2、その夜に秘密は始まった



 今度はちゃんとハッキリ聞こえた。

 ちゃあああ〜んと。聞こえてしまった。

 あたしは浮かしかけた腰もそのままで、じいい〜っと目の前で悠然と椅子に座る新峰先生を凝視する。

「・・・えーっと・・・?」

 流れていた冷や汗が脂汗に変わったのを感じた。

 選択肢はみっつ。

 @無理やり冗談で済ませる。Aあっさりと受け入れる。B真意をあくまでも問う。頭の中で箇条書きで並べ立てて、あたしはとりあえず腰を下ろした。

 @で済ませるには、過労と無気力で社会人になって以来彼氏のいないあたしにはちょいと勿体無い話だ。だけどもAを受け入れるには理性が断固拒否をしているし、ここはやっぱりBの選択肢で行こう!と、ダダーっと3秒くらいで考えた。

「新峰先生、見返りって、フツーは宴会の幹事だとか雑用使役だとか思うんですけど・・・。その・・・それではなくて、えーっと・・・」

 言葉に出来なくて口ごもるあたしを見て頷き、彼はまだ微笑んでいる。

「はい、違います。かなり具体的に言ったつもりなんですが、それでダメなら・・・。要するに、体で支払えって言ってるんです」

 ぎょええええええ〜!!さらっと、今、さら〜りと、結構な言葉を口にされましたけど!??

 唖然と口をあけて固まるあたしを面白そうに見て、新峰先生は開いていた業務日誌を閉じた。

「そんなに理解出来ませんか、山辺先生?国語の教師の割りに語彙力も若干乏しいし・・・」

 今度はちゃんと一発で頭に届いた。罵り言葉には昔から敏感なあたしだ。開きっ放しだった口を閉じて、きっと前に座る美形を睨みつける。

「おバカで済みません!ですが、新峰先生の提案が許容範囲を超えましたので!」

 そして立ち上がり、飲んでいた湯飲みを片付けに給湯場へ行く。ちゃっちゃと片付けて立ち去ろうとして怒りモードのまま振り返ると、新峰先生が保健室のドアの鍵をかけているのを発見した。

「・・・何してるんですか?」

 一応、あたしは聞く。いや、そりゃあ見たら判るんだけど、それでも一応と思って。内側の鍵をしっかりかけた上に出入り口付近の照明を切って、新峰先生は振り返った。

 外は既に日が暮れていて夜に入りかけている。

 照明を半分以上消した薄暗い保健室で、着ている白衣をぼんやりと浮かび上がらせて、垂れ目の優しげな目元を更に柔らかくして笑う男を見詰める。

 ・・・・これは・・・まさか。もしかして。貞操の危機、というヤツなのでは??

 まあ別に、処女では辛うじて、ないが。

 あたしは棒のようにつったって、ゆっくりと近づく美形の保健医を眺めた。

「鍵は閉めた。灯りは消した。これで、後はあまり騒がなければ誰にもバレない」

「・・・は・・・」

 敬語を消して、彼は首を傾ける。

 目の前に立ち、見下ろしてくる顔は影になって表情までは判らない。あたしはさっきまでの怒りは既に吹っ飛んで、蛇に睨まれた蛙状態で固まっている。

「・・・・・あの、新峰先生・・・?」

「うん?」

「何するんですか?・・・あたし、そろそろ帰らないと・・・」

 新峰先生はあたしを見下ろしながら、ゆっくりと言った。

「確か、山辺先生は一人暮らしで彼氏なし、だったね」

 今までの木曜日の雑談であたしが漏らした情報だ。あらまあ、ちゃんと覚えていたのかー!全然聞いてなさそうだったから何気なく話していたのに、しっかりと記憶していたとは驚きだ。

 って、今はそんな状況でないでしょう!はりせんがあったら自分を叩きたいあたしだった。

「・・・・」

「――――――さあ、脱いで」

 頭に霞がかかったようだった。

 穏やかな新峰先生の声が脳内を旋回する。急に周りが真っ暗になったかのように、意識が理性を追放した。甘く軽やかな調べが聞こえた気がする。あたしはその音楽にのって、ゆっくりと、だけど自分の手で確実に、ジャケットのボタンを外しだした。

 そうすることが当然のように思えた。

 何であたし、あんなに拒否していたんだろう・・・。だって、目の前には楽園が。

 誰かがあたしを抱きしめてくれるって言ってるのに拒否なんて、何考えてたの、美咲。喜んでお受けするべきでしょう?

 大きくて温かい手があたしの頬を撫でる。それにつられて目を閉じる。あたしの頭の中は同じ複数の単語が回るばかり。

 薄明かり。

 保健室。

 新峰先生。

 薄くて固いベッド。

 揺れる天井と熱い体。

 とろける理性と漏れる甘い声。

 服を全部脱がないで、彼はあたしを揺さぶったのだ。自分は服を着たままで。あたしだけが裸になって。

 あたしは職場で、恋人ではない人と、いけないことをしている―――――――――

 それらは麻薬みたいによく効いたのだ。

 シーツが皺くちゃになって、その上で荒い呼吸を沈めるあたしに微笑んで、新峰先生がズボンのジッパーを上げながらこう言った。

「隠された内側は、情熱的なんですね、山辺先生。大丈夫になったら行きますよ。もう帰る時間だ」

 敬語が復活している。魔法の時間は終わったのだな。

 大丈夫なんて程遠かったけど、あたしは頑張って身支度を整えた。

 しばらく経験がなかったから、ほとんど初めての時並みの痛さがあったけど、背徳感に覆われて、それすらも快感になったのだった。新峰先生は荒々しかった。その点においては、完全に犯されていた。その無理やりさがまたあたしには甘い痺れをもたらした。

 だって、恋人じゃないのだ。

 まだ足の間から滴が垂れる状態で、あたしはストッキングをはき、スカートを直した。

 職員室の同僚に悟られないようにしなければならない。

 もの凄く言いたいけど、これだけは秘密にしなくちゃ。

 あたしは、新峰先生に抱かれてしまったのだ。

 夜の、保健室で。

 その秘密はあたしを浮き上がらせた。そして、ふわふわと浮いた気分で家に帰り、その間ずっと頬の筋肉は緩みっぱなしだった。

 耳元であたしを嬲る新峰先生の低い声が、リフレインしてはじんじんと心に染みる。

 肌をまさぐった熱い手の感触が瞼の裏を揺らす。

 乾きっぱなしだったあたしの足の間は久しぶりに目覚め、潤ってひたひたと水を満たす。

 夏の終わりの夜の道で、あたしはスキップまでしてしまったのだった。

 そうして、今日も保健室のドアを開ける。今日は木曜日。先週、あたしを誘惑した保健医とは、一週間話さなかった。朝礼で顔を見ただけだ。

 あたしは、飢えている。

 目の前で微笑むこの人に飢えている。

「いらっしゃい、山辺先生」

 かけていた眼鏡を外して机に置き、新峰先生が微笑んで手招きをする。

 あたしはゆっくりと保健室の中を机に向かう彼の元へ進んだ。




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