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8畳ほどの控え室の中では、それなりに体の大きな男二人がにらみ合って立っていた。周囲はテーブルが一つと壁によせられた椅子が数脚、それから一面の壁際にはハンガーに吊るされた衣装の数々。
結構狭いこの場所で、殴りあうのはちょっといただけないんじゃない?そんなことを思いながら、何となく他人事の私は二人の男を観察していた。
夫である桑谷彰人は、経歴は多種多様な変わった会社の名前が見える男なのだ。それは警備会社や調査会社なので、現職の百貨店スポーツ用品店売り場責任者という肩書きからはち〜っとも想像出来ない過去だけど、今でも暇さえあれば運動して体調を整えている彼は、喧嘩慣れはしているのだろうと思う。
でも体術や武術を習ったことがあるわけではなさそうだし、蜘蛛男は何でも屋ってくらいだから、その道のプロかもしれない。
ヤバイのか、それとも全然大丈夫なのかも分からないわ。そう思っていた。
だけど蜘蛛男は二人の人間を眠らせている(と思う)し、ホテルの人を眠らせているのだ。私達二人は危険な状況にあると考えるべきよね。万が一の場合は警察に電話よ、そう思った私は、一応手の中に携帯電話を滑らせてはおいたのだ。
「・・・くそ、簡単な仕事だったのに。変なやつらに絡まれちまった!」
蜘蛛男がそういいながら体を斜めに構える。正眼、腰をおとして、ほどほどに体から力が抜けているようだ。・・・こいつ、やっぱり何か武術の経験があるっぽいわ。私はそう思って、携帯電話を開ける。
夫は不利かもしれない────────そう思った時、桑谷さんの右足がひょいと動いた。
いつの間にやらテーブルから床へと落ちていたらしい睡眠薬(?多分)入りのペットボトルを、そのまま右足で蜘蛛男の顔面目掛けてへと蹴り上げたのだ。ヤツはそれをパッと片手で交わす。その間に大きく一歩踏み込んで、桑谷さんが左右の拳を蜘蛛男の胸と腹目掛けて同時に繰り出した。胸部への左拳は空いていた片手で防がれたけれど、お腹への右拳はヒットしたらしい。
わお!私は目を丸くしていた。まるで中学生の喧嘩のような攻撃方法だけど、スピードと力がバカみたいにあるから結構な威力なはずだ。
ぐ、と詰まった声を上げて蜘蛛男は後ろへ下がる。それを追いかけるようにして間合いをつめた桑谷さんが、そのまま勢いよく頭を振り下ろした。
私は思わず目をそむける。ガン!と十分痛そうな音がして、夫の頭突きがクリーンヒットしたのが判った。多少、蜘蛛男に同情した。
「く、っそ・・・」
眉間を押さえたままで、蜘蛛男は開いたままのドアへと追い詰められ、寄りかかる。相当痛かったはずだ。やつが痛かったのであればやった方である夫も痛かっただろうけれど、桑谷さんのスーツ姿の背中には、相変わらずの闘志と、なにやら楽しそうな気配が漂っていた。
喧嘩、楽しんでるのかも。
蜘蛛男はチラリと私のそばで眠りこける歌手とそのマネージャーに目をやる。それからいきなり身を翻すと、一瞬で視界から消えた。
「え?早っ・・・」
思わず携帯電話を落として私は立ち上がる。冷静に考えたら、開いたままのドアから出て行ったのだ、と分かったけれど、あまりに動きが早くてその場で煙みたいに消えたのかと思ってしまった。
忍者があいつは!
