もくもくと黒い煙が立ち込めて、焦げたニオイが鼻をついた。狭い台所で髪を金色に染めた青年は何回目かになるそれを見て大きくため息をついた。

くそ、なんでうまくいかねぇんだ!!ちゃんと本の通りに作ってんのによー。

システムキッチンに備え付けられたガスオーブンから、火傷をしないようミトンをはめて黒いトレイを取り出す。その上には、ニオイの元となっている焼け焦げた謎の物体が十数個並んでいた。律儀にバンダナを三角巾がわりにして、母親のエプロンをつけた彼はもう一度念入りに、”初めてのお菓子作り”と書かれた本を手に取る。材料の分量・手順は間違っていない。それらの失敗は、クッキー作りをはじめて最初のほうにすでに経験している。たぶん、今回はオーブンの火力を間違えたか、時間を長くしすぎたか、はたまたその両方か―――…なんにせよ、もう一度作り直さなければならないが、材料は今目の前にある焦げた分で終わりだった。

仕方ねぇ、買ってくるか……

青年――平和島静雄は、バンダナとエプロンを乱雑にはずして、家から近いスーパーへ駆けていった。

本を見れば簡単だろうと高をくくっていたのに、お菓子作りはその材料の分量を正確に測ったり、割と手間隙がかかることにもうやめようと失敗する度に思っていた。そもそも、あのノミ蟲野郎がバレンタインに手作りチョコをよこしてくるから悪い。自分が柄にもなくスーパーのお菓子作りコーナーに行くことに恥ずかしさを覚えて、諸悪の根源に悪態をついた。あいつのチョコはどっかの店で買ったのかと思うほど、おいしかった。数が少なかったこともあって、あっという間に平らげて、もう少し味わえばよかったと後悔したほどだ。ラッピングも洒落ていて、センスのよさをうかがわせたそれを、「これ、モテないシズちゃんに俺が恵んであげるよ」なんて、いつものように屁理屈こねて渡してきた。手に収まる箱には、賞味期限や原材料を書いたシールなどが一切張られていなかったから、言われなかったけど、手作りなのかと心の中で思った。
ノミ蟲に礼を言うと、別にシズちゃんだけにあげるわけじゃないから、と今度は少し離れた席に座っている門田のところに行って、俺とは違う箱を手渡していた。それを見て、なんだよ、と、とたんに機嫌が悪くなる。でも、門田の渡された箱をよくよく見てみると、自分のにはついていなかったシールが張られているのを見つける。予鈴が鳴って、クラスの違う臨也が二つ隣の教室に戻ってから、門田に箱を見せてもらった。

―――…やっぱり、こっちは市販のだ。

その事実にどくんと胸が高鳴った。俺のは手作りなのか。俺以外のヤツには店で買ってきたもので。明らかな違いを知って、口元がゆるんだ。箱の中のチョコもおいしくて、今年の2月14日はとてもいい日になった。それで……、手作りってもらうとうれしいもんなんだなって思ったから、自分でも作ってみようなどと思ってしまったわけで。もし思ったとしても、平日だったらしなかっただろうに、あいにく今年の3月14日は月曜日で、今日は日曜日だ。両親は揃って出かけたし、弟の幽は演劇部の練習があるとかでいなかった。そんないろいろな状況がうまい具合に好転して、お菓子作りに挑戦する羽目になっていたのである。

やりかけたからには、ちゃんとしたもん作りてぇし、喜ぶ顔が見たいと思った。
って、俺何考えてた!?いや、別にこれは手作りには手作りで返すっていうただのギブアンドテイクの精神で、か、借りとかノミ蟲に作るのなんて嫌だからな。と、だれも、つっこんでもいないのに、無意識に思い浮かべた誰かの喜ぶ顔を打ち消した。

急いで材料を買って帰り、慎重に慎重を重ねて、今までの失敗を元になんとかクッキーが出来上がった。お金がなくて、材料も少ししか買えなかったから、数は少なめだけど、おいしそうにできたそれに満足して、渡す瞬間が楽しみだとその日の夜はぐっすりと眠れた。


