・都の決心
救急車が私達家族を運んだのは、隣町の市民病院だった。緊急時はここに運ばれることが多いってことすら、私はその時初めて聞いたのだ。
救急車の中で、娘は痙攣は止んでいたけれどもぐったりとベッドに身を横たえている。救急隊員が酸素マスクをあてているのを見ながら、私は彼らから発せられる矢継ぎ早の質問に必死で答えていた。
いつから発熱していたのか、痙攣はどのくらいの時間か、今までにあったことなのか、それから出産時の異常の有無や体重、最近の様子や食べていたものなど。
そこで自分が情けなくなったのだった。
だって、ここ最近の私はホルモンバランスによる臨戦対戦モードになっていて、拒否してしまった夫に対しての考えで一杯一杯で、そこまでしっかりと娘を観察していなかったのだ。
何度も詰まった。
思わず口に手をあてて青ざめる私に、まだ20代と思われる隊員のお兄さんが真面目な表情を向ける。その顔には、あんた母親なんだろ?なんで答えられないんだ、という文字がデカデカと見えた。いや、実際にはお兄さんはそんなことを思っていなかったのかもしれない。きっと、多分。だけど罪悪感に打ちのめされた私にはそう見えたのだ。
「えっと・・・」
隣で無言で座る夫が、チラリと私を見たのが判った。
・・・ここ、最近。桜はどんな便をしていた?どれだけの感覚でミルクを飲んだ?体重は?────────やだ、私・・・答え、られない。
言葉を失っている内に病院へ到着してしまう。バタバタと人が走る音。それから桜は運ばれていって、私は混乱したままで誘導されるがままに着いていく。
頭の中は「どうしよう」こればかりだった。
痙攣の治まった桜を医者が診察していく。ぐったりと瞑られた桜の目を医者が開けた時に私はぎょっとして仰け反った。
娘の両目はぐぐっと右上を向いたままで、微動だにしない。その感じがあまりにも「異常」で、いつものように反応しない娘の様子に眩暈が激しくなった。
「反応がないですね。目が戻ってこない。これは、ちょっと・・・」
医者が低い声でそう言いながら桜の上に屈みこむ。
看護師さんが「お母さん」と声をかけてきた。
「ちょっと見るに耐えれないようですし、外でお待ち下さい。検査に入ります」
医者が娘に声をかけ、体中を触って反応を確かめている間に、私は呆然としたままで連れ出される。
救急室の待合、そこには何らかの病気や怪我で運ばれた人達の家族や親戚の姿。皆一様にくらい顔をして天井や床をじっと見詰めて座っている。
その中の、長いベンチシートに座って壁にもたれるダレ男を発見した。私は無意識に、そこにフラフラと歩いていく。
ヤツが顔を上げて前髪の間から私を見た。私はすぐに目を逸らしてぱりぱりに乾いた唇でぼそっと言う。
「・・・桜、目がおかしいの。まだ意識がないようだし・・・それで・・・検査、だって・・・」
ヤツの隣にトン、と腰を下ろした。周りの人とは誰とも目があわない。皆自分の大切な人の状態を心配していて、処置が終わるのを待っている人たちだとわかった。
つまり、私達と一緒。
私達の子供が。
やっとしっかりとこちらを見て、嬉しいときにはきゃっきゃと声を上げて笑う娘が。あの明るい笑顔で家中に生命力をばら撒く娘が。
今は──────────あの金属の扉の向こう側で、一人でぐったりとしている。
私は座った自分の膝の上で力を失ってだらりとおかれた両手を見詰めた。
熱が、あった。
だけど明日の朝に病院にいこうかと思ってた。
今日はもう夜だし、今からでは大変だしって思って。大丈夫だろう、このくらいならって。高熱でなかった。ただ微熱のような状態で3日間だった。
それが、あんな急激に上がって・・・痙攣までおこるなんて。
だけど、だけど、それを救えたのはあの瞬間は私だけだったはずなのだ。
あの子が──────苦しんでいた、のに。
私は何をしていた?呆然として、抱きしめていただけだ。ヤツが帰ってきて怒鳴るまで、パニクっていただけ。何も・・・しなかった。電話すら。助けを求めることすら、しなかった。
「・・・」
何かを言いたいのに、言葉が出てこなかった。思い出すのはさっきの紫色をした娘の顔ばかり。
目を右上に固定して死人の顔色をした桜。
ああ・・・どうしよう。
