かなしき人よ、どうか手を | ナノ
▼ 01

朝起きる。
歯を磨いて顔を洗う。
母親と一緒に朝食を摂る。
家事をする母を手伝う。

「じゃあ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」

昼ご飯の作り置きをしてから仕事に出かける母親を見送って、それから自分の時間。
母親が帰るのはいつも夕方頃かそれよりも遅いから、その間少年は一人きりで過ごす。家の中で何もせずぼんやり終えることもあるが、大抵は外に出る。母と二人で暮らすには十分な広さがあっても、この家の中で少年の見知らぬものなど何もない。そんな中で一日の半分を過ごすのは、子供にとっては苦痛以外の何物でもなかった。

「行ってきます」

昼食を食べ、片付けまできちんとしてから家を出る。
出かける時にいちいち鍵をかける習慣がないのは、此処が人口総数50程度の田舎だからだ。子供達どころか、大人同士であっても顔見知りでない者などいない。気候の厳しい地域だから、外から来る者といえば月一の行商や気まぐれな旅人くらいしかいないのだ。そんな中で盗みの一つでも働けば、たちまち村中を巻き込んだ大騒ぎになるだろう。
だから少年も、出かける時に鍵などかけない。家に誰もいないのに「行ってきます」と口にしてしまうのは、何となく身についた癖みたいなものだった。

「さむ……」

北方の山岳地帯にあるこの町においては、たとえ秋でも着古した上着一枚だけでは心許ない。山頂にうっすらと積もる雪。あれが少しずつその面積を広げ、やがて山全体、そしてその麓にあるこの町もやがて真っ白になる。都会の人間は雪を見るとはしゃぎ出すらしいが、この村の人間にとって雪は厄介者以外の何物でもなく、少年もまた雪にロマンチックな幻想は抱いていなかった。

「クラウドだ」

家を出てすぐ目に入る小さな広場(というか、この村はその広場をぐるりと取り囲むように建つ家ばかりだ)の真ん中。そこで楽しげに会話をしていた子供の一人がこちらを見つけた。その顔には決して好意的な色などなく、寧ろ何かを忌避するようなものが浮かんでいる。「クラウドだ」という声に反応した他の子供も同様だった。

「あっちに行こうぜ」
「そうだな」

子供達はひそひそ話しながら何処かに去ろうとする。クラウドはそれを視界の端に収めつつも、結局何も言うことはなかった。大丈夫、こんなのはいつものこと。そんな風に自分に言い聞かせるのも、既にお手の物だった。

「ティファ、行こう」

もっと幼い頃から密かに憧れる、黒髪の美しい少女が手を引かれて行く様を見るのは、やはり切なかったし悔しかったけれど。

「はあ」

仕方が無いと肩を竦めて歩き出すのは、彼らが向かうのとは反対、村の北側だった。そちらにはニブル山と、あとはその更に麓に寄り添って建つ無人の洋館があるばかり。地元の人間はそのどちらにも好んで近づかないが、少年にとってはある種の憩いの場だった。
誰も近寄らないから、そこにいれば少年は一人で居られる。虐められることもないし、周りと溶け込めない自分に、大人達が嫌な顔を向けてくることもない。
母が帰ってくるまで、辛うじてモンスターの出ないその周囲で時間を潰すのが、少年の日課とも呼べないような日課だった。
そう、日課『だった』。

「……」

ニブル山へと繋がる細道の横に立つ、やけに重々しい洋館。少年は細道とは反対の方向に曲がって、洋館の裏手に回るように歩を進める。
やがて見えてきたのは、古くてもまあ立派な造りである洋館から、立派さと大きさを取り上げた木造の小屋だ。いつ建てられたのかも分からないが、少年がまだもっと小さかったときからある掘っ立て小屋。
恐らく、元々はモンスターなどが降りてくるかどうかを見張るための駐在用だったのだろうが、今となってはその意味を全く成していない。何せ誰もやりたがらないし、今から何十年も昔、とある理由でニブル山のモンスターは滅多に町まで降りてこなくなったからだ。
しかし、少年の目当てはニブル山でも洋館でもなく、その小屋である。傍目からみれば日の当たらない側に苔や黴が生え、屋根にも穴が空いている、今にも倒壊しそうなボロボロの小屋。雨風を凌ぐのがやっと、という風情の、やはり町の人間はまず近づかないそこに、少年は躊躇うこと無く歩いて行く。

「うわっ!?」

油断しきっていた少年の身体が、突然宙に浮く。正確には背後から抱き上げられただけなのだが、急に持ち上げられた少年は文字通り頓狂な叫びを上げた。

「あははは! びっくりした? ねえびっくりした?」

少年を持ち上げたまま、その人物はからからと笑い声をあげた。その笑い声で我に返った少年はじたばたとまだまだ短く幼い手足をばたつかせる。

「は、離せよっ」
「えー、もうちょっと駄目ー?」
「駄目っ!! 良いから離せ!」
「そんな怒んないでよ。……ほら、足下気をつけて」

ぎゅう、と一度少年を抱きしめ、まるで宝物のようにそっと地面に下ろす手つきは優しい。母親がたまにしてくれるハグと似た感触だったが、少年の肩に載せられたその手は白く、桜色の爪が何だか可愛らしい。指は長く細いけれど、肩の布越しに感じる皮膚は硬かった。

「うちに可愛いのが向かってるのが見えたから、つい。ごめんね?」

くるりと振り返った少年の視線に合わせて、相手がしゃがみ込む。深いヴァイオレット・アイに、幼い自分の面差しが映り込んだ。

「……可愛いとか、言うな」

まだ幼くても男の子。『可愛い』なんて表現はある種屈辱だ。何度も同じように抗議しているのだが、目の前の人物はちっとも改めようとしない。今日も「ごめんごめん」と謝ってくるものの、どうせまた明日には同じ事を繰り返すのは分かっていた。

「だって可愛いんだもん、しょーがない」

訂正、明日と言わずさっきの今からこの様である。少年はもう怒るのを諦めて、深々と嘆息する。相手は何が楽しいのかからから笑いながら、当たり前のように少年の頭を撫でた。

「そんなに怒んないでよ、美人の顰めっ面は世界の損失なんだから」
「美人じゃない」
「美人だよ。私が一発で顔と名前覚えるくらいにはね」

何せ忘れっぽさには定評あるんだから。冗談めかして続けるものの、それが冗談でも何でもないことを少年は既に知っている。何せ『彼女』とは、もう一ヶ月も付き合っているのだ。

「今日はスコーンを焼いたんだよ。クロテッドクリームは無いけど、ジャムで食べたらきっと美味しいね」
「……ジャムもあるんだ」
「苺だけね。今度はオレンジでも作ろうか」

よしよしと少年の頭を撫で、その手を当たり前のように引く彼女。

「天使君のために作ったんだよ、一緒に食べよう」

肩越しに振り返る笑顔は蕩けんばかりに柔らかい。いつも通り「天使じゃない」と抗議しながらも、少年はきゅっと繋いだ手の力を強めた。

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