ぽーん、と。Cの音が、した。二年間ほど調律を施していない所為か、音がひどい気がして。それは、普段自分が黒と白のそれに触れているときより、何処か明白だと思ってしまう。幾許(いくばく)か高い、ド、の音。そそくさと脱いだ靴を隅にまとめて玄関を後にする。さすれば次に、Dの音が、した。一体誰が弾いている音階なのでしょう……なんてのはあまりにも野暮な疑問だったけれど、けれどつい、考えてしまうの。何故なら、貴方がそれに触れているところなど、いままで一度たりとも見たことが無かったのだから。ぽーん、と。Eの、音。ド、から始まって、レ、ミ。次はきっとFのファだわ、と。解ってしまえばつい、ちいさな笑みが零れて。カチャ、と。出来るだけ音を抑えて上質なドアを開ければ。やっぱり、立ったまま鍵盤に触れる、ジュリアン。白い鍵盤に何処か遠慮がちに触れる、一本の指。その姿が自分の視界に宿れば、なんだか凄く、ぞくり、としたの。温かな日溜まりの匂いを携えて、爽やかな風に揺れる、背の高い硝子窓を覆う萌黄色のカーテンが、白昼の光を透かして白っぽく輝いている。くしゃり、と、流れる、甘い蜂蜜よりも遥かに綺麗で陽光を孕んだかのように癖ある黄金の髪。なんだか凄く、ぞくぞくしてしまう。そして、そんな感覚を覚えているいまのわたしは、はしたないのかもしれなくて。

「………」

カーテンをやさしく揺らす風の音が凪ぐ。貴方は黙っていた……というよりも、わたしがこの部屋に入ってジュリアンの逞しい背中を見つめていることになど、全く気付いていない。警戒心がこの上なく薄い。それほど、この、黒と白の鍵盤に貴方はこころを奪われているのでしょうと思えば、ファ、に、落っこちたジュリアンの指。無意識に零れる笑みが、どうしようもなくて。床に足音が吸い込まれるように歩いた。ぽーん、ぽーん、と。上る、音階。やっぱりぞくぞくして。とりあえず、貴方の後ろに立ってみた。いつもと同じ、花の香りが自分の鼻腔をくすぐって。


「………」
「………」

「……ただいま」


気付かれないのがちょっとだけ悔しかった気がした。貴方のセルリアンブルーの美しい双眸はずっと、鍵盤に落ちていて、その細長い指先は、音を鳴らした後も白いそれをなぞっていて。こんなことを考えるだなんて、なんだかとても悪いことをしている、はしたない気分になるのだけれど。試しにちいさく“ジュリアン”と、呟けば、それこそ、兎のように、ぴくんっ!と、跳ねた貴方の肩。そして急(せ)くように振り返る、ジュリアン。それはまるで悪いことをした、コドモのようで。

「っ…!?」
「ただいま、ジュリアン」

「……あ、おかえり。ボクのギュエール」

悪いことをした、コドモみたい。紡ぐ言葉はいつもと同じでも、余裕の欠片を失ったような貴方に、不謹慎ながらも思わず笑みが零れて止まらなくなれば、ジュリアンはちょっとだけ罰が悪そうな顔をする。なんだか、可笑しいわ。部屋に入ってきたときから、笑みが止まらなくて。

「ふふっ……ジュリアンも、ピアノ始める?」

「……いや、ボクは」
「なあに?」


「ギュエールが弾いているのを見るのが好きだからね」


優雅な笑みが、美貌を更に華やかに彩り、するすると、風に弄(もてあそ)ばれるかのように流れる、煌々たるブロンドを一度だけ掻き上げるのをぼんやりと見ていた。細められた美しい双眸と穏やかな瞬間。さらり、と。貴方の唇から零された言葉に、じわり、と、頬が熱く染まる。