どうしようどうしようどうしよう・・・。
ぽたり、と涙が落ちたようだった。視界が霞んでいて、膝の上に置かれた手に水分を感じる。
ぐるぐるとした眩暈はもうなかった。その代わりに、私は真っ暗な淵へと落ち込んでいく。足元から世界が崩れ落ちて消滅してしまったようだった。
・・・あの子を助けて、神様──────────
嗚咽が漏れそうだ、そう思った時に、温かい手のひらの温度を頭の上に感じた。
ぽんぽん、と2回ほど弾んで、それは私の上に落ちる。
隣に座る夫が、私の頭に大きな片手を載せていた。
「大丈夫」
「───────」
霞む視界のままで私は隣を振り返る。ヤツは私を見ていなかった。いつもの淡々とした、だけど何も見逃さないような時折するあの眼差しを天井近くの壁へ向けて、背中を壁に預けたままで低い声で呟いた。
「大丈夫、そんなに時間は経ってない」
その低い声は、真っ直ぐに私の中を通り抜ける。コンマ2秒で、それまで私の頭の中を渦巻いていた白くてもやもやした影が消えた。
・・・大丈夫?だい、じょうぶ・・・なのかな。時間は経ってない・・・あの子が痙攣を起こしてからは───確かに、ヤツがすぐに帰ってきたから。
それで、初めて怒鳴られて、電話を・・・して。救急車は、すぐに来てくれた。
だから、時間が・・・。
私は無言で夫を見上げる。背の高い彼はだらりと壁に寄りかかっていても、頭は私よりも高いところにある。伸びている前髪の向こうがわ、感情を滅多に表さないいつもの無表情で、ヤツは静かに続ける。
「泣くな。・・・泣いても、桜の助けにはならない」
私は頷いた。
そして、両手で乱暴に目を擦る。
その通りだと思った。今、あの金属のドアの向こうで頑張っているのは、他でもないあの子なのだ。親の私がメソメソしてちゃいけない。ダメだ、そんなのは。そうだ。
ぐっと唇をかみ締めた。私は自分を責めることで、逃げていた。そう気がついたのだ。
そんなの今は重要じゃないのだ。
視界がクリアになって、眩暈も消えた。頭の上にはヤツの温かい手。ゆっくりと、ポンポンと手を落としてる。
その感覚、温度にとても安心した。
そうだ、私、泣いてる場合じゃないんだぞ!
どうなっても受け入れる覚悟を。もし、もし桜に障害が残ることになっても、叫び声など上げないように。最悪なことを考える中でも、希望を見つけ出せるように。
あの子は死ぬわけじゃない。
決心して、壁の時計を見上げる。
あの子のそばから離れて、もう10分が経とうとしていた。
「漆原さん」
看護師さんに呼ばれてパッと立ち上がる。処置室のドアを開けた看護師さんは、私を見て微かに微笑んだ。そして手で入室を合図した。
ぶっ飛んで行きたかった。だけどぐっと拳を握ってこらえて、しっかりと床を踏みしめて歩く。ドアを抜けて、ベッドに寝転ぶ桜に近寄る。娘は小さな寝息をたてて、寝ているようだった。
よくみたらうちの父親ほどの年齢の医者が、穏やかな顔でいった。
「反応が戻りました。良かったです、痙攣が長くて呼吸困難で脳が、とも思いましたけど、今は落ち着いていて反応も正常です。呼吸もしっかりとしてますよ」
「───────あ」
ありがとうございます、そういうつもりだった。だけど咄嗟に出てこない感謝の言葉は、一緒に後ろからきていたらしい夫から発せられる。
「ありがとうございました」
その声に導かれるように、私も頭を下げる。
「ありがとうございました!」
医者は軽く頷いて、言葉を続けた。
「熱がまだ高いので、点滴して帰ってください。別室で。もう大丈夫と思いますが、また後日痙攣が起こるようでしたらすぐに診察を受けるように」
「はい!」
ではこちらへ、そう促されて、寝たままの桜をベッドごと別室へと運ぶ。そして点滴が終わるまでを待ってた。
大丈夫、だった・・・。その安堵はあまりにも大きくて、私はずるずると座り込みそうになる。・・・大丈夫だった。よかった・・・呼吸も、戻ったって。障害が残るとは考え難いですって。ううう〜!!神様、ありがとうございましたあああ〜!!そんでそんでそれから勿論、救急車の人達や病院の人達も皆皆、ありがとうございました〜!ああ、全員をひとまとめに集めて抱きしめてスリスリしてしまいたいっ!
