「やっぱり少しだけ、変わってるみたい」

下調べの段階では地下2階の金庫室に保管されていると掴んでいたのだけれど、警備員の配置や人数からして、地下3階か4階に移されたのだと思われた。
仕方なしに右手を掲げて、その手のひらにポンッとカメラを出現させた。私は具現化系の能力者だ。

「名前のそれを見るのも久しいな」
「使い勝手が悪いから、最近は随分ご無沙汰してたの」

このカメラは撮った物の情報を否応なしに引き出す事が出来る。それは物質にも有効であるため、この距離からでも中の仕組みと保管場所の位置くらいなら特定出来るだろう。
私達は今、隣の廃ビルの屋上にいる。
バシバシと撮った写真が、レシートのように排出口から出てくる。クロロはそれを面白そうに見ていた。

「はい。これで資料は揃ったと思うよ」
「ありがとう。手際がよくて助かる」
「報酬はいつもの口座にお願いするね」

ふう、と1つ息をはいて見上げた空は、橙と紫を織り混ぜたうすぼんやりとかがやく白の境界線を引いて、もう夜を迎え入れる準備をしているようだった。
穏やかな心持ちでいたら、穏やかな声でクロロが言った。

「何か食べにいこうか」

ぱっと顔を輝かせて、頷いた。なんだかんだで昼も食べ損ねていたから、おなかはとんでもなくすいていたのだ。そんな私を見て、彼は笑った。

「おいしいものが食べたいな。どうしよう?私はあんまりヨークシンに詳しくないから、クロロが決めてくれるとありがたいんだけど」
「俺も全然知らないよ。ここの近くだと、たしかちょっといい洋食屋があるってシャルが言ってたな」
「じゃあそこにしよう!シャルにすすめられた所って、今まで外れたことないんだよ」

大通りからはずれた路地裏に、ひっそりとその店は存在した。
煉瓦造りの、趣のある風貌に、小綺麗にされていて、あたたかみのある花冠の白熱灯が照らしている。落ち着いていて洒落た内装とその雰囲気に、私はすぐに気に入った。
さすが、シャルが言うだけあるなあ。
80年代のジャズ音楽が、主張しすぎないちょうどほどよい程度で流されていた。店内もほどよく賑わっている。何もかもがほどよくて、そういうものが醸し出す絶妙な雰囲気は、ふっくらと余裕を含んでいて、とても居心地がよい。

そこで、ああ、あのイルミと一緒にいた時間は、余裕から生まれたものだったのだと気付いた。
ちょっとずつ不思議なこととか、偶然とか、そんな曖昧なものたちが重なって生み出したあの奇妙に落ち着いた空気が、本当なら感じることなんて絶対にない、あれは奇跡だったんだ。

席についた時にそれに気付いたので、ふふっと笑うと向かいのクロロは不思議そうな顔をした。

「なに、何か良いことでもあった?」
「ふふ、ちょっとね。ねえ、クロロは奇跡って信じる?」
「奇跡?」

我ながら奇跡とは、言ったものだ。そう思った。
付き合いの長いクロロなんかからすれば、驚きだろう。旅団員の中でも群を抜いてそういう類のものを信じていなかったのは、私だったから。

少し考えるようにしてから、真面目な顔をして彼は言った。

「俺は信じるかな。信じるというより、俺はこの世の全てが奇跡だと思ってる。この世界の出会いは、奇跡だ」

クロロは言った。

「あそこで生まれ育って、名前と生きている事が、俺には奇跡だよ」

私は言葉をなくした。狼狽えて、クロロの顔を見つめた。
どうして。彼の言葉に私はいつも思う。なぜ。

「なんでって顔してる。俺はいつでも、名前を想って生きてるよ」
「…クロロは、いつだって私が嬉しい言葉をくれるから、」


こわい。

その言葉は飲み込んだ。
彼がいつか私に飽きて、捨てられる日がきても、私はそれを嘆くべきではないのだ。もとよりお互いに、そういうつもりで付き合っているのだから。

「名前がらしくない事を言うのも、その"良いこと"に関係あるの?」
「うーん、ひみつ」

別に秘密にする必要はまったくもって皆無だったのだが、なんとなく秘密にしておきたいと思った。後ろめたさとか、彼がゾルディックの人間だからとか、そういうのでもなく。

「悪い虫でもついたかな…」
「ん?何か言った?」
「いいや、なんでも」

真面目な顔をしてしばらく思案していたから、言及しようとしたところで食事が運ばれてきて、会話は一時中断された。

きれいな金色に輝く、ふっくらとしていて、絶妙にとろとろの半熟オムライスと、度数のきつい年代物の赤ワインに、心が踊る。
料理はとんでもなく美味しかった。程よく甘いたまごと、ケチャップライスが絶妙にマッチしていて、温かくて、とけるようにじわじわと舌の上で味を広げていく。下手に高級なレストランなんかより、格段に美味しかった。
現に食にあまりこだわりのないクロロも、少しびっくりしていた。

「今すごくシャルを抱き締めたい」
「満足そうで何よりだよ。昔から食べ物にはうるさかったからな」
「おいしいものは内側から人を綺麗にしてくれるものよ。しあわせって食で繋がっていると思う」
「美食ハンターになったらいいんじゃないか?」
「それも考えたんだけど。この仕事気に入ってるし」

