かなしき人よ、どうか手を | ナノ
▼ 09

朝起きる。
歯を磨いて顔を洗う。
母親と一緒に朝食を摂る。
家事をする母を手伝う。
此処までは今まで通り。何一つ変わらず、代わり映えせず、そうであっても何一つ問題の無い日常。

「行ってきます」

変わったのは、「行ってきます」を言うようになったこと。仕事に行く母親を見送るのではなく、見送られて家を出るようになったこと。

「行ってらっしゃい。オフィーリアちゃんによろしくね」

苦笑いをしながらも手を振ってくれた母に、うん、と一つ頷く。彼女はクラウドがオフィーリアに体術(と、クラウドは説明している)を習いたいと行った時、「あまりご迷惑をかけないように」という以外に小言らしいものを漏らさなかった。
それでもきっと、息子のしようとしていることに思うところがあるのだろう。見送ってくれる彼女はいつも笑顔だったけれど、その笑顔にはいつも何処かに苦いものがあった。

「いち、に、さん、し……」

身体の筋を伸ばし、関節をほぐす。オフィーリアに指示された通りの動きで、冷えた村の空気の中身体を温めていく。子供の身体に余分な負荷をかけない程度の筋トレは、それでも子供の体力を容赦なく奪っていく。既に上がり始めた息を整える暇もなく、今度はそのまま村を走って周回。最初は三周だったが、今は五周だ。

「あっ、クラウド!」

一周、二周、とほどほどのペースで村を回っていると、不意に明るい声が耳朶を叩いた。いつも一緒にいる友達の三人組に囲まれながら、彼女は弾けるような笑顔でクラウドに手を振ってる。

「て、ティファ? 何でク……」
「クラウド、何してるの? 誰か探してる?」
「……ランニング」
「ランニング?」
「うん」

あからさまに嫌な顔をした友人達を物ともせずに話しかけてくるティファ。その衒いの無さは微笑ましいものの、クラウドとしては少し居たたまれない。けれど無視をすることなど絶対に出来ないから、クラウドは少しぎこちないながらも応対した。

「身体、きたえようと思って」
「そうなの?」

ただでさえ大きなティファの両目が、これまたくるりと大きく丸くなる。瞬きと一緒に、長い睫毛がふわふわと揺れた。人形めいた、けれども生きた人間にしか有り得ない、瑞々しさのある可愛いかんばせは、驚きに染まってもなお可愛らしい。

「なあティファ、もう行こうよ」
「そうだよ。今日はティファの家で遊ぶ約束だったじゃん」

焦れた様子の子供が、ティファの後ろから抗議の声を上げる。ティファの父親もそうだが、ティファの周囲の人間は特にクラウドに対して風当たりが強い。もはや慣れきったことではあったが、それでも微かに胸が傷む。これ以上此処にいたくなくて、クラウドはくるりと彼女に背を向けた。

「クラウド?」
「ごめん、急いでるから」

ティファとは、友達……だと、思う。その程度の自信しかクラウドにはない。父親にも付き合いを渋られているのを知っているから、クラウドは今も大っぴらにティファには近づけないし、本来はティファもまた同じ筈だ。けれどクラウドと違って友達がきちんと存在するティファは、クラウドが覚えるような痛みは感じていないだろう。

(早く、早く、早く)

少しだけスピードを上げて、また村中をかける。三周目が終わる頃には、折角整っていた息はまた上がっていた。同じ場所を通るのは少し気が引けたが、ティファも友達も既に立ち去っており、誰も居ない。時折すれ違う村人達に不審そうな目を向けられながらも、クラウドは何とか五周目を走り終えた。

「はーっ……」

大きく深呼吸をしながら、そのままほてほてと村はずれへ歩き出す。中長距離を走ったあとは、すぐにとまらない方が心臓には良いのだとオフィーリアは言っていた。
そのまま座り込みたいのを堪えて、ゆっくりとした足取りで向かうのはニブル山の入り口付近。物々しい洋館を横切り、倒壊寸前のボロ小屋の扉を叩く。

「はいはーい」

立て付けの悪そうな扉が開いて、その隙間からひょっこりと若い女が顔を出す。細かなウェーブがかかった黒髪を耳にかけたオフィーリアが、左手に剣を掴んだまま外へと出てきた。

「おはよう天使君、良い天気だね」
「天使やめろ。……おはよ、フィー」

いつも通りのやりとりをして、ニブル山を彼女と登る。相変わらず荒れた山には草木が殆どないが、その分だけある程度見晴らしも良い。近づいてくるモンスターが隠れる場所は岩陰くらいなので、警戒するのが楽なのだと以前オフィーリアは言っていた。

「――ふっ、は……っ」

きつい山道。最初は辺りを見る余裕もなかったものの、こうして毎日上り下りをしていれば流石にある程度は道順も覚えてくる。転びやすい場所、以前モンスターが飛び出してきた場所。そういうところに気を配るようになってきたお陰で、登山は以前よりも随分楽になってきていた。
それでもまだ、オフィーリアの定めた『ゴール』にたどり着く頃には、息も絶え絶えになってしまうのだけれど。

「はい、お疲れ様!」

一際大きな岩の上に、オフィーリアの手を借りて登る。胡座をかいた彼女の肩にぐったりともたれかかれば、よしよしと汗で濡れた髪を撫でられた。

「頑張ったね」
「ん……」

疲れた。けれど、最初に比べれば随分マシだ。水分を補給する気力すら持てず寝そべっていた頃に比べて、今は身体を起こしていようと思えば起こしていられる。そして、

「帰るよー?」
「分かった」

暫く休んだ後、いつも通り差し出された左手。それを取ろうとして、けれどふと気づいた事実に驚く。

「フィー」
「んー?」

実際に構えたところは未だ見たことがないが、腰に差している剣は右側。こうして差し出される手は左だけど、たまに手を繋ぐときは、いつも右手で繋ごうとする。

「フィーって、左利きだったんだね」

今更といえば今更だが、気づいてしまったからには気になって口にした。するとオフィーリアは少しだけ目を瞠ったあと、「バレたかー」と全然悔しくなさそうに言って笑った。

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