体から力は抜けていたけれど、頭の中ではぴょんぴょんと跳ね回っていた私だ。
泣き叫びたいような笑いまくりたいような混乱した状態だった。
夫の大地は、点滴を待っている間、壁にもたれてパイプ椅子の上で寝ているようだった。頭が少し落ちていて、ヤツの胸が静かにゆっくりと上下している。
安心したのだろう。この人はこの人なりに、とても心配したのだろう。冷静に見えたけれど、それはあくまでも私よりは冷静ってだけだったのかもしれない。
それにしても本当にいつでもどこでも寝る男よね、壁にもたれて眠る夫を見て、私は何度か瞬きをした。
パニックと興奮の影響で全身が疲れていて、私もぐったりと壁にもたれかかる。
その時、ちょっと、ううっときた。
泣きそうになったのだ。
・・・・ヤツに、守られた、それが判ったからだった。
精神的に追い詰められて発狂しそうだった私を、ヤツは一言で現実へと連れ帰った。
初めて怒鳴られたあの瞬間も、待合室でのあの瞬間も。
私は彼に、救われた。
娘の桜に起こったのは、やはり乳児特有の熱性痙攣てやつだったらしい。
熱が急激に上がって痙攣を起こす症状だ。
翌朝には両家に報告したので、すぐさま飛んできた両母親に桜はぎゅうぎゅうと抱きしめられ、うちの父からは救急の特大セット、漆原家の父からは熱性痙攣に関する報告書と名のついたファックスが大量に送られてきた。
それを読んで、子供によっては呼吸が止まってしまう子もいるらしいと読んで、冷や汗をダラダラとかいた私だ。まあ勿論軽いのもあって、大体は数分で痙攣もおさまるので救急車を呼ぶほどではないらしいのだけど。
重くもないが軽くもなかった熱性痙攣は、私の意識をハッキリと呼び覚ましたのだ。
しっかりしなきゃって。
もう、自分は母親なんだって。
『で、嫌じゃなかったのよね、漆原に頭を叩かれたときってさ』
奈緒の軽やかな声が電話の向こう側から聞こえてくる。いや、あれは叩かれたとは言えないでしょ、ぽんぽん、よ、ぽんぽん!あたたか〜い慰めよ!そう突っ込みかけて、受話器を肩と顎で挟んだ状態で、私は静止した。
・・・・嫌じゃ、なかったわ、確かに。
10月の最初だった。
夏の間ロンドンへ仕事で飛んでいた奈緒が戻ったからお茶しよ〜と電話をくれたので、私はこの夏におこったことを報告していたのだった。
一人でうだうだ悩んだこと。桜の熱性痙攣などを。
そして、病院でヤツに救われたことを話したところで、奈緒に言われたんだった。
でも、と私はしみじみと考えながら言葉を発する。
「あんな極限状態では、さすがにホルモンも凌駕するんじゃないの?ヤツが嫌、とか、そんなどうでもいいことは全部吹っ飛んでたんだろうしさあ〜」
それよりは娘が心配だったのだ。だから、そうか、あの時確かに触られたけど、嫌じゃなかったなあ!などと考えたのは今が初めてだ。
電話の向こう側で奈緒がケラケラと笑っている。
『抜けたんじゃない、どうしようもない時期を。姫も無事だったし、万々歳ね。今晩あたり漆原にタッチしてみたら?嫌じゃないんじゃないの、もう』
タッチって。あんたが言うのはそ〜んなソフトなことなんかではなく、ガッツリ襲えってことだろうよ。そう思ったけど、とりあえずおしとやかに笑っておくだけにした。ほほほ、と。
ちょっと心惹かれる話ではあったのだ。
今晩はわりと早く帰ってくるあのダレ男に、自分から触れてみたらどうなるかな〜って。自分の口元がにんまりと笑ったのを感じた。
今それを考えている時点では、嫌悪感とか、「とんでもねーぜ!」の拒否感とかはない。考える、想像するだけなら今でももう大丈夫ってことだ。
・・・ヤツに、触ってみようか。それでそれで──────まだ、「うおっ!!」って思うようだったら・・・。
正直に、カミングアウトして謝ろう。
一人でそう決心して頷いた。
ケロッと謝ろう。「ごめんね」って。でもその内戻る(らしい)からって。それまではどうか、私から最低1メートルは離れて、出来るだけ顔を見せないで暮らしてくださいって。すんませーん、でも自力でもどうしようもないのよ、おほほ〜って。
よしよし。一人でシュミレーションして頷いていたら、受話器の向こうから奈緒の怒鳴り声が聞こえた。
『ちょっと都〜!!?聞いてんの?!どこ行ったあああああ!?』
・・・あ、奈緒のこと忘れてた。
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