*  *  *


きょろきょろと教室を見渡す。すでに今日の授業はすべて終えて、放課後になってしまった。昼休みに渡そうと思っていたのに、実際ノミ蟲を見つけると、体が勝手にあいつから逃げてしまう。ああ、くそ。別にもらったから返すっつーだけで深い意味なんかねーし、なんで恥ずかしいとか思うんだ。まぁ、ただ、今になって、手作りとか柄にもなく気合入ってるみたいで、すげぇ渡しずらい。バレンタインのときのノミ蟲の態度が少しだけわかった。
二つ隣の教室にはもう数人しか残っておらず、、窓際の奥の席で臨也を見つけた。そこに机をはさんで、門田が立っていた。何か楽しげに会話しながら門田が、臨也にきれいに包装された箱を手渡した。お礼でも言っているのか、臨也は笑顔で箱を受け取る。バレンタインのお返しだとすぐに分かって、その箱が市販のなのか、手作りなのか気になって少し近づくと二人の会話が耳に入ってきた。

「口に合うか分かんねーけど」

「ドタチンたら、律儀ー!作ってくれたんだ!うれしいな。ドタチン、料理とか上手だもんねぇ。あ、それなのに俺、市販の渡しちゃってごめんね?ドタチンにも手作りの渡すつもりだったんだよー!」

そう言った臨也の言葉に愕然とした。
”ドタチンにも手作りのを―――”そうか、あいつは別に俺に特別に作ったわけじゃなかったのか。なんで門田には市販品を渡したのか知らないが、手作りに意味なんてなかった。でた結論に、頭を殴られたような衝撃を受ける。なんだ、俺すげぇバカみたいだ。日曜日丸々一日使って、粉まみれになりながら……渡そうと思っていた、ラッピングもくそもない、100均で買った袋とそれにセットでついてた水色のリボンで結んだだけのクッキーの入った袋を握り締める。ぐしゃりと、中のクッキーが割れた音がしたけど、もう渡す気なんてなくなったから別にかまわなかった。放心して立っていると臨也がこちらに気がついた。

「あれ?シズちゃんいたの?もしかして、俺に何か用?」

何か用かと聞かれても、さっきまでドキドキとしていたことが嘘のように頭の中が冷めていた。

「いや、手前に用なんて今までもこれからもねぇよ」

それだけいって踵を返す。もう帰ろう。クッキーは自分で食べるのも嫌だから、帰りにコンビニのゴミ箱にでも捨てていこう。食べ物を粗末にするのは好きじゃないが仕方ない。誰もいない自分の教室に戻って、カバンの中にクッキーの袋を入れようとしたとき、バタバタと足音が響いて、勢いよく扉が開いた。

「ちょっと、シズちゃん!!なんでうちのクラスにいたの?俺に用事だったんじゃないの!?」

少し息を弾ませた臨也が答えたくないことを聞いてきた。
ああ、うぜぇ。

「手前にはこれっぽっちも用事なんてねぇし、帰るからどけ」

そう言いながら睨むと、臨也の目線は俺の手元に向けられていた。

「ねぇ、それ……クッキー……だよね?俺にバレンタインのお返しで持ってきてくれたんじゃないの?今日、ホワイトデーだし」

「はっ、自惚れたこと言ってんじゃねぇよ。なんで俺が手前なんかに……」

「だって、俺以外からシズちゃんチョコもらってないでしょ」

図星を言われて、グッと唇を噛む。

「これは、あれだ。俺のおやつだから、気にすんな」

そう言って、割れて粉々になったクッキーの袋に目をやる。袋は透明に白い花柄で、中身が見えて、まだ何枚かは割れていないクッキーが丸いままそこにあった。
がんばって、作ったんだよな……昨日の自分を思い出して、たとえ臨也が俺にくれたのが特別じゃなかったのだとしても、もらったことに変わりはないんだと考えが行き着いた。ずいっと、袋を臨也に差し出す。

「……やる。チョコ、うまかったから……お返しだ」

「シズちゃん!」

臨也はなぜかホッとしたように、差し出したそれを受け取った。

「食べていい?」

渡してすぐ言われたから、面食らったが、どんな反応するか気になって、こくりと頷いた。

ぱくり

もぐもぐと割れていなかったクッキーを臨也が食べた。ど、どうなんだ。何かいえよコラ。感想が聞きたいけど、なんだか怖くてこちらからは聞けない。

「んー。ねぇ、もしかしてこれ、シズちゃんのお母さんが作ったの?」

「ばっ!!ちげーよ!!……その……それは……俺が……」

見当違いなことを言われて、慌てて否定したが最後のほうは恥ずかしさから声は小さくなっていった。

「え?何、もう一回言って?これ、あきらかに手作りだけどだれが作ったの」

「………だから、 おれだ」

「はい?え?う……そ。俺って、シズちゃんが?作ってくれ……たの?」

ありえないというように臨也は驚いた。俺が見たかった顔だったけど、今はそれを楽しむ余裕なんてなかった。

「うるせーな。手前も手作りだったろうが。そのお返しだから、手作りにしたんだよ」

「はは。やだ、ほんとシズちゃんて予想できないよね。う……れしいよ。ありがとう。お菓子作りとかできたんだね、びっくり。あ、でも、包装とかクッキーのでかさとかシズちゃんらしいね。うん。そういえば、ドタチンもさっき俺に手作りのお返しを―――――」

