ピンポン、ピンポンとチャイムを幾度か鳴らしてみると、今度は中から音がして、在宅であったことにほっとする。昨日の夜は気配がなかったので、朝方の帰宅だったのだろう。

1日で、という依頼だ。午前中には片付けてしまいたかったし、そうなると早めに自分の身辺のことは済ませておきたかった。
何故だか不吉な予感がして、それがこの件はとても長期戦になりそうな、そんな悲しい予感だったから。


ガチャリと扉が開く。

「隣に越してきたー…………え?」
「また、凄い偶然もあるんだね」

その声に、姿に、咄嗟に本能が逃げろと告げた。しかし私が臨戦体勢に入るよりコンマ数秒早くがっちりと手首を掴まれ引き寄せられて、そのままガチャンと扉を閉められた。
口を開いたまま何も言えずに呆然と佇む私に、はあと溜め息を吐いた彼は相も変わらず無表情のまま言った。

「こっちは仕事明けで疲れてるんだから。面倒な事させないでよね」

そう、イルミは言った。

「……ここ、もしかして、もしかしなくても、」
「俺の家だよ」

頭痛と目眩がした。
何という事だろう!というより、有り得ない事だと!
何がどう偶然で、顔見知りの殺し屋の隣の部屋に、たまたま引越してくることがあるというのだろうか。チープな漫画じゃああるまいし。
それは彼も同じ考えだったようで、

「なに、名前って俺の事が好きなの?世に言うストーカーなの?」
イルミは言った。
「…前にも言ったけど、どうしてそこまで自意識過剰になれるの」
「だって、偶然にしては有り得ない事だと思うけど」
「それは私も思っているところよ…」

よくよく見ればすっきりとまとまって、統一感もあって、落ち着いた雰囲気の室内は、とても綺麗にされているけれど長く住んでいることが窺えるような箇所もちらほら見えて、本当にここを拠点にしているんだなあと他人事のように思った。
偶然でないならストーカーだと思うのも、まあ当たり前だろう。小さく溜め息を吐く。

「言っておくけど、私はあなたに対してカケラ程の興味も、関心も、ましてや恋心も抱いてないから安心して」
「イルミ」
「は?」

寄せられた顔の、鼻と鼻がつきそうなくらいの距離に、息がつまる。そのままその黒い瞳に呑まれそうだと思った。

「だから、俺の名前。アナタとかキミとか呼ばれるの嫌いなんだ」
「……イルミ」
「なに?」

このままだと非常にまずい気がして、ぱっと視線を背けた。男の人と付き合いがある(クロロだけど)とはいっても、耐性があるわけではなかったから、どんどん心拍数はうるさい程に上がっていた。

「そろそろ帰りたいんだけど。仕事があるの。まだ配線作業とかもしてないし、ネット環境整備しなきゃいけないから」

口に出すと、これからやらなければいけない事の意外な多さになんだか辟易として、小さく肩を落とした。
この仕事は好きだったし、苦にも思ったことはなかったけれど、こういう時にネット環境やら何やらを一から組み直さなければならないのが面倒で難点なところだった。

「じゃあこっちでやれば?」

ふむ、それがいいよ。と少し考え込むようにして言った彼に、はあ?と間抜けな声が漏れた。どうしてそうなる。

「なんで?」
「情報業なんだろ?ヒソカから聞いた。身内に情報に強いのが1人いるから、環境はそれなりに整っていると思うけど」
「いや、そうじゃなくて、なんでそんな見ず知らずの他人に」
「ちょうど俺も頼みたい仕事があるんだ。ミルキじゃちょっと荷が重いし、殺し屋の名前なら安心だと思うんだよね」

ピシッと、その言葉に、私の全神経が音をたてて凍り付いたようだった。
この人は、私の事を、殺し屋だと言った。はっきりと。分かっていたのだ。私が苗字の人間だということを…

「知ってたの」
「ヒソカから聞いた時にね。"苗字"って言ったら有名だよ。多分、名前が思ってる以上に。家だけじゃない。君の名前もだ」
「殺しは、もうしないって決めたわ」
「それでも」

苗字の毒は強すぎるのだ。
いつだって自分のした事以上に過大評価されたし、名前だけが私の前を一人歩きしていったように思う。
本来の私自身に、どれ程の価値があると言うのだろう。

不意にぽんぽんと彼に頭を撫でられて、顔をあげれば一粒ぽろっと涙が零れた。

「それなら名前が殺さなくても、俺が守るよ」
「……キザったらしい」

思わずくすくす笑ってしまって、なんだかむくむくと湧くように元気が出た。近頃やに昔の事を思い出して、悲しい気持ちになってばかりだったから。

「やっと笑った」
「え?」
「名前は笑った方が可愛いよ」

ボッと音が出たのではないかと思うくらいに、かっと顔が熱くなる。
あの黒ずくめの男も、私にそんな事をよく言う。
可愛いだとか、愛してるだとか。そんな陳腐で滑稽な言葉をどうしてなんの苦もなく、男の人はそういうものをさらっと吐き出せるものか。機会があったら今度聞いてみようなんて、頭の片隅で思った。













