飛んできた自販機をよけながら、落胆してる自分に驚く。たまたま、本当にたまたま仕事で池袋にきて、いつものようにシズちゃんに見つかった。一瞬でシズちゃんの全身をとらえて軽くショックを受ける。……何も持っていない。そのことに呆けていると、てめぇ、ノミ蟲!!池袋に来んなってあれほど……(いつもと変わらない文句なので以下略)と言いながら俺を追いかけてきた。来るなと言われても、こっちは仕事だったのだから仕方ない。それに……今日、特に会う約束もしてないし、彼が新宿まで来るとは思えなかったから……素直に認めれば、俺はバレンタインで贈ったチョコのお返しを少しだけ期待して池袋にいた。
一般常識でいうと、お返しがないのって、『脈なしです』ってこと?
走りながら手作りのバレンタインチョコを渡してからの、この一ヶ月を振り返る。
明らかに、ケンカが減った。いや、ケンカはするけどなんかそこに甘い雰囲気が少しだけ漂っている、と思う。たまに……極たまに、シズちゃんとご飯を食べるようになったり、うちで幽くんが出てるドラマを鑑賞したり、とか。殺し合うだけの関係が少しだけ俺の望む方向に動いてくれて、バレンタインにがんばってよかったって思っていた。
そして、今日はシズちゃんからはっきりとした気持ちを伝えてくれるんじゃないかって思っていたけど……普通の友達止まりってことなのかこれは……

「観念しろ!臨也!!」

後ろから聞こえる大きな声にハッと我に返る。考え込んで走っていたら、いつのまにか路地裏に入り込んでいた。しかも、行き止まりだ。くそ!追い詰められたことに焦って振り向けば、すぐに胸倉を掴まれて、拳が振り上げられた。

「もう逃げらんねぇぞ!素直に殴らせろ!!」

ふふ……あはは……!お返しが拳一発ってこと?さすがシズちゃん!
もう最低最悪!!どうでもよくなって、これがホワイトデーにシズちゃんから貰うものかと諦めて、素直に殴られるのを覚悟する。目を瞑ると、シズちゃんの動きが止まった。

「……手前、なんでそんな悲しい顔してんだよ……」

無意識に顔に出ていたのか、シズちゃんに指摘される。一瞬、二人の動きが静止して、街の喧騒がざわざわと聞こえると、路地のすぐそばを通ったカップルの話し声が耳に入った。

「だああああ!!誰だよ、ホワイトデーは三倍返しとか言ったヤツ!!給料日前なのにきついっつーの。バックとか無理!せめて、キーケースとかにしてくんね?」

「えー。狙ってたのがあるのにー!!私はちゃんとバレンタインに手作りでがんばったんだから、そっちもがんばってよ!」

大通りの方に顔を向ければ、ニットキャップをかぶった男と、そいつの腕に手を絡ませた派手めな服装をした女のカップルが通り過ぎていった。あーあ、買ってもらえるだけいいじゃん。いや、腕を組んでるだけで俺にはうらやましかった。自分の今の状況と照らし合わせて再度落胆していると、目の前の相手から地を這うような声が聞こえてきた。

「おい」

「なに?殴るならさっさと殴っちゃってよ。これすんだら俺帰るし」

「今日、何日だ」

「……3月14日」

「何の日だ」

「……ホワイトデー…… でしょ……」

「!!」

言わされて、嫌になる。俺たちには関係ないことなんでしょ。

「手前、なんでおしえねーんだよ!!」

「は?」

「だあ!!忘れてたじゃねぇか!!」

「え……なんで俺が責められるの?いやいや、この時期は街全体でホワイトデーおしえてくれてたよね?バレンタインが終われば、すぐにディスプレイや外灯の旗とかホワイトデー仕様に変わるじゃん」

「いや、忘れてねぇ」

「はい?」

さっきと真逆のことをつぶやくシズちゃんに困惑する。忘れてただけかと思って少しは安堵したら、今度は忘れてないと言う……忘れてないでお返しなかったらそれこそ脈ナシじゃないか……また最悪な方向に考えていると、振り挙げられていた手が下げられた。不思議に思ってシズちゃんを見ると、顔が赤くなっている。

「一週間前に買って、ある。ただ、今日だっつーのは忘れてた……」

「は?何を?」

「だから、ば、バレンタインのお返しだ!!家に忘れてきた」

「え」

お返しを用意してくれていたことに驚いて、声がでない。うそ。シズちゃんが?
……俺に?

「あー手前、これから暇か?」

ぽりぽりと頬を人差し指で掻きながらシズちゃんが尋ねてきた。

「いや、もう仕事は終わったから家に帰るだけだけど……」

さっきまでの態度と違うシズちゃんにドキドキと胸が高鳴る。

「俺はまだ仕事なんだけどよ……、その……渡してーもんがあっから、俺の家で待っててくれねーか?」

「へ?」

思いもかけない提案に素っ頓狂な声を上げてしまった。
コレ鍵だ、とガサゴソとポケットに手を突っ込んだシズちゃんが安っぽいアパートの鍵を取り出して、俺の手に乗せた。え?鍵?シズちゃん家の??

「俺の家わかるか?」

赤くなって、俺のほうを見ないように目を泳がせたシズちゃんが聞いてくる。
俺はこくりとうなずくのが精一杯で、思わず、鍵を握り締めた。

「なんで知ってんだ。……、ま、手前ならわかるか……」

その言葉で、一度も行ったことのないシズちゃん家の場所をすでに知っていることを暴露したことにはっと気づくも、シズちゃんは仕事に戻るべく踵を返して大通りへと向かっていた。

「じゃあ、夜にまたな」

言われた言葉に、うん。とだけ返してシズちゃんが遠ざかっていくのを見つめる。

急展開についていけない俺の心臓は大きな音を立てて主張していた。

”夜にまた”

うれしい言葉を反芻する。

俺が君の帰りを待つなんて―――――。
手に握り締めた鍵は金属とは思えないくらい熱くなっていた。


ハッピーホワイトデー!

(その鍵は恋人以上になった証)


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