▼ 08
常から『生きては越えられない山』とされているだけあり、ニブル山の山道はあってないような獣道だ。肌が剥き出しになり、石がごろごろと転がって踏ん張りの利かない道。高低差が激しく、道幅も基本的に狭い。うっかり転べばそのまま崖下へと転落してしまいそうな場所も少なくない。おまけにモンスターは凶悪で凶暴。本当に大変なところだ。
「はあ、はあ……」
しかしそんな、岩肌の剥き出しになった歩きにくい山道を、肉付きの薄い背中がずんずんと進んでいく。足取りに迷いはなく、また危なげな様子もない。寧ろスキップでもし出しそうなくらいだ。
少しずつ、しかし着実に遠のいていく影。しかし向こうが別に早足なのではない。寧ろ最初に山登りを始めてから、彼女は常に一定のペースを守っている。それなのに距離が空いていくのは、偏に自分の体力が保っていないからだ。
「くっ……は……はあ……ふっ」
つう、と流れる汗を袖で拭う。出がけに母から保たされた水筒には冷えたお茶が入っている筈だが、まだ口には出来ない。休むことは問題外。だがかといって「待って」と数メートル先の背中を呼び止めることはプライドが許さず、少年は荒れる呼吸のさなか歯を食いしばる。
視線の先では、大きめの岩を乗り越えたオフィーリアが暢気な顔でこちらに手を振り、
「エアロラ」
クラウドの背後を狙っていたズーを、手慣れた調子で切り裂いて吹き飛ばす。目に見えない風の刃は、少年は勿論、周囲に被害をもたらすこと無く魔物だけを消し去る。岩肌にやや傷が付いたように見えるが、損傷はその程度だ。最初は驚いていたが、道中もう何度もこんな調子だったので今更驚くことはない。……というか、驚くだけの体力が勿体ない。辛うじて「ありがと」と礼は言ったものの、か細く掠れた声ではきっと届いていないだろう。
「ほら天使君、頑張れ頑張れ」
汗一つ流さぬ涼しげな様子で、普段と何一つ変わらぬ笑顔。ぶんぶんと手を振る彼女に「天使じゃない」と言い返す気力はやはり無い。代わりに黙々と距離を詰めて、彼女が一足飛びに乗り越えた大岩に手をかける。子供の足では跨ぐことが出来ない高さは、両手を使ってもやはり難しかった。滑らかな岩で爪を剥がしそうになり、思わず身を竦ませてしまう。
「ほら、もーちょっと!」
ぬ、と伸ばされたのは、オフィーリアの白い手。今だけは気恥ずかしい気持ちもなく、彼は無言でその手を掴み岩に足をかけた。ぐ、ぐ、と手と腰、足に力を入れ、何とか大岩を攻略する。
「はい、おしまい。お疲れ様でしたー!」
わしゃわしゃ! と髪をかき混ぜられても、もう怒る元気が無い。ぐったりとした少年を抱き抱えたオフィーリアは、優しい目と手つきで疲労困憊のクラウドを労った。
「降りる前に休憩しようね、お茶飲んでごらん」
辛うじて頷いたものの、全身が気怠さに支配されて動かせる気がしない。汗だくの身体を自分の方にもたれさせた、オフィーリアは代わりに彼の首にかけられた水筒を取り上げた。
「ほら、ゆっくりねー。あんまり沢山は駄目だよ」
疲れてはいても、喉は渇いている。口元に持ってこられたお茶を、何とか両手で受け取ってあおる。あっという間に飲み干したが、身体はまだまだ水分を欲していた。無言で空になったそれを渡すと、オフィーリアは「はいはい」と笑いながらもう一杯を注いでくれた。
「やー、でも頑張るねー天使君。もう一週間も経つもんねー」
正直三日くらいで音を上げるかなーと思ってたよ。と、割り方失礼なことをあっけらかんと言い放つオフィーリア。ようやく呼吸が整ってきたため、反論する余裕も戻ったクラウドは恨めしげに彼女を睨め付ける。
「俺が言い出したんけど」
「そりゃねー。でも結局剣は教えないって言っちゃったし、結局今日まで山登りしかしてないからねー」
あ、ランニングと筋トレもあったね。けらけら笑いながら言うオフィーリアには、やはり悪びれた様子は微塵もない。クラウドはますます憎らしい気持ちにほぞを噛んだ。
「……そう思うなら、もっと他のことやらせてよ」
「それは駄目」
きっぱり。そんな音がしそうな程、オフィーリアはあっさりクラウドの要求を切って捨てる。そして片方の手で、もたれかかったままの少年の頭をよしよしと撫でた。
「何をするにもまずは体力作りからだよ。目が良くても頭が良くても、身体が思い通りに動かなきゃ何にもならないんだから」
「……つまんない」
ぷくりと頬を膨らませる。オフィーリアの人差し指が、痛みを感じさせない程度の強さで膨らんだそれを突いた。可愛い可愛いと連発する彼女に「可愛くない」と言い返す。けらけらと明るい笑い声が振ってきて、それは陰鬱な雰囲気を纏ったニブル山には大層似つかわしくなかった。
「まあでも、最初の日よりは楽に出来てるでしょ? ランニングも此処まで来るのも」
「まあ……」
最初に体操。簡単な筋トレ。軽く走って村を三周。その後でニブル山登山。クラウドの要求を部分的に受け入れたオフィーリアがクラウドに課したのは、そんな大変地味で、地味なわりにきついカリキュラムだった。
元々村で平凡に暮らしていた少年の身体は、自身の体力の限界ギリギリを責めてくるスケジュールに毎日悲鳴を上げている。筋肉痛で死ぬかと思った、という苦情は、最初の日の夜が明けてすぐにクラウドからもたらされたものだ。勿論筋肉痛である以上害はないので、オフィーリアが笑って流したのは言うまでもない。
「騙されたと思ってもうちょっと続けてごらん。そのうち何でもなくなってくるからさ」
「……分かった」
ニブル山を越えるには、誰がいつ掘ったかも定かではない、洞窟を利用した地下山道を行く必要がある。しかしその中のモンスターはもっと凶悪でこちらの身動きも制限されるため、オフィーリアは今のところそちらには絶対に行かない。多少距離が空いても互いをすぐ見つけられて、ある程度威力の高い魔法を遠慮無く撃てる場所。オフィーリアはそういう場所を選んで、クラウドを連れ回しているようだった。
「そろそろ降りよっか」
「もう?」
とん、と軽い音を立てて、岩から飛び降りるオフィーリア。まだ多少気怠い身体を持て余して尋ねると、彼女はにやんと意地悪な笑みを見せた。
「じゃ、クラウド君だけ此処残るー?」
大変性格の悪そうな顔で笑い続けるオフィーリア。クラウドはむっと眉を寄せる。
「……フィーの性悪」
「あははは! なーにを今更!」
オフィーリアは心底愉快そうに笑い声を立てると、しかし当たり前のように右手を差し出す。クラウドはそれを素直に掴みながらも、やはり悔しくて軽く爪を立てた。
「ちょっとちょっと、天使君痛いよー何すんの」
「嘘吐け。笑ってるくせに」
ぎゅう、と手を強く握っても、やはり痛みはないらしい。オフィーリアは結局山を下る間ずっとご機嫌で、代わりに少年はずっとむくれ続けたままだった。