「……それは…っ…ありがとう」

「くすっ……ギュエール、頬が林檎のようだよ。とても美味しそうだ」

「……っ、」

思わず、黙った。さすれば、貴方はより楽しげにくすくす笑う……あ、いつものジュリアンだわ。ピアノに背を向けている貴方のセルリアンブルーの瞳には確かにいまはわたしだけが鮮明に映っていた。美しい色に染まる、わたし。それに少しだけ、なんだか安心した気がして。じっと見つめる宝石の瞳から咄嗟に逃れようとすれば、ふわり、と、後ろから掴まれた両肩。不意なそれに、ぴくん、と、まるで先程の貴方のように身体が跳ね上がれば、より一層身体が熱くなる。

「ねぇ、ギュエール」
「……なあに?」
「何か、聴きたいな」

矛盾している、と思った。ジュリアンの言っていることは、目茶苦茶ね。聴くだなんて、きっと嘘。きっと、きっと。だって、貴方は先程、違うことを言ったでしょう。“見るのが好きだ”と。ゆっくりと肩を押されて、半ば無理矢理黒い椅子に腰を降ろせば、自分をひたすら見つめてくる綺麗な双眸に、どきり、とした。仄かに熱を帯びていそうな、セルリアンブルー。


「ボクは、コレが聴きたい」


ぴら、と。譜面台の後ろの方から、かさかさ、と、探り出した貴方。無造作か、或いは、確信犯か。何冊もある楽譜の後ろから探り出す、細長い指先は“赤”がやたら目立つ長めの楽譜へと辿り着いてしまう。

「……弾けるかしら」
「弾いたこと、ないのかい?」

「……いいえ、弾いたことはあるわ。ただ、」

楽譜の上部。赤いペンで書いた字を、更に赤いペンで囲ったのだけれど。何度弾いたところでこの曲は中々“OK”が出てくれない。ピアノと名の付くこの楽器と向き合い続けて、自分はもう10年以上になるし、上級者向けの難易度な曲というわけではないのだけれど、この赤い字の指示が上手くこなせない所為でわたしは苦境に陥り、悔しい気持ちを携えたまま諦めて、違う曲を始めようか、と、この赤が目立つ楽譜は自然と後ろの方へ移動していた。そんな、苦い想いの詰まった楽譜を久しぶりに見つめたあと“ココを見て”とでも言うように、とんとん、と。わたしはその字を指しながら貴方を見上げる。すると、貴方の美しい瞳がそこへ向かった。コレが出来なくて……、と、素直に、だけどちいさく零せば、てんてんてん、と、黙るジュリアン。するする、と、ブロンドの髪が揺れる。

「なるほど……甘く、か」
「……ええ」

この曲に記された楽語は、“dolce cantando”意味は、甘く歌って。更に、赤いペンで“甘く”と、書いたところでやっぱり中々OKは出なくて。それどころか、コレを弾く度、上手くいかない歯痒さ故に、ブラックコーヒーのような苦味を覚えるばかりだというのに、甘く、だなんて。わたしにはひどく難しい。さすれば、不意にジュリアンからの視線を感じて、再びじわりと熱く染まる頬。それは爽やかな風が吹くこの室内にいても、もう冷ますことは不可能な気がして。そして、貴方は何も言わない。沈黙が奏でられる、こんなとき。いつもなら砂糖菓子のような言葉の羅列がその端整な唇から零れるというのに……ああ、要するに、旋律の要求なのでしょう。白い鍵盤に指を触れさせて、一度だけ、高過ぎるほどの天井を見上げた。コレは、わたしの、癖。煌びやかなシャンデリアはわたしと貴方、それからこのグランドピアノを優雅に見下ろす。すう、と、静かに酸素を吸い込んで、初めの音。ぽーん、と、落っこちる音が、なんだか先程のジュリアンのように、上手くいかない。直筆の、赤い文字。その下に“愛の夢”愛の夢、第三番。なんだか、とても変な感じがするの。CDは、生ではないのに。ジュリアンはピアノを習っている訳ではないのに……どうしてあんなにも、dolceだったのか、と。ずっと、ずっと考えた。音符は頭の中に入っているのに、なんだか凄く、歯痒くて。半分辺りまで引いたところで、少しばかり苛立ちを覚えてしまう。ずれてきた。横から触れる貴方の甘さを孕んだ視線と、白い鍵盤と、黒い鍵盤。つい、手を止めようとしたわたしはどうやら気が短いらしい。ジュリアンの前で上手く弾けない歯痒さに指を止めようとした、その刹那。外で聴こえた、ごおお、という喧しい音。

