るのだ。



 

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