頑張っても頑張ってもだめな人間だっているんだ。頑張っても頑張ってもだめだったんだ。そう言って風丸は俺の足もとに泣き崩れた。わんわん泣きながら膝を抱く腕が震えているのを、俺はただぼんやりと見ていることしか出来なかった。

 中学校生活最後の夏休み、俺は来る日も来る日も漫画やゲームで暇を潰した。勉強なんか手につかないし、家にいたって何もやることがないからだ。思えば俺は小さいころから外で遊んでばかりいた。円堂や他のやつらと一緒に近所の公園で毎日泥だらけになって遊んでいた。走ることが好きだったから陸上部に入って、円堂に誘われてサッカー部に入って、やっと居場所を見つけたと思ったら、膝が悲鳴をあげていた。俺は走れない体になった。スポーツ推薦の話も全部破談になった。走れなくなって、外の世界の全てを失って、自分の部屋だけが世界の全てになって、そこには何もないことを知った。つまらない漫画もゲームも、全部中途半端なまま床に落ちていた。そうだ、学校に行ってみようか。外は夕焼けが眩しかった。この時間なら、うまくすればサッカー部とすれ違わずに学校に行けるかも知れない。俺はゆっくり階段を降りて、適当にその場にあった靴をはいた。歩きながら、適当にはいた靴が初めてサッカーの大会に出たときのスパイクだったことに気付いて何とも言えない気持ちになった。母さんは大事に置いておきなさいと言ったが、捨てるつもりで玄関に出しておいたのだ。確か、靴底が擦りきれてだめになったから新しいのを買ったんだったな。俺は靴底の擦りきれたスパイクで過去を擦り潰すようにして歩いた。もう二度とはけないようにして帰ろう。そう思った。

 あれ、風丸先輩じゃないか。誰かがそう呟いたのが聞こえた。ほら、髪の毛緑だし。振り向くと、校舎の中に消えていく風丸の姿が一瞬だけ見えた。俺は追いかけて声を掛けたい気持ちでいっぱいだったが、整地の途中でトンボを放り出して行くわけにはいかなかった。もしかしたらそれは言い訳で、本当は離れてしまった幼馴染みに掛ける言葉が見つからなかっただけなのかも知れない。俺はトンボ掛けをさっさと済ませてから夏休みの宿題のリコーダーを忘れたから取りにいってくると言い訳して校舎に向かうことを告げた。半分本当だった。みんなは先に帰ると言って帰った。俺はそれを見届けて、靴を履き替えに下駄箱へ向かった。

 円堂は何でも出来るやつだけど、ひとつだけ苦手なことがある。それはリコーダーだった。円堂は昔から、音楽の成績が異様に低い。小学生のころ、三年になって初めてソプラノリコーダーを吹いたときのことはよくおぼえている。指がもつれて上手く押さえられないと言って、外れた音ばかりピーピー鳴らしていた。音楽会や卒業式が近付くと、帰りに二人でリコーダーを練習しながら帰ったものだった。
「リコーダーは、俺の方が上手だったのになあ。」
 一人で呟いて、一人で笑った。膝が痛んで、その場に座り込んだ。すぐに痛みはひいて、俺はまた立ち上がった。

 校舎の中で風丸の姿を探したけれど、なかなか見つからなかった。夕陽が落ちて、窓のない廊下が暗くなり始める。風丸のクラスの前を通り過ぎて、思い直して教室に入った。「風丸一郎太」のシールが貼られた机は廊下側の隅、前から三番目にあった。夏休みに入ってまだ日が浅いのに、薄く埃がかぶっている。机の中には無造作にザラ紙のプリントが詰め込まれていた。夏休みの宿題として課されているはずのプリントも入っていた。俺はそれを全部机から出して丁寧に折り畳み、校舎で風丸を見つけたら渡すことにした。もし見つからなかったら、家まで届けよう。ゆっくり話をする言い訳が欲しかったのかも知れない。俺はずるかった。

 円堂の机の中にアルトリコーダーが入っているのを見つけた。袋から出して組み立てると、ほんのり円堂の唾液の匂いがした。息を吹き込むと、ピー、などと間抜けな音がして、俺は一人でゲラゲラ笑った。馬鹿みたいだ。蛙の歌を吹いた。メリーさんの羊を吹いた。屋台のラーメン屋がよく鳴らすアレを吹いた。それくらいしか暗譜しているものがなかったからだ。全部、小学生の頃に帰り道で吹いた曲だった。俺は一人で笑っていた。円堂のリコーダーはやっぱり間抜けな音がした。

「風丸、」

 俺は円堂のリコーダーを吹いて笑っていた。円堂はそれを静かに見ていた。それから、円堂の顔を指差して俺は何か叫んだ。何を叫んだのかわからなかった。円堂が静かに静かに俺を見ていた。笑いながらリコーダーを吹く俺の姿を静かに静かに静かに見ていた。何もかも意味がわからなかった。

 頑張っても頑張ってもだめな人間だっているんだ。頑張っても頑張ってもだめだったんだ。俺の足はもうだめなんだ。俺はもうリコーダーでしかお前に勝てないんだ。そう叫んで風丸は俺の足もとに泣き崩れた。わんわん泣きながら膝を抱く腕が震えているのを、俺はただぼんやりと見ていることしか出来なかった。風丸の手から俺のリコーダーが落ちた。ころころとゆっくり転がって、それから俺のつま先に当たって静かに止まった。



あしゅらこ様より