何で彼にあんな音が出せるのか。神童にはそれが分からない。
 学内でも頭一つ抜きん出るほどのコントラバスの名手である南沢篤志その人の奏でる音楽は美しかった。重厚な音色。それを作り出す指先。全てが美しかった。それなのに。
「何だお前、また来たのか」
 練習室の扉を開けば寄せられた眉根が目に飛び込む。勉強させていただきます、と言い近くの椅子に座ると物好きな奴だな、と嫌味のような溜息がつかれた。こんなにも性格が悪いのに、何故。奏でられるアヴェマリア。聖母の象徴。まるで天使たちの奏でる音楽のようだった。澄み切った音は部屋いっぱいに響く。
 神童は指揮科の生徒であるものの勉強という建て前でよく南沢のコントラバスを聴きに来ていた。何で細く頼りない腕がこんなにも厚い音を出せるのか。口を開けば嫌味しか出てこないのに、生み出されるのはどこまでも優しい音。神童は南沢が本当は優しい人間だから優しい音が出せるのだろうだとか、そんなことは思わない。何故ならば彼が神童を見る目はいつだって心の底から鬱陶しがっているという色を露わにしているからだ。
「…まだいたのお前」
「悪い、ですか」
「そう言ってるだろ。ぶっちゃけ言えば目障りなんだよ。毎度毎度、仏頂面で聴いてるだけで。迷惑」
「な、んでそこまで、」
 南沢は神童の抗議なんて聞く気も無いかのように弦を弾いた。神童は言葉を失う。どうしてそんな綺麗な音が出せるのだろう。散々非道い言葉を吐いたのに、この男がつむぐ音は突き放すように美しい。
「音楽と人間性って関係ないんですかね、は、は…」
 いっそ嫌いになれてしまえれば。神童は泣きたくなった。つい、と南沢が呆れるような視線を投げかけてくる(なに、また泣くの)響くB♭。嫌いになりたいのにその一瞬で繋ぎ止められる。ぐちゃぐちゃにされるばかりなのに、惹かれていく。振り切れない。君の音楽が、俺を離してくれない!
「…出てけよ、図々しい奴だな」
 突き刺すように言われて神童はついに練習室を出た。彼がドアを閉めた瞬間に密かに漏れ聴こえた音に心が震えた。もう少しだけ聴いていたいと思う気持ちを抑えつけてその場を離れた。あの音を支配できたらと思う。自分の思うままに響かせられたら。神童はあの弦が自分の思った通りに動く妄想を抱いた。鳥肌が立つ。南沢の伏せられた睫毛が脳裏に浮かんだ。それは、ぞっとするほど美しい。







吉田様より