PCだけは自分のものを運びこんで、情報の漏洩は絶対にしない事を条件に、イルミの部屋を使わせてもらう事になった。

「億が一欠片でも漏らしたら、殺す」
「名前に俺が殺せるとは思えないけど」
「愚問だわ。どんな手を使ってもよ」

私は言った。脅しでも恐喝でもなんでもなかった。ただの事実だ。実質、私の2つ目の能力は、半分はその為にあるといってもいい。

「分かってるよ。ビジネスはそういうものだ」

肩を竦めた彼が、ふわあと1つ欠伸を漏らしたので「寝てたら?」と言うと「じゃあ起こして」と言われた。
当たり前のようにそんな会話をしている彼とは、つい先日知り合ったばかりの、ただのビジネスライクの関係なんだよなあ。
それを思うと、このなんだかよくわからないおかしな関係を、自分でも当然不思議に思う。
けれどこれまた不思議な事に、まったく不快ではなかったし、むしろ居心地がいいくらいのもので、しかも彼もそう思っていることもお互いにちゃんと分かっていて、二人の間に流れる空気はとてもよくわからない穏やかさで充ちていた。
不思議だな。彼と同じ空間にいると、懐かしいような、ほっとするような、そんな気持ちになる。

そのおかげもあってか仕事は驚異的にはかどった。後は地図と、品のリストさえ作れば、昼過ぎにはクロロのもとへ渡しにいけるだろう。
けれどそこに、少しだけ不安もあった。今の時点での保管場所の物は、まだオークションに出される3〜4割程度のものだろう。そこに奇襲をかけて根こそぎ盗れば、当然その分だけ、残りとそのオークション自体のセキュリティレベルは格段に上昇する。
全てを盗るつもりだと言っていたから、オークション当日も派手にやるのだろう。そこに、一抹の不安を拭えなかった。それはただの予感でしかなかったが、日増しにそのざわつきは膨らんでいった。
ぎゅっと瞑った目を、ゆっくりと開いて、止めていた手を再び動かす。
大丈夫だ。彼らならきっと、大丈夫。
そう言い聞かせるようにして。









仕事を済ませて、一息吐いた。ゆっくりとソファの方に向かっていき、イルミの寝顔を盗み見る。
「本当に疲れていたんだな」と思って、なんだか急にとても申し訳ない気持ちがしゅるしゅる湧き出てきて、淹れてきた珈琲をことりと横のテーブルに溢さないようそっと置いた。

長い睫毛。白い肌に、艶のある黒く長い髪が床にするりと落ちて、まるで寝顔は女の人のようだ。それでもしなやかな筋肉や、骨ばった手のひらは、しっかりと男の人のそれだった。
その異様にバランスのとれた中性的な容姿に、見惚れてしまって、だからその言葉も、うっかりぽろっとこぼれた。

「綺麗…」

さして大きくも小さくもない声だったが、閉じられていたまぶたが眩しそうに開かれて細められる。
掠れた声で、唸るように「おはよう」と、彼はちいさな声で呟いた。

「ごめん。起こしちゃったね」
「いいよ」

そのままゆっくりと伸ばされた腕が、私の身体を抱き寄せた。

「イルミ?」
「さっき、綺麗って言った?」

さっきまで寝ていたからだろうイルミの身体は熱っぽくて、子供体温だと思った。それに合わせるように徐々に私の体も熱を上げていく。
戸惑いながらも小さく頷けば、彼は小さく笑った。

「そう」

そしてさりげなく、そっと、そうするのが当たり前とでも言うように、彼は私の額にキスをした。

「おはよう、名前」

私は少しびっくりした。それを当然のように受け入れてしまった自分にもびっくりした。呆然としてしまって、そのまま5秒くらい見詰め合っていたような気がする。
混乱する頭で、私は言った。

「イルミ、ちゃんと答えてね」
「なに?」
「いつも女の子相手に、こういうことをしてるの?」

私がそう言えば、イルミもハッとして目が覚めたようで、不思議そうな顔をしながら少し考え込んだ。そしてすこし間を置いてから言った。

「いや……、名前がはじめてだ。目が覚めて、そこに名前がいて、キスしたいって思った」

それだけだよ。と自分でもよくわからないとでも言うような、驚いた顔をしていたから、私は素直に呆れた。

「それだけって。まあ本当にそれだけなんだろうけど」
「そもそも仕事が仕事だから、女の子の付き合いってないんだよね」
「ああ、それは分かるかも」

内心は少しの悲しみが薄く、限りなく透明な液体のように底に溜まって、小さく波紋を広げていた。それを私は放置した。そういうものはいつか勝手に心が消化して、跡形もなく消し去ってくれることを知っていたから。
イルミとこうしていると多分きりがないな、そう思って立ち上がった。時計を見ればもう午後の1時を過ぎるくらいだった。そろそろ行かないと、クロロに怒られるというより心配される。

「そろそろ行くわ」
「仕事終わったの?」
「今日中の約束だから」
「じゃあ帰ってきたら俺の方の依頼、頼むよ」

小さく笑って「了解」とだけ返した。面白い人だなあと思った。その感じは嫌いではなかったし、イルミのおかしさを受け入れて、素直に気に入っている自分がいた。


でも結局、その日の内に私が帰る事はなかった。





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