「……あ」

ざあっ、と。勢いよく部屋に流れ込んだ吹き荒(すさ)ぶ風に思わず言葉が零れた。刹那に、するり、楽譜が動いた。反射的に、飛んでいく、と、思って。勿論、そうなるはずで。強い風が吹けば、紙なんて簡単に飛んでいく。けれど、それはあまり上手くいかずに終焉を告げてしまう。とっ、と。譜面台に押さえつけた、貴方の細長い指。そして状況なんてほとんど掴めないうちに。ジュリアンの唇が、わたしのに、触れる。

「んっ……」

ちょっとだけ深いその行為に、甘美な麻酔を掛けられて瞳を閉じる。閉じる直前に目にした、セルリアンブルーの瞳。熱を宿していた、きっと。カンチガイで無ければ。そのあと、するり、と。わたしの髪を撫で梳くようにやさしく触れた、貴方の指。気紛れな風はもう治まっていて。もう一度吹く可能性だってあるけれど、なんだかそれは無いと勝手に確信している自分がいて。よく、解らないけれど、なんだかそんな気がして。

「……っ、」
「充分甘い気がするけどね……ああ、それとも」

「……えっ?」
「ボクが見ているから、かな?」

疑問符をくっつけてそう紡ぐ貴方はやっぱり綺麗で、くすりと楽しそうに微笑する。さすれば不意に、悔しく思った気がしたの。悔しくなってしまうだなんて、図星みたい。図星じゃない。図星じゃないわ……けれど、図星じゃない、訳ではなくて。もしかしたらただのお世辞だったかもしれない。甘く弾けない、と言ったわたしを、慰める為、の。それこそ、お世辞なんて貴方の得意分野だもの……でも。けれどね、貴方に、ジュリアンに言われてしまうと、本当にそんな気がしてしまうの。かあああっという効果音が付きそうなほど熱さを増した自分の頬。わたしを覗き込む、揺るぎない煌めきを宿した、宝石のようなセルリアンブルー。貴方の後ろに、愛の夢、の文字。


「……ジュリアン、そういうのは、自意識過剰、と言うのよ」
「くす、そんなんじゃないさ。ただ、」


余裕たっぷりな瞳の中に、何処か拗ねたような色も拡げてジュリアンは笑った。優雅に揺れる長い睫毛のすぐ下で、やさしく細められたふたつの瞳はひどく穏やかで、頭がぼんやりとする。恍惚としてしまう。見つめ合ったまま、わたしの頬へと触れにいく貴方の女性と見紛う、否、女性よりも綺麗で、白くなめらかな指先。つい先程、白い鍵盤に触れていた、指。まだ、吐息が触れ合うほどの距離でもないのに、キスされる、と、思ってしまう。今日の貴方はいつもより静かなのに、いつもより解りやすい。


「……ボクがいないところで、いまのように弾かれていたら困るのさ」


息を、呑む。呼吸ひとつさえ、零せない。なんだか、ぞくぞくしたの。全くそうでない風な顔で、貴方は囁いて。ゆっくりと、甘い曲線を描いた薔薇色の官能的な唇が、近付く。するり、と、頬を触れるジュリアンの少し冷たい指先。背中が変な感じがする。ぴく、と、腰が微かに疼いた気がして。ジュリアンは再び優雅に微笑する。「続きが聴きたいな」と、何食わぬ顔で。危なげな貴方の妖艶なる双眸と、じわりと熱を帯びたわたしの頬。そして貴方は、笑ったままこう言った。甘いのがいい、と。それはそれは極上なる笑みで。











Love as long as it is possible to love.
めりさ様より