伊吹凪は悩んでいた。真面目な彼には珍しく、教師が読み上げる教科書の言葉も耳に入らないほど、その悩みで頭がいっぱいだった。
謳歌学園でも人気のある凪。競争率の高い彼の彼女というポジションを射止めた瀬戸唯は、たまに突拍子もない事を言い出す少女である。趣味は凪君観察で特技は凪に関する妄想をする事。自称凪君至上主義の唯の突然の言葉には慣れていたつもりだが、今回の出来事はあまりに酷い。知らずにいた自分にも情けなさを感じるが、朝に見た唯の笑顔とその口から告げられた事実を思い出すと、少しだけ腹立たしさを覚える。

「はあ……」

思わずため息が出てしまった。幸い、その嘆きのため息は誰の耳にも届かなかったようだ。先生は教室中を歩き回りながら、教科書に書かれている和歌をずっと読み続けている。その淡々とした授業内容に関心がない何名かの生徒は落書きに夢中になったり眠気を堪えたりと、凪同様、先生の言葉が頭に入っていないようだった。

「袖にさへ秋のゆうべは知られけり…――こら、起きなさい!」

和歌を読む穏やかな声が止むと、次に鋭い声が教室に響いた。これには凪もハッと我に返る。見ると、机に顔を伏せていた生徒に先生が注意を促しているところだった。

「私の授業で寝るなんて、いい度胸ね」

真琴が教師なら、きっと彼女も同じ言葉を言っていただろう。国語担当教師、藤原響子(独身)。真っ赤な口紅と挑発的な瞳が印象的な彼女は、女王様という呼び名が相応しい性格をしていた。男子生徒からの人気は勿論、女子生徒からの支持もある。

「だってよ、意味分かんねーんだもん。昔の言葉なんて、現代人の俺には理解不能です」

そうだよな、と賛同する声があちこちから上がった。そのなかに馨の声が混じっているのを、凪はしっかり聞いた。

「意味が分からないなら、真面目に聞きなさい」

当たり前の事ではあるが、その当たり前な事を受け入れられないのも若さ故。学生は勉強が仕事と言われて素直に頷く生徒なら、授業中に寝たりしない。そんな不満を察知したのか、藤原先生は教科書をパタリと閉じた。目を閉じ、僅かに頬を染める。
――キタ。
藤原先生の表情に、クラス全員の心が一致した。

「いいこと?歌はとても高貴なものなのよ。詠んだ人間がどんな性格なのか、どんな気持ちを持っていたのか、それがよーく出ているものなの。短い言葉の中でリズミカルに作者の主体性を表現する素晴らしい文化…悲しみや愛しさや喜びが詰まった沢山詰まっているもの…歌に触れる事で、作者の人物像が見えてくるの!」

この熱弁も今では慣れてしまった。女子生徒から支持を受ける事になった理由の一つでもある、この癖。藤原先生は、日本文化に愛を捧げていた。国語の教師になったのも、日本語の素晴らしさについて教える為だと言う。顔に似合わずのその性格が、女子にも受けているのだ。真琴の音痴がこれに当たるかもしれない。どうやら、人間欠点の一つや二つあった方が好かれるようだ。

「昔の貴族は、手紙のやり取りに和歌を使用していたわ。特に平安時代の人々は文字を使って感情を詩に書き残した事もあって、教科書等に載ってる多くの歌は平安時代からのものなの。当時は夫婦が一緒に住まないのも珍しい事じゃなかったから、全ての喧嘩は和歌でやり取りされたって記録も残っているくらい――そのくらい、詩というものは深いものなの!分かったかしら?」

恍惚とした表情を浮かべて熱弁する彼女に、分からないと言える勇者はいなかった。言いたい事を言い切った先生は満足げに笑み、閉じていた教科書を開く。和歌を読む声が再び教室中に響き渡り始めた。さっきまで顔を伏せていた少年も、藤原先生の剣幕で目が覚めたのか、真面目に教科書と向き合っている。少し騒がしいが、ほのぼのとした授業風景。これも青春の1コマだ。
………と、物語はまだ終わらない。藤原先生の熱い語りに流されてしまう所だったが、物語のテーマでもある『凪の悩み』はまだ解決していなかった。

何が欲しい?
そう聞けば、何でもいいよ、と唯は答える筈だ。それはきっと本心で、凪から貰った物なら埃でも紙クズでも大切にするだろう。だからと言って埃や紙クズを本当にあげるのは如何なものか。いや、問う必要もないだろう。凪の中では有り得ない選択肢だ。しかし、当日用意が出来て且つ唯が喜びそうな物が分からない。焦りだけが積もるなか、藤原先生の熱い語りが再び耳に入ってきた。

「この時代では、恋をした男性は意中の女性に恋文を贈ったのよ」

恋文、つまりラブレター。今はメール文化も発達している為、手紙という言葉は滅多に聞かなくなった。「メールしてね」とは聞くが、「手紙頂戴ね」とは聞かない。きっとラブレターよりラブメールの方が多い筈だ。メールでのコミュニケーションが圧倒的に多い世の中で手紙を出せば、新鮮な気分を味わえるだろう。それは、貰った方も同じなのかもしれない。

「……」

そうだ。ラブレターをあげたらどうだろう。安易な考えだが、自称凪君至上主義の唯なら喜んでくれると思う。

知らなくてごめんね。生まれてきてくれて、ありがとう。




9月22日、晴れ。
今日は瀬戸唯の誕生日である。

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