それに、外側から旅団に関わるために、私は情報屋を選んだ。そういう形で彼らに関わっていくことを望んだ私のあり方だから。




ぺろっと平らげて満足しつつ店を出ると、もうすっかりと夜になっていた。分厚く紺色に塗り潰された夜空が、ネオンのキラキラ光る夜のヨークシンの街を、すっぽりと包み込んでいた。
ここは眠らない街なんだ。そう思った。
そうして自然と、クロロと視線が交わって、そのまま見つめあう。
美味しいものを食べて、気持ちよく酔ったところで、夜で、彼は男で、私は女だった。ただそれだけだ。
パチパチときれかかった外灯の下で、ゆっくりと口付けた。スケベ心丸出しの、いやらしいキスだった。牽制されて、ごくりと喉が鳴る。貪るように、何度も何度も啄んで。

この人を愛するために生まれてきた。

そんな錯覚すら覚えて、うっすらと涙が滲んだ。私は、悲しみの海に身を沈めていった。息もできない程に。

この人を好きだと素直に言えたなら、どれだけ、どれだけよかっただろう。
見透かしたように唇を離したクロロが、切なげに顔を歪める。

「いつからだろう。名前が俺に好きって言わなくなったの」

気付いていたんだな。心臓が締め付けられて、キリキリ痛んだ。何も言えなかった。

「帰ろうか」

1つそっと触れるだけの口づけをして、離れようとする彼に、どうしようもなく切なくて、苦しくて、居たたまれなくなった私は、その手を咄嗟に掴んだ。少し酔っていたせいだ。いつものように理性での歯止めは、きかなくなっていて。

「クロロ」

名前を呼べば、驚いた顔をした彼に、どうしようもなく愛しさが溢れて、その拍子にぼろぼろと涙も零れた。

好き。好きよ。
言えないその言葉はあふれでる涙にのせて消化した。
複雑な表情で、クロロは私の涙を拭った。

「笑い上戸の人は本当は笑いたいし、泣き上戸の人は泣きたいから泣くって、聞いたことがある」

クロロは言った。

「泣きたい程つらいんだな。俺に関する事で」
「…だいたい合ってる」
「こう言うとアレだけど、ちょっと嬉しい」

そう言って困ったように笑うから、なんだそりゃと、なんだか気が抜けてしまって、つられて私も笑ってしまった。
こういう所で悔しいな、救われてる、と思う。

「寄ってく?だいぶ部屋らしくはなったと思うけど」

もちろん家に、という意味だが、私がぐずぐずと鼻をすすりながらそう言うと、クロロは深刻そうな顔をして、いいの?と聞いてきたから、別にいいよ、とぶっきらぼうに答えた。私のせいにしないでほしい。

「名前がいいなら」
「嫌だったら誘ってないよ」

都心から少し離れただけで、裏路地は恐ろしいほどに静かだった。二人ぶんの足音だけが夜に木霊する。星なんて全然見えないのに、空は明るくて、それが一層寂しさを募らせた。

「随分前に、言ったよね」

私は言った。

「俺達は流星のミナシゴだって。あれってどういう意味?」
「そんなこと、言ったな。そのままの意味だよ。ミナシゴって孤児って書くだろう?燃えて、落ちて、何も残らないはずだったけれど、まだ光っていた。俺達は隕石みたいなものなんじゃないかって」
「どちらかといえば、私はクロロがブラックホールだと思うけど」

そう言うと、キョトンとした後に、何が面白かったんだか分からないが、盛大にクロロは笑った。

「ブラックホールか、いいね」

だって、そうじゃない。欲しがって、すべてを飲み込んでしまう。私たちもその引力にひかれて集まった、小さな星にすぎないんじゃないの?
彼を前にして、私は言いたいことを言えないでいるばかりだといつも思う。












「随分と、遠い所まできてしまったんだな」

布団の中で、消え入りそうな声で、彼はぽつりと呟いた。
限りなく透明に澄んだ空気が、部屋をまるごと飲み込んでしまったようで、私は怖かった。

電気もつけずに部屋に入ってすぐ、言葉もほとんど交わさないままに、そのままベッドにもつれ込んだ。
馬鹿みたいに何でだかふたりして切羽詰まっていて、熱くなりすぎた身体に反比例するように、ぞっとするくらい冷たすぎる彼の指先が、私の核心に触れて、はっとして涙が零れた。
別に痛いとかそういう事ではなかったし、彼もそれは分かっていたと思うが、見上げたクロロの顔があまりに傷付いたような顔をしていたから、私は心底狼狽えて、お互いにごめん、なんて、うわごとのように何回も何回も言いながら、その全然違う身体を、抱き締めて、泣いた。

優しさとは程遠いものだったのに、死ぬほど愛しあっていた。そういうセックスだった。

本当に、随分遠いところまできてしまったんだなあ。
本当は、あの時、あの夏、私達は一度でもセックスなんてすべきではなかったのかもしれない。そんなことはしょっちゅう考えていた。けれどきっと、あの最初がなくても、私は何にせよ彼と寝ただろう事は、考えなくても分かっていた。

うっすらと白く濁った私の哀しみが、夜に溶けだして、深く深く傷ついて、だからこそ紺色の闇は恐いくらいに美しく澄んでいた。

夜の縁を私たちはさ迷っている。
いつでも、白く光る夜明けを恐れて、何もかもが夢のように消えてしまう夜を抱えるように、手を繋いで、寄り添って、迎える現実を恐れて、哀しみに包まれながら眠るのだ。


私達は弱いね。

厚い胸板にそっと顔を寄せて、規律正しく音を奏でる彼の心臓に、愛しさで胸がいっぱいになった。生きている。それだけで涙が滲んで、その唇にそっと口付けて。

「好きよ、ずっと…」

眠りにつく。聞こえていませんように。あわよくば、聞こえていますように。
矛盾した心を抱えて、私は夜明けの光を待つのだ。




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