神童拓人は基山ヒロトという人物を尊敬していた。基山は彼の父の知人の息子であり数年前から神童のピアノの師を勤めている青年である。それに加え基山は神童の通う中学でも特に名高く有名なかの雷門イレブンと共にフットボールフロンティアインターナショナルでは日本代表として奮闘した一員でもあった。世間は狭いとは良く言ったもので、接点の何かと多い二人は先生と生徒というよりはまるで兄弟の様に仲睦まじく週一回の練習を楽しみ励んだ。
基山のピアノは片手間に学んだという割にとても洗礼されていて、白い細い指先が鍵盤を滑るのに神童は夢中になった。中学も、学年が上がりサッカー部のキャプテンに任命された神童は何かと多忙になり時折基山との約束に遅れる様になってしまったが、基山は毎回ピアノを弾きながら神童の到着を待っていた。基山がいつも弾くのは優しく明るいメロディラインの曲で、聴く人に元気を分け与える様な、不思議な曲である。神童の姿を確認するとすぐに止めてしまうのですでに到着しているというのに声も掛けず密かにそれを聴くのが神童は堪らなく好きだ。曲が一段落した内に遅れてすみませんと謝り駆け寄ると基山は毎回仕方ないと笑って許してくれる。
こうして何回か基山のピアノを盗み聴く様にしていた神童であったが繰り返しの内に基山の変化に気付いた。かの曲を弾く時の彼は酷く楽しそうに、愛しそうに口元を緩めながら弾いているのである。確かに基山は基本的に柔和な笑みを浮かべている青年であったがその時は特別、何か彼の瞼には違う世界が広がっているかの様にも感じた。ある日神童がさり気なくいつも弾いている曲について基山に疑問を投げ掛けると、基山は気恥ずかしそうに「あれは俺が昔作った曲なんだ」と笑いながら言うではないか。何かと器用な人である様だったけれど、流石の神童もその時はとても驚いて本当ですか、と唖然とした顔で聞き返すしか出来なかった。
大切な人との思い出を詰めて作った、基山が零す言葉の中に神童はあの表情の意味を悟る。何となくどう話を続けていこうかと悩んでいると基山がそういえば学校はどうだった、と聞いてきてくれたのでそれに乗らせて貰った。神童はサッカー部のことを進んで話した。部員達の事に練習の事、試合の事。「あと監督の話を伺いました」へえ、と相槌うつ基山はかつて自分達を最後まで引っ張ってくれた監督の姿を思い浮かべたが、神童が続けた名前は久遠ではなくかのチームメイトであった円堂という名前だった。
不意に現れたその名前は基山にとって酷く懐かしい響きだった。そういえば円堂監督と基山さんは同じチームで、神童は言い掛けて止めた。円堂という名前を聞いた途端に細まった瞳は遠い過去を懐古している様で、その表情はまるで神童の好きなあの曲を弾いて居る時と酷似しているではないか。(嗚呼、)基山が思い描いた大切な人は円堂の事なのだと理解した神童は太陽みたいに笑う監督と、この優しい兄の様な師との絆を思って目を瞑った。神童は彼らがチームメイトだった時代を知りはしない。されどこうして今も根強く思い続ける一途さに基山の儚さを垣間見た気がした。
「俺、基山さんが作った曲が弾いてみたいです」思ったのと口にしたのは同時だった。本当は彼らだけの物であるべきだけれども、思うに基山は一生自分だけの物にして封印してしまいそうで衝動的に。神童はあの曲が大好きであったので弾きたいのだと基山に頭を下げると、彼は少し戸惑いながらも最終的に了承してくれた。「譜面には興してないんだけど」申し訳なさそうに言う基山に覚えながら興しますと強く返すと基山はありがとうと笑う。
それからは暇をみては譜面と格闘する日々が待って居た。同じ音楽の譜面とはいえども読み取るのと書き興すのとでは難易度も掛かる労力も桁外れだ。サッカーのことも疎かに出来はせず、結局ろくに時間の取れない神童に変わって基山がほとんどの譜面を完成させて渡してくれたのはそう時間が掛からなかった。強弱などが簡単に書かれた原本を手渡された神童は基山に深くお礼を述べると、彼は「こんな曲でも誰かに必要とされたことが嬉しいから」と神童の癖のある髪を撫でる。
