かなしき人よ、どうか手を | ナノ
▼ 11

胸が重い。もやもやする。気持ち悪い。
そんなことをぼんやり考えながら、少年は自室のベッドでぼんやりと寝転んでいた。日課としていたランニングはしていたものの、それ以後のトレーニングを何一つこなしていない身体は、正直体力を持て余している。だから、こうして寝そべっていても眠気はやってこない。

「はあ……」

ただただ、灯りもついていない部屋で、時折窓の外から日輪の軌跡をぼんやりと眺めるだけ。その日輪も少し前に山の向こうへ姿を消してしまい、今は西の空に僅かな昼の残滓を残すだけ。
動くのが億劫だった。何かをする気力がない。動こうとすると胸の中の蟠りが増して、吐き気すらもよおしてくるのだ。気持ちが悪くて仕方ない。

「はあ……」

溜息とともにその詰まったものを取り除けまいかと殊更深く息を吸って吐いても、もやもやとした感覚はちっとも抜けてくれない。ずっしりと重く、形もないのにそこにある気分の悪さ。クラウドは陰鬱とした気持ちでまた溜息を吐いた。

「クラウド」

扉の向こうから、母の声が聞こえた。ややくぐもったそれに応えるのも億劫ではあったが、無視は出来ない。「何?」と多少苛立ち混じりに返事をする。

「何ってお前、どうしたんだい今日は」

心底怪訝そうな母親の様子に、まあそうだろうな、と心の中でクラウドは頷いた。普段ならオフィーリアの家に入り浸る自分がようやく帰ってくるのが今くらいの時間。それが今日は昼前に帰ってきて、そのまま部屋に籠もりきり。心配されるのは当然だ。理解出来る。
理解出来ても、どうしても苛立ってしまうのが子供の心理なのだが。

「そろそろ夕飯だけど……具合でも悪いんじゃあないだろうね」
「……違う」

具合は、別に良くない。けれど体調不良や病の類でもないことは、自分が一番よく分かっている。にべもなくクラウドが答えると、母親は「じゃあ」と少し言葉を切った。

「オフィーリアちゃんと、何かあったのかい?」
「っ……」

するりと母の口から零れた名に、我知らずクラウドは身体を硬くした。声は辛うじて出さずに済んだが、きっと母は息子の動揺を悟ったのだろう。小さく溜息を吐いたのがドア越しに聞こえてきた。

「あの子がお前に何かしたとも思えないけど……お前のことだから、どうせ真っ当に喧嘩したって訳じゃないんだろう?」
「……」
「嫌なことがあったんなら、素直に言えばいいじゃないか。文句の一つ言ったところで、あの子が今更お前を無碍にするわけもないでしょう」
「……」
「そうじゃなくて、お前があの子に悪いことをしたって思うんなら、早いうちにきちんと謝りなさい」
「……ん」

夕飯は取っておくから、気が向いたら食べなさい。母親はそれだけ言うと、静かに部屋の前から遠ざかっていった。きっと台所に戻ったのだろう。クラウドはそっと安堵の息を吐いた。
詰問されたわけでも特段責められたわけでもないのだが、母の言葉はいつでも的確にクラウドの弱いところを突いてくる。それが決して悪意からのものでないと分かっていても、クラウドには少々痛くてならない。人間、図星を突かれると収まりが悪いのは大人でも子供でも同じである。

「……」

ごろりと寝返りを打つ。考えるのは今朝のこと。珍しく村の方に来ていたオフィーリアと一緒に、彼女が塒にしている小屋まで行った。
正直、そこまでは確かに楽しかったのだ。欲しかった雑誌も手に入ったし、オフィーリアが出してくれた紅茶は相変わらず美味しかった。クラウドの拙い『英雄の話』も彼女は快く聞いてくれたし、決して険悪な雰囲気だったわけでは無い。なのに、

(あいつが……)

オフィーリアがゲイルと呼んでいた、あいつ。おどおどしていて、気弱そうで、オフィーリアがちょっと顔を出しただけで驚いて尻餅をつくような根性無し。へらへらしていて、顔に締まりが無い、商人だというのに力もなさそうな、奴。
そんな奴が、あそこに来た。今までクラウドと……時にはティファ、もっと稀にクラウドの母くらいしか訪れなかった、オフィーリアの小屋に。村人達が絶対に近づこうとしないようなそこに、おどおどしながらもやってきた。情けなくへたり込んで、オフィーリアに助け起こされていた。

(何でだよ……)

あそこは、クラウドの場所だった。村人が気味悪がって近づかない小屋と、不気味がって関わりたがらない女。だがクラウドにとっては好奇の対象であり、外の世界を知る憧れであり、何より母親以外に気の許せる相手のいなかったクラウドにとっては、親しく会話できる初めての他人だった。
友人とは少し違う気がするし、身内では勿論ない。それでもいつだって寂しい気持ちを忘れられなかったクラウドにとっては、オフィーリアは酷く得がたい存在だ。母親には言えない、困らせるだけで終わる文句や愚痴も、彼女には言えた。後のことを考えず、憎まれ口を叩ける相手など、クラウドには一度もいた試しがなかったのだ。
そんな彼女に迎え入れられるあの小屋が、クラウドにとって如何に特別なものであるか。それはきっと、招くオフィーリアだって知らないに違いない。だからこそあんなにも簡単に、ゲイルを中に招いたのだ。……出会ったばかりの頃、彼女がクラウドにしたように。

(むかつく)

ゲイルのこともだが、オフィーリアもそうだ。当たり前に自分の領域へと誰かを招く、その無防備さと気安さ。他の村人達のように、拒絶されればあっさりと身を引くくせに、求められればやはりあっさりと受け入れてしまう。

(フィーの、馬鹿)

否、違う。クラウドは自分の思考にかぶりを振った。
オフィーリアに何か非があったのではない。彼女が誰を招こうと、それは家主である彼女の勝手だ。世話になっていたのはクラウドの方であり、彼女の言動に逐一目くじらを立てる権利などありはしない。クラウドは子供であるが、いつかオフィーリアが褒めたように賢しい子供であった。それ故に、自分の抱く感情が――その正体は掴めずとも――理不尽であることも理解していた。
理解しても、納得が出来ない。それが賢しくも子供であれば、尚更。

――コン、コン。

もぞりと寝返りを打って、枕に顔を埋めていた少年の耳朶を、硬い音が叩いた。今までの倦怠が嘘のように身体を起こせば、窓ガラスの向こうに軽く握られた白い手が見える。手の持ち主は暗くなった外の世界にいる。そしてクラウドがそちらを見たことに気づくと、へらりと気の抜けた笑みを浮かべて手を振った。

「や、天使君」

聞こえてきた彼女の声は、遠い。窓ガラスに遮られているせいだ。慌てて窓を開けたクラウドに、彼女は紫色の瞳を柔らかに細め、そうして何処か歌うような、或いは微睡んでいるかのような穏やかな声で言った。

「お暇だったら、ちょーっとだけオフィーリアさんに付き合ってくれない?」

ママさんに内緒で。そう囁き、口元に当てられたのは左の人差し指。右手は『いつも』のように差し出され、クラウドはつい、やはり『いつも』のようにその手を取ってしまった。

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