溺死というのも悪くないと思い始めたのは何時頃からだろう。 深々を降る雪を見つめながら廉造は白い息を吹き上げる。 冬は嫌いだ。 無論女子の露出が減るからで。あの黒いタイツの何とも言えない禁欲的な感じも悪くないのだが、やはり溌剌とした肌が晒される夏の方がずっと好きである。 意識を夏に飛ばしたところで暖かい日差しは一向にやってくるはずもないので、廉造は諦めたようにため息を零して雪下ろしを再開した。 京都はそこそこ雪が降る。 明陀宗は金剛深山の麓に根を下ろした為虎屋共々毎年雪に見舞われており、老朽化した木造に下手に雪がのしかかっていれば崩壊は必須なので、なんだかんだで毎年恒例の仕事になっていた。 小さな頃は皆で雪だるま作るなり雪合戦をするなりして遊んだものだがもう高校生。流石にそんなこともしていられないし上の兄たちが任務に出向いていて人手が足りない。 まだ訓練生なので仕方がないのだが、何とも皺寄せを食らった気がして憂鬱である。 「れーん」 白い風景の向こうに黒い頭が顔を出す。真っ赤なマフラーを巻いたなまえの声が響いた。 ちらちらと降る雪にぼやける景色の中でもその色だけははっきりと見える。 「おーなまえ」 「寒い中ご苦労やねぇ、これ女将さんに言われておぶ持ってきたえ休憩し」 「おん」 下が積もった雪とは言え滑り降りるなんて芸当はさすがにしない。 ぐらつく脚立で慎重に降りた廉造は屋根の下で雪を払った。 「あれ、坊らには?」 「もう持っていった。あんたが最後や」 「ひどい!俺の所一番に来てぇな!」 「アホ、一番に来たら、ゆっくり出来へんやろ?」 雪のせいなのか、鼻まで真っ赤に染めたなまえに廉造の心臓がきゅんと悲鳴を上げる。 「えへへ」 「なに笑うてるん気持ち悪い。ほら、風邪ひかへんうちに体あっためんとあかんさかい」 慣れた手つきで魔法瓶から注がれるお茶は湯気があがる。 文明の利器とはすごいものだ。この寒さの中でも高温が保たれているのだから。 そうして二人の間に漂うのは柑橘系の香りだ。 「柚子?」 「おん、嫌い?」 「ううん、ええ匂いやなぁ思て」 渡されたマグカップの熱は手袋越しでもしっかり伝わる。 暖かさにほっと息を吐けば白い吐息が吹き上がった。 「今年もえらい積もったなぁ」 「おん、虎屋もてんてこ舞いやわ。この時期は雪見で露天が人気やしなぁ」 「はぁ・・・ええなぁ。俺も温泉入りたい」 「雪下ろし終わったら三人で入っておいで、うちから女将さんに云うておくさかい」 この雪の中での作業は動いていれば多少暖かいが、少しでも動きを止めればすぐに指先から冷えてきてしまうのだ。 かじかむ手足を震えさせる廉造に、なまえは肩を揺らして小さく笑った。 「男三人で温泉なんてむさいやん。俺はなまえと一緒に入りたいんや」 「なっ・・・アホ・・・!」 これはさすがに雪のせいではあるまい。 目尻まで赤くしたなまえに廉造の胸が温まる。 出来れば今すぐ抱きしめたいのだが、この冷えた腕では申し訳ないので大人しく我慢した。 そう思っているのに肩を寄せて体重をかけてくる仕草は卑怯だと思う。 なまえはいつだって簡単に、いともたやすく廉造の決意を打ち砕いてしまうのだ。 「なーなまえー」 「おん?」 「キスしてもええ?」 「アホ・・・」 「そればーっかり」 長い付き合いの中でお互いのことはほとんど知り尽くしている。 なまえが顔を赤らめたままアホと言う時は、大抵了承を意味している事を廉造は知っていた。 マグカップを片手で握り、もう片方の手は手袋を脱ぐ間も惜しい。 触れていない方の肩を掴み、逃がさないと視線で伝えれば赤くなった頬と涙で滲む瞳と視線が絡む。 「かいらし」 「アホ」 なんとかの一つ覚えのようにそれを繰り返すなまえに、廉造は満足したように笑ってキスをした。 なまえの少し冷えた唇を温めるように、柚子茶の熱を含んだ廉造の唇がなまえを食む。 取り分けいやらしい気持ちはない。 ただ、愛おしいという気持ちなのだろう。 伏せた睫毛の長さを見つめて、それから廉造も瞼を閉じた。 「甘い」 「うん、柚子茶美味しかったえ」 「よかった。作ったんは初めてやったけど」 「え、女将さんが作ったんとちゃうん?」 「坊と猫のは、せやで」 つまり、廉造の分だけは特別だったということだ。 ふつふつと、足先から熱が上がってくる。 なまえは、ずるい。ずるいのだ。 いつもこうやって、簡単に廉造を幸せにしてしまう。 自分の沸点の低さなのか、惚れた弱みか。なんでもいいが、なんだか自分ばかり幸せで悔しい。 きっと今なら廉造も、なまえに負けずとも劣らず顔が赤いだろう。 ふたりして雪の降る中顔を赤くしている。 少し恥ずかしくて、寒くて、同時に照れくさくて嬉しくて。 廉造は笑った。 「あかん、俺、なまえに殺される」 「なんやのそれ、人聞きの悪い」 幸せな溺死だ。 なまえと過ごすささやかな毎日が、こんなにも廉造を苦しめる。 だから思ってしまうのだ。 溺死というのも悪くない、と。 20121202 溺れる魚 |