かなしき人よ、どうか手を | ナノ
▼ 01

深く、深く、そして暗い水の底を漂っている。そんな感覚だけが最後まで残っていた。全身を襲っていた激しい痛みも、熱も、引いていない筈なのに遠い。頭はまともに働かず、小指の先すらぴくりとも動かせない。自分の身体なのに、おかしなことだ。
真っ暗闇。インクの海に溺れているかのようだ。しかしインクの匂いはおろか、辺りには充ち満ちていたはずの弾薬や鉄錆の臭いすら感じられない。きっと臭気の元が無くなったのでは無く、自分の鼻がもう利かないのだろう。ソルジャーの常人離れした五感も、死にかけとなれば麻痺してしまうものなのだろう。

(……ソルジャー?)

極々自然に浮かんだその単語に、しかしふと首を傾げる。ソルジャー。もう一度繰り返す。

(なんだっけ、それ)

ソルジャー……兵士? 兵士をわざわざソルジャーと呼ぶのか? 否、多分違う。俺はそのソルジャーなのか? 恐らくそうだ。だがそれが何なのか分からない。何だっただろうか。それは。

(わっかんねえ)

ぐるぐる。ぐるぐる。ぐるぐる。目眩。目を閉じているのに、頭の中が引っかき回されていくような、感覚。目を開けようとしても、瞼は動かない。寧ろ今、自分は目を閉じているのか、それとも開けているのか、それすらも分からない。真っ暗。暗黒。宵闇のような穏やかさのない、全てを塗りつぶすような真っ黒な世界。
塗りつぶす。嗚呼、言い得て妙だ。今、己は塗りつぶされている。闇に。明けない夜のような真っ暗闇に。塗りつぶされて、消えていこうとしている。嗚呼、おかしいな。

(アンジール……)

あんなに思わせぶりに現れておいて、一緒に連れて行きもしないなんて酷い話だ。本人は厭っていた羽を「いいなあ」なんて言ったのが悪かったのか。いや、それにしたって、こんな場所に置き去りなんて酷すぎる。……はて、

(アンジールって、誰?)

やはり、その名はさも当たり前のように浮かんできた。鈍った頭で何とか記憶を手繰ろうとするも、その名の持ち主、面影も思い出せない。人名なのは間違いない。そしてきっととても大切な人の名前だ。だのに、その面差しも体つきも、瞳の色ひとつとっても自分の中に残っていない。口惜しいことに。
……否、ひとつだけ分かる。羽だ。あの真っ白な羽。片方だけでどうやって飛んでいるんだろうと、実は見る度にこっそり思っていた。……いや待てよ。

(人、だよな……アンジール……羽……?)

『アンジール』は人間だろう、なのに何故『羽』なんてものがぱっと思い浮かぶのか。人間は羽なんか生えていない。普通はそうだ。自分だってそうだった、筈だ。
そこまで考えて、ふと首を傾げる。勿論首なんて動かないから、内心でだが。自分だって人間だった、その筈。だが本当にそうだっただろうか。こうして今、己の身一つ自由にならない自分は、果たして本当に人間なのか。或いは、人間であったのか。そもそも、

(俺って、誰?)

俺は俺だ。だがその俺とは誰で、何なのか。自身で誰何したところで、誰も答えてなどくれない。自分とは何だったか。何処の誰だったのか。何処から来たのか。何処へ行くのか。分からない。何も分からない。分からないままに、漂っている。闇の中を。

(俺、は)

頭にかかった霞は、ますます濃くなるばかり。目眩はいつの間にか消えていた。ただただ、何もかもがぼんやりとしていて、現実味など欠片も無い。そんな感覚が、ますます強くなっていく。沈んでいると思っていたが、今はまるで浮いているかのようだ。倦怠感と名を付けるのも間違いのような気がする。痺れにも似ている。身じろぎを忘れた身体と、他のものの境界線すらもはや分からない。ふわふわしている。そう感じた。
すべてが曖昧で。すべてが。

(嗚呼……)

出ていく。融けていく。……流れていく。自分が。自分のすべてが。がむしゃらに詰め込んだ中身が零れて、少しずつ空っぽになっていく。虚ろになった器が、ふわふわと浮かんでいく。ふわふわと。指先ひとつ、動かせぬままに。
抗うことも、嘆くことも出来ないまま。それが哀しいことであるか、判別できぬままに。
やがて、

(ひかり)

目を突き刺すような閃光が、一筋。そして、

「おおー、生き返ったね。すごいすごーい」

晴れ渡る空を背景に、気の抜けた笑みを浮かべる女の――何処か蠱惑的な、紫の瞳。

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