「・・・逃げ足が速えーな」
桑谷さんの小さな声が聞こえた。やっぱりそう思ったよね、そりゃ。私は電話を拾い上げて、彼に近づく。
「大丈夫?かなり痛そうな音がしたけど?」
彼が振り返った。いつでも冷静な光を浮かべた一重の瞳、その上のおでこには赤くなった皮膚。やっぱり痛かったんだろうなあ!私がそれを凝視していると、彼が淡々と、でも嫌そうに言った。
「俺が負けると思っていて、電話を準備していたのか?」
嘘をついても仕方がない。私は肩をすくめてみせた。
「そう」
「・・・くそ」
シンプルな悪態をついてから、彼は自分の携帯電話を取り出す。それから短縮でどこかへと電話をかけだした。私はそれを前で黙って立ってみていたけれど、彼が電話した相手が誰だかは、すぐに判った。だって、相手が出るなり威嚇したからだ。受話器から流れ出たそのざらついた高めの声は、私にも聞き覚えがあった。
『──────ああ!?んだよ彰人、いい加減にしろ!お前と違って俺は暇じゃねーんだよ!』
桑谷さんはくっきりと眉間に皺を浮かべながら、こちらも酷く嫌そう〜な声で返答する。
「いきなり怒鳴るな、やかましい!ちょっと手伝って欲しいんだが。さっきの野郎が、ターゲットらしい人間二人を眠らせてとんずらした」
ははあ!私は呆れた顔を隠すために手で髪を直すふりをする。
電話の相手は彼の元職業的パートナーである、調査会社社長の滝本英男、その人だろう。普段は紳士的な物腰と完璧な敬語、モデルかと見まごうばかりの整った外見で他人に接する滝本さんは、幼馴染でもありパートナーでもあった桑谷さんに対してだけは、言葉使いががらりと変わる。ついでに言えば、態度も。
今だって、滝本さんに電話したのが私であったなら、きっと返答は『どんなご用ですか?』だったはずだ。それにきっとこんばんはの挨拶もあったはず。それが夫であるなら『ああ!?』になるわけで・・・。
それは2重人格なのかと思ってしまうほどの変化ではあったけれど、お互いに嫌がりながらも関係を続けているところをみると、二人がお互いのことを認め、必要としていることは確からしい。
何と言うか、実に面倒くさい間柄なのだ。
そして今、都心の中規模のホテルでのパーティーの夜、この部屋の中に眠らされた人間が二人。理由はちっとも判らないけれど、このままにはしておけない。そう考えた夫は滝本さんに協力を願うつもりらしい。
だけど、彼の言葉に対する滝本さんの返答は、これまたシンプルだった。
『くたばりやがれ』
うん、見事だ。滝本さんの姿勢というのは、基本的にまったくブレがない。心の中でそう感心している私の前で、夫は深い深いため息をついた。
「・・・英男」
『はっきりと犯罪なんだろ?さっさとポリに電話しろよ。その為に警察ってもんがあるんだろうが』
滝本さんの声は私にまで届いている。夫はちらりと私を見た。
「────まり。俺も実際、それが最善だと思うんだが」
私はその場で首をぶんぶん振ってみせる。
彼らの意見はしごくもっともな言い様だとは判っている。私だって、今晩はもう十分に暴れたんだしそろそろ帰ってビールでも飲んで寝てしまいたい。
ペットボトルやなにやらの証拠もあるし、これまでの経緯を知り合いになってしまった生田刑事に電話で知らせてあとを任せることも出来るのだ(勿論後日の事情聴取が必要だけど)。
と、いうか、そうすべきなのかもしれない。
だけど。
ムカついてるのだ、私は。それに、私達の立場を理解してしまっていた。残念なことに。
この歌手とマネージャーがどういう経緯であの蜘蛛野郎に狙われる羽目になったのかはしらないが、蜘蛛男と乱闘したり部屋に潜んでいたりした私達だって、警察からみたら十分怪しいやつらだろう。
暴力だって働いているわけで。
ということは、きっと取り調べは長引く。根掘りは掘り聞かれ、素直に話すと色々な場面で不快な突っ込みも頂戴するはず。彼らの睡眠薬がどのくらいの長さなのかは知らないけれど、今晩は帰れないかもしれないのだ。
それは、困る。
そんなわけで出来るだけ国家権力にはお出ましになって頂かない方法で、しかも出来るだけ速やかに自分達で片付けたい。そう思ったのだった。その点、調査会社なんてものを経営している知り合いがいるのは、非常に心強いではないか!
私の顔をしばらく眺め、桑谷さんは早々に何かを悟ったようだった。それから、仕方ない、と顔中に大きく書いてこう言った。
「・・・判った。仕事として、依頼する」
電話の向こうで、滝本さんが鼻をならした音が聞こえた。それから、一気に嫌そうな気配を消し去り、静かな営業用の声。
『場所を言え』
*******************
夫である桑谷彰人がまだほんの若者だったころ、子供の頃に出会って以来付き合いを続けてきた、本人達曰く腐れ縁である滝本英男氏と二人で調査会社を設立した。経営の主な業務は滝本さん、現場で手配、調査、場合によっては乱闘などをしていたのは桑谷さん、らしい。
そしてその頃、色んなツテや出会いから使えると思ったらしい人々を、桑谷さんは社員として会社に引き込んだ。
その人達の3人のうち2人が、今、私の目の前にいる。
「お久しぶりです、奥さん〜!!」
そういって叫ぶのは誉田さん。今は滝本さんが一人でやっている調査会社の若手社員だ。ラガーマンのような体型で声がとにかく大きい。折角静かに滑り込むようにこの部屋に入ってきたのに、これではパーティー会場の人にばれてしまうではないの?と思うほどの声だった。
「誉田、うるさい」
滝本さんと桑谷さんの声が重なって、同時に誉田さんの頭を飯田さんが片手で叩いた。うおっ!と叫ぶ誉田さん。その全てを見てしまった私はどうしようかと一瞬悩んで、にへら、と笑っておいた。
「事務所に運ぶのでいいんですか?」
早速眠り込んでいるマネージャーの肩の下に片手をいれながら、飯田さんが滝本さんに聞く。40代半ばだろうこの人は、調査会社一の寡黙な働き者だと夫に聞いたことがある。率先して現場にでるためにあまり姿を見たことがない。彼は部屋に入ってきたときに静かに目礼したのみで、今初めて声を聞いたくらいだった。
飯田さんて人、どこでスカウトしてきたの?