心優しい基山の貴い思い出の形を手にした神童は数部のコピーを取り急いで保存し、練習様に残した一部を見つめる。「あれ、」発想標語とかは書かないんですね。神童が言うといつも感覚で弾いていたからね、と困った顔が基山に浮かぶ。気恥ずかしいけれど、そう言って近くにあったペンで基山が文字を加え出来上がった譜面は神童にとっても掛け替え無い宝になった。好きであるから続けていきたい、神童は弾いた。基山の幸せを願って何度も何度も。
そうして神童が空でも弾く事が出来る様になったとある午後の事である。部活が始まるまでの間、珍しく出来た暇に神童は音楽室の個人レッスンルームに籠り新たな課題曲の練習に耽っていた時だ。しかしどうも上手くいかない苛立ちを解消するためにあの曲を弾いていた。鍵盤に指を滑らすと楽しかった。サッカーをしているみたいな高揚した感覚に神童が身を任せて居ると不意に部屋の扉が開き、神童は思い切り振り替える。「…円堂監督、」悪いな邪魔したか、と申し訳なさそうに頭を掻く円堂に神童は首を振って何かありましたかと問えば今日の練習の事で少し、と円堂はピアノ横の講師用の椅子に腰掛けた。
「部室に行きましょうか」「いや、いいや」それよりも今の曲綺麗な曲だなあ、懐かしい感じがするし。笑ってこちらを見る円堂の姿が思いがけなく、神童はふと言い淀んだ。ここで全て明かすことだって出来たけれど神童は他人の思い出を無理言って分けて貰った一介の人でしかなく、言ってしまうのはとても失礼に思ったからだ。「これ、先生のオリジナルなんです。……彼の、とても大切な人のオマージュ」精一杯の気持ちを込めて神童は円堂を見つめた。
円堂はとても驚いた様子で神童の師を褒めた。「これだけの曲を作って貰えるって相手も幸せだよな」純粋な笑みで同意を求める円堂に、神童は今度こそ泣きそうだった。円堂監督、これはあなたのための曲ですよ。貴方が大好きで大切に思い続けて居る人が、貴方を思って作ったんですよ。叫んでしまいたかった、知って欲しかった。神童は何か言えないかと視線を彷徨わせると視界端に映った鞄から、急いでファイルを取り出した。
急な神童の動きに驚き声をあげた円堂に、神童は数枚の紙束を渡す。「……楽譜か、これ」円堂が受け取った紙を捲ると全てに手書きの譜面が写っていて、どうしたものかと困り顔を向けた円堂に神童は差し上げますと強く言った。「貰えないよ!大切なものだろ、それに…俺ピアノ弾けないし」急いで神童に返そうと楽譜を持つ手を伸ばそうとするが、それよりも早く神童は手を突っ撥ねた。らしくない神童の行動に戸惑いを隠せない円堂に神童はどうしても貰って欲しいんですと懇願する。奥さんでもいい、弾けませんか。ねえ、監督お願いします。
今にも泣き出しそうな神童の意図は分からなかったけれど最後には貰うよと円堂は笑い受け取った。確かに彼の手に渡った事を確認した神童はありがとうございますと深くお辞儀をして溢れ掛けた涙をやり過ごした。「先生には」「俺から言っておきます」出過ぎた真似をしていると神童は内心理解していながらも、この行動を決して基山は悲しまないだろうと神童は確信していた。きっと困った様に、けれどくすぐったそうに笑うだろう。神童はやらなくてはいけない事をやり遂げた気さえしていた。
(基山さん、俺は貴方も幸せになってほしい)神童は目を瞑る。円堂に手渡った楽譜が再び使用される日はいつになるのだろうか。もしかしたら彼の周りでは一生ないのかもしれない。けれど円堂守という人物があの曲を気に入り、その楽譜を持ち続けるという事は基山の幸せに繋がるだろう。(いつか、)円堂守が気付きますように。貴方を愛し続ける優しい人物の存在に。神童は円堂の手元の譜面を見詰めた。丁寧な、優しい文字で書かれたコン・テネレッツァの発想標語の意味を思い出し祈りながら。





con tenerezza=優しく愛情を持って
にこら様より