日に照らされた朝露が葉の上で脳天気にたたずんでいる。バーンはその様子をじっと見つめながら、けれど耳だけはグランの方へと傾けてまっすぐ立っていた。
「まだ、大丈夫だ」
 まだ聞こえる。汚く黄ばんだ鍵盤をはじきながら、グランはひたすらそう繰り返した。この場に存在するのは有り得ないような、それはそれは偉大なグランドピアノに身を寄せて、美しいあの緑色の目を細めて。バーンの金色の瞳に、その姿はひどくもろく映っていた。なぜだかは考えもしない。
 樹海の奥の奥、それからさらに奥の虫さえも寄せ付けないような樹木の連なりの中に、ぽつんと不釣り合いなものが捨てられている。グランから初めてそのことを伝えられてから早くも半年がたとうとしている。進化のない、退化だけの世界に体を沈めて、誰にすがることのない生活にもずいぶんと慣れたものになった。正しくは、なってしまった。セカンドランクの彼らがサッカーボールという名の兵器を町へ打ち込む日も、もうそんなに遠くはないだろう。そのせいか、ここ最近でグランとバーンがこの場所へ来る回数は以前よりも多くなった。ふたりしかしらない、秘密の花園である。
 また、ポンという鈍い音が辺りに響いた。それを聴いて森から飛び出す鳥も、草の中で動く虫もここにはいない。それは半年かけて通ううちにグランもバーンも学んだことであった。
「ほら。バーン、聴いて。まだこんなに音が響いている」
 にこやかな表情で一音一音拾っていく彼の姿を、バーンは悲しそうに眉をゆがめて見つめた。言葉は返さずに、彼を眺める視覚と音を聞き取る聴覚しかないような具合に。
「父さんがね、言ってた。俺が似ているって。そう言っていっつも幸せそうに笑うんだ。でもね、彼ピアノは弾けなかったんだって」
 だから、俺たちがここに通ってること秘密だよ、父さんに知られてはいけないよ。グランはただ一人で口を動かし続けて、そして気づけば片手だけだった鍵盤の上に両手をのせていた。ポンポンと鍵盤を押す音が響く。レガート、スタッカート、スラーにアクセント。楽譜がなくても、暗譜している彼の指が止まることはない。
「なあ、グラン」
 彼は演奏をそのままに、耳だけをバーンの方へ向けているようだった。バーンも構わず言葉を続ける。ふと、朝露が葉から落ちた。
「今日、ジェミニストームが雷門中へ出発した。すべてが、始まってしまったんだ」
 ぴたりとグランの指が止まる。うそだ、と彼は目を見開いてバーンを見た。どうして。そう続ける彼の肩は震えている。以前よりも痩せてしまった体は、より彼の奇妙な人間離れした雰囲気をきわだたせていた。グランの指が動く。もう一度、人差し指でその汚い鍵盤をゆっくりと押しこんだ。
「バーン、どうして、教えて、おかしいよ、へんだよ」
 バーンは顔をしかめる。それでも、わななくグランの手を片手で取って、そしてもう片方を背中へと回して、彼の背中を温めた。今日は、時間が昼に近づいても気温は一向に上がらない様子である。
「グラン、無理しないでくれ。目を覚まして、俺を信じてくれよ。あのな、前からそのピアノの音は」
 一瞬の間の後、グランの張り裂けるような絶叫が響く。周りの林から鳥が一斉に飛び立っていった。




三億光年待って
あゆかわ様より