▼ 01
日課の山登り(但し坑道には入らなくなった)にクラウドを連れて行くようになって早くも一ヶ月が過ぎた。それだけ経てばクラウドもニブル山の急斜面やでこぼこ道に慣れてきたようで、最近は疲れよりも退屈をより訴えてきている。正直三日くらいで音を上げるのではと思っていたオフィーリアは、素直に彼の意外とあった根性を心の中でだけ称賛した。
子供だけあって基本的に体力はないが、疲労の回復も早いし身体が順応するのも早い。流石に息一つ乱さずいつもの休憩ポイントに来ることはまだ出来ないものの、休む度にぐったりと倒れ込んでしまうようなこともすっかりなくなった。
(どうしたもんかねー)
もう少し時間が稼げると思っていたのだけどと、クラウドに聞かれれば後ろから引っぱたかれそうなことを考える。身体の使い方を教える。先にそう約束した心に偽りはないけれど、けれどだからといって、思うところがひとつも無いわけではないから。
しかし、
「おおーっ」
幸運と呼ぶには少しささやかだが、時間の流れがオフィーリアに味方してくれた。11月も半ばという今頃に、ニブルヘイムに雪が降り始めたのだ。
「すごいすごい! 随分降るんだねー!」
オフィーリアは雪国の出身ではないが、雪国を知らないわけではない。けれど生まれ育ちが天候の変化に乏しい場所だったせいか、こういう極端な天気にはついついはしゃいでしまう。別段雪だから楽しいのではない。カンカン照りの晴れだろうと台風だろうと、オフィーリアにとっては何でもそれなりに楽しいのだ。
「子供じゃないんだから」
膝まで、とはまだいかないものの、向こう臑の真ん中まで降り積もった雪に足跡を残してはしゃぐオフィーリアを、あきれかえった顔と声でクラウドが窘める。オフィーリアもそうだが彼もまたきちんと防寒装備を調えていて、大きめのコートに埋もれた身体はいつもより余計頼りなくみえた。
「今からこれだけ降っちゃうと、山登りは暫く無理だねー」
聳えるニブル山の入り口ギリギリまで来てみたものの、既に麓より先に雪に見舞われていた山は、今はもうすっかり白と灰色だけで覆われている。威圧感も普段より増しているように見えて、オフィーリアははふりと嘆息した。
「このくらいなら平気だと思うけど……」
「そりゃー君は地元民だしね。けど私がこういう地形慣れてないからやっぱ駄目。余所様のお子さん預かってそこまで危ない橋は渡れません」
クラウドに『特訓』の許可を出した彼の母は基本的に放任主義のようだが、その実誰よりも息子を案じている。矜持が高く賢いけれど、その実繊細で寂しがり。複雑な心を持っている我が子に友人が出来ないことにそっと悩んでいた彼女は、クラウドの心の壁を(その空気の読まなさで)物ともしないオフィーリアの登場に酷く安堵し喜んでいた。
あまり豊かでない筈の母子家庭で、それでも鍋一杯ものシチューを差し入れてくれるくらいには有り難がられているのだ。その感謝と信頼を裏切るような真似はとてもできない。
「じゃあ、どうするの」
むす、と唇をへの字に曲げたクラウドが尋ねる。オフィーリアは少し考えて、「お休みかな」と答えた。
「何だかんだで休み無くやってきたしねー、丁度いいよ。明日は少し平原の方に走りに行こうか」
「結局走るんだ……」
「体力が全ての基本だよ天使君。あっち側は確か狼が出やすいんだっけ?」
「ニブルウルフなら山にもたまにいるよ。あと天使言うな」
「そなの? その割に出くわしたことないけどなー」
後半の少年の科白はまるっとスルーしたオフィーリアは、「戻ろうか」と何の躊躇いもなく山に背を向けた。ほら、と右手を差し出すと、クラウドはいつも通り少し迷ってから己の左手を差し出す。小さな手をしっかり握って、オフィーリアはさくさくと来た道を戻り始めた。
「ぅわっと!?」
「何してんの」
ずぼっっ、といっそ小気味の良い音とともに、足が沈む勢いに身体がつんのめる。辛うじて派手な転倒は避けたものの、ずっぽりと埋まった足を掘り出すのに少し苦心した。
「歩くのへただね、フィー」
「あはは! ほんとだねー!」
けらけら笑うオフィーリアは、しかし表情に少し苦いものを混ぜた。いつもは山を下りるまできちんと握っている少年の手を、出来るだけ優しい力でほどく。
「繋いでる方が危ないね」
「あ……」
今は大丈夫だったものの、次にうっかり転べば今度はクラウドも巻き込むやも知れない。そうでなくても余所者のオフィーリアより、この村で生まれ育ったクラウドの方が雪道を歩くのはずっと上手だ。もたつく自分に付き合わせるのは悪いと、オフィーリアは代わりによしよしとその頭を撫でて姿勢を正す。
「早く戻ろ。あったかーい紅茶煎れてあげようね」
「……」
「天使君?」
さく、さく。と先に立って歩き出したものの、子供が着いてくる様子を見せないことに訝って振り返る。クラウドは焦りのような戸惑いのような、或いは怒りのような奇妙な表情を浮かべて、何やらじっとオフィーリアを見ていた。
「どーしたの? 何かあった? どっか痛いの?」
「違う。あの……フィー」
「ん?」
降り続ける雪のせいで宜しくない視界の中、クラウドがゆらゆらと瞳を揺らしている。あちらこちらに彷徨わせそうになるのを堪えて、じっとこちらを見上げる様はいじらしい。オフィーリアは苦笑して、さくさくと少しだけ彼と離れていた距離を縮めた。
「なーに?」
両手を膝に置いて、腰を屈める。なんとか高さの揃った視線を合わせる。緑がかかった青色の瞳。頬は寒さのせいかうっすらと色づいて、本当に高級なお人形のようだ。
「その、手……」
「手?」
膝頭に載せていた右手を軽く挙げる。ひらりひらりと目の前で振ってみせる。少年はきゅっと唇を噛んで、やおらそれを自分の両手で掴んだ。
「また転ぶと、危ないから……」
「あれま」
ぱちり。大袈裟に瞬きを一つ。オフィーリアが思わずまじまじと見つめると、クラウドは居たたまれなさそうに視線を逸らした。頬はおろかその白い首や耳までもはや赤い。
「……紳士だねー、天使君」
「天使言うな。……茶化すなら良いよ、別に」
「ああっ、うそうそ。ごめんねクラウド君、ありがとー!」
離れようとした手を、今度は捕まえ返す。寒々とした冬景色の中、少年がそっと安堵の息を漏らしたことが、酷く愛おしくてくすぐったかった。