一番最初に彼の存在を知った時、私は夫にそう聞いたことがあった。ところが、その時の桑谷さんの返事はこれ。「路地裏で拾った」。私は、は?と思ったけれど詳しく聞いてはいけないような気がして、そこで会話を打ち切ったのを覚えている。
頷く滝本を確認して、飯田さんは誉田さんに指示を出し、二人でマネージャーの体を支えて持ち上げる。
「この男性はかなり酔っ払っている。それを支えてるんだ、誉田、いいか?」
「了解っす!!」
飯田さんと誉田さんがマネージャーを支えながら演技をしつつ部屋を出て行く。ホテルを出るまでに誰かに会ったら、溺酔した男を介抱しているふりをするのだな、と判った。桑谷さんはそれをじっと見たあとに、首をぐるんと回して体をほぐした。
「よし、彼女を運ぼう」
私も滝本さんも静かにそれを聞く。桑谷さんは歌手にかがみこもうとして、怪訝な顔で私たちを交互にみあげた。
「・・・手伝えよ」
私が表情も変えずに言葉を出したのと、滝本さんが声を出したのが全く同じタイミングだった。
「お前だけで十分だ」
「あなただけで大丈夫でしょ」
妻と元パートナーの素晴らしいハモリに彼は心底嫌そうな顔をする。それから深深とため息をはくと、力を失ってぐったりする歌手を力を込めて抱き上げながら私達を睨みつける。
「役に立たない人材だな!」
滝本さんはにやりと笑うと、スタスタとドアまで行って優雅な仕草で大きく開け放つ。
「そんな失礼な。ほら、こうしてドアを開けておいてやる。車を停めてあるから裏口から出てくれ。表はカメラが多すぎる」
「寝てる人間は重いんだぞ!」
「知ってる。だけどお前が勝手に始めたことだろう。手伝ってやるが、それは調査だけだ」
「心が小せえぞ、英男!」
「追加料金なら喜んで頂くが」
ぶつぶつ言いながら歌手を抱きかかえて部屋を出る桑谷さんを見送って、滝本さんが私を振り返った。その表情はすでにうっすらと浮かべた微笑で仮面を被っていて、眼鏡の奥の瞳は細めてあるから考えが読めそうになかった。さっきまでの夫に対して見せていた人格は、姿を消したようだった。
男性にしては高めの声を小さくして、滝本さんが言った。
「蜘蛛と何があって、こうなったんですか?」
私は歌手とマネージャーの物と思われる鞄やコートなどを持って、忘れ物がないかを確かめていた。ドアの側に立つモデルのような滝本さんをちらりと見て、仕方なく説明する。
「友達が主催者側の人間なので、来たパーティーなんです。帰ろうかと思って廊下を歩いていたら、怪しい男とすれ違った。だから声をかけたらいきなり暴行されまして」
ひゅっと、彼の片眉が上がった。
「暴行」
「えーっと、いえ、手刀で首の後ろをコーンと。それでちょっと倒れてしまって」
滝本さんが、頷いた。ああ、その暴行、と口の中で呟いたのを聞き逃さなかった。ふん、と私は目を半眼にする。一体今、あんた何を期待したのよ。
じとーっと睨んでいたら、相変わらず微笑を浮かべた顔で、滝本さんが言った。
「つまり・・・あなたは蜘蛛に暴力を働かれたのに立腹したわけですね。だけど仕事中の蜘蛛がいきなりそんなことをするとは思えないから、きっと何か追い詰めるような詰問を、あなたがしたんじゃないですか?」
詰問・・・。って、あれか?
私は首を傾げながら滝本さんを見る。
「名札がない、てことは言いましたね」
「それだけですか?」
「靴もおかしいと。それから、トイレに案内しろ、と強要しました」
くっくっく、と、堪え切れないように小さく笑って滝本さんが外へと促す。それから部屋の電気を消して、一人頷くとドアを静かに閉めた。
「───────で、したんですか?」
「はい?何をですか?」
歩きながら振り返った私を見て、滝本さんが笑った。
「蜘蛛に仕返しです。私の知っているあなたなら、当然したものとは思いますが」
エレベーターではなく階段に誘導されたので、ヒール音を鳴らしながら降りる。何てことないように、私は前を見たままで言った。
「ええ、勿論」
7センチヒールで殴ってやりました。
うしろからまた、くくくくと抑えた笑い声が聞こえた。
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