ばんっっ

いつもの調子で臨也はべらべらと喋り始めて、俺が聞きたくもないことを言いそうになったから、思わず机をたたいていた。

「うるせーよ。っつーか、俺が手作りなんかこれで最後だ。チョコくれるんなら今度から、門田に手作りをやって、俺に市販品よこせ」

「え?なんで、キレてるの?俺は……俺はシズちゃんに手作りをあげたかったんだよ。ドタチンは別に……」

「さっき話してただろうが!門田にも手作りをやるつもりだったって――」

「!聞いてたの?」

「……聞こえてきた」

そう俺が答えると、ひどく罰が悪そうに臨也は下を向いた。そして、違うんだ、と小さな声で言った。

「ドタチンにあげようと思ってたよ、手作りの。……シズちゃんにあげる分が余ったらね」

「余ったら?」

その言葉が引っかかって聞き返す。

「そう。だけど、余んなかった……から、ドタチンのは急遽、お店で買った」

「なんで……」

「なっ、なんでって!!」

「なんでだよ」

理由が聞きたくて催促する。

「もう!!いっぱい、失敗したから!!結構料理とか得意だし、少し難しいチョコ菓子選んだら、なかなかうまくできなくて……どんどん材料なくなって……ぎりぎりシズちゃんにあげる分しか出来なかったの!!」

最後は力強く説明されて、少し混乱した頭の中を整理する。なんだ?俺にくれる分が余ったら門田にあげようと考えてて、でも、作ってみたら失敗ばかりして、急遽門田には市販品買って、手作りのは俺にしか渡す分しかなかったって……それって……!
昨日の自分と重ね合わせる。こいつも、あのうまいチョコレートを作るのに失敗してたのか。しかも、最初から俺のためで、出来上がった数少ないのも俺にくれて。誤解してたことが想像以上にうれしい真実にたどりついて、沈んでた心が一気に跳ね上がる。
自分でも顔が赤くなるのがわかる。目の前の臨也もすでに真っ赤だった。

「なんだ、手前もいっぱい失敗してたのかよ」

ククク、と笑いがこぼれる。
しれっとしてやがるからそんなこと全くわからなかったけど。

「うるさいな!シズちゃんと一緒にしないでよ!俺が作ったのとはレベルが違うじゃん!!それに俺のは完璧だったけど、シズちゃんのクッキー、味しないよ!」

「は?マジか?」

確かに、こいつのチョコは店で売れそうなくらいうまかったから、俺の初心者クッキーとは比べられない。が、聞き捨てならないことを言われて、ピキッとキレそうになる。

「いや、ほんとに。これ味見した?」

「……してねー」

そう答えると、ひょいとクッキーをひとつ摘んで臨也が俺の口元まで運ぶ。
ぱくっと割れたクッキーを口に含めば、なるほど、たしかに味がない。しかも、ぱさぱさしている。

「なんでだ……ちゃんと出来たと思ったのに……」

「お菓子作りを甘く見ちゃダメだよー。特に普段から料理なんてしない人が」

「う、るせー!!別に、いいだろ。食えないわけじゃねーんだし。文句言わずに食えよ!ほら!」

失敗していた恥ずかしさから、俺は臨也の口にクッキーをねじ込ませた。

「あ、今度はちょうどいいかも」

「味ちがうのか?」

「違うよ。シズちゃんに食べさせてもらうと、甘さがちょうどいいかな……なんて」

そう言って、臨也は赤くなって黙り込む。外はもう日が沈もうとしていた。
二人以外、誰もいない教室で俺は自分の作ったクッキーを口にくわえて、それを臨也の口に押し当てた。割れたクッキーは二人の唇の間に消えていった。


ハッピーホワイトデー



―――――

手作りには手作りで。そんな心にプライスレス。
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