・仕返し、のち、騒動@
ホテルの3階の廊下の端、蜘蛛はどうやら非常階段へ逃げたらしいと判っていても、桑谷さんは追いかけようとはしなかった。
彼は私が首を傾げてじいっと見ているのに気がついて、何だ?と聞く。
「あなたが動かないのが不思議で。ヤツが戻るかどうかが判ってないのに慌てないのはどうして?」
彼が口の端を持ち上げて、にやりと笑った。
「それは」
それから、手のひらから何やら白い紙を出す。
「これがあるからだ」
何何?一体それはどこから?私が好奇心も露に覗きこむと、彼の大きな手のひらの中にあるのは誰かの名刺のようだった。
『ドリームドア企画 北川ミレイ付マネージャー 新井優斗』
「・・・・どこから出したの、これ?」
私がそう言うと、彼は簡単に述べる。ほら、あのスパイダーマンだって。
そうか、私はようやく判って一人で納得した。彼が蜘蛛男をひきずってこちら側にきて、ヤツが暴れたのでお腹を踏みつけたとき、確かに彼は蜘蛛野郎の上に屈み込んでいた。きっとあの時、ヤツのポケットからこれを掠め取ったのだ。
・・・手癖が悪い。褒めるかどうかでしばらく悩む。だけどそこを指摘するのはやめておいた。
彼の手の中でくしゃくしゃになっていた名刺を受け取って見詰める。マネージャー?蜘蛛男が誰から貰ったのか、それともどこからか盗ったのか、それは判らないけど、これって・・・。
「あ」
私が声を出すと、桑谷さんが廊下の向こう側を覗き込みながら頷いた。
「さっきパーティーで歌っていたシャンソン歌手のマネージャーだろう。そんな名前だったよ、北川ミレイ」
そうだ、私も歌手が壇上に上がってライトを浴び、自己紹介をした時は会場で聞いていた。低い声が魅力的なシャンソン歌手────────
「スパイダーマンが歌手なりそのマネージャーなりが目当てなら、ここへ戻ってくるだろう。あの二人は壇上から降りて、さっきは隅で出版社から飲み物をサーブされていたからな。・・・会場に戻るか?」
桑谷さんが何かを考えるように唇を人差し指でなぞる。目は細められて、不機嫌そうなオーラが漂っていた。
私はちょっと考えて、そうねと頷く。対象が彼らなら、その側についていればまた蜘蛛男に会えるだろうって思ったのだ。
隣からまたため息が聞こえるのを無視して歩き出す。まだ首の後ろが痛かった。畜生、あのバカ野郎。次にあったら覚えてろよ。
会場に戻ると、ぐるりと首を回して歌手とそのマネージャーを探す。桑谷さんが観察していたように、確かに彼らは舞台の隅に作られたテーブルで、楽しそうに談笑しているようだった。仕事が終わって安心しているのか、歌手は明るく華やかな笑顔だった。相手をしているのはこの出版社の編集長だ。一度挨拶をしたことがあるから覚えている。
私が少し近づこうとそちらに体を向けたとき、後ろから、まり、と呼ぶ声がした。
振り返ると弘美。元々お酒が顔に出ない体質であるから、彼女がどれくらいアルコールを口にしているかは判らない。驚いた顔でこっちにくるのを私は笑顔を作って迎えた。
「まだ居たのね!さすがに帰ったと思ったけど・・・。あら?ダンナ様は?」
「え?」
さっきまで隣にいた桑谷さんが、姿を消していた。弘美が近づくのを見て消えたのか、何か他の用事があったのかは知らないが、彼はあまり心配する必要がない。というわけで、あっさりと肩を竦めてみせた。
「知らないわ。タバコじゃない?」
弘美はニヤニヤして企んだように言った。
「どっかの美女にお持ち帰りされてないでしょうね?有り得るわよ〜、あんたの旦那様、かなり男っぽいし、細マッチョが好きな女ならフラフラ〜っとくるかも」
苦笑して、彼女にデコピンをお見舞いする。そんなことになったら私からの仕返しが怖いだろうから、彼は一目散に逃げるはずだ(多分、おそらく、予想するに)。
「バカなこと言ってないで。大体このパーティーのどこに、若くて美人がいるのよ?年齢高いわよ、ここ」
私の返事に弘美はケラケラと笑う。やっぱりそれなりには酔っているらしい。
「確かにね!私たちと、あの歌手くらいよね〜。あははは」
そう、それよ。私は真面目な顔になって弘美の腕をポンポンと叩く。それから彼女を壁際に引っ張っていって、声を潜めた。
「ねえ、あの歌手は誰かの知り合いで出演したの?それともホテル付の歌手なわけ?」
ん?と弘美は怪訝そうな顔をする。だけど、すぐに考えるのが面倒臭くなったらしく、どうでも良さそうに話した。
「ええと・・・ウチから出演依頼をしたはずよ。編集長がシャンソンが好きとか、何かそんなので」
「あんた酔っ払いね」
「うるさいわね、まりのくせに」
どういうことよ、その言い分は。私は飲んだくれじゃないっつーの。憮然としたけれど、とにかくと歌手を振り返る。彼らをあの蜘蛛が狙っているなら─────────
その時、ちょうど歌手とマネージャーらしき男が会釈をしながら立ち上がったところだった。
「・・・帰るのかしら」
私の呟きは弘美に聞こえたらしい。そして立派な酔っ払いであるらしい彼女は、大して考えずもせずに手をヒラヒラと振って言った。
「控え室に戻るんでしょ〜。ほら、あるじゃない、そういうの。同じ階に用意してあるはずよ」
・・・おお!
私はなるほど!と頷いて、弘美の腕を軽く叩く。
「楽しんで、弘美。社交的にならなきゃだめよ」
「任せてよ。私を誰だと思ってんのよ?あんたは帰るの、まり?」
「・・・まあ、そのうちに」
は?と顔を変に歪めた弘美に手を振って見せて、私はまた会場を抜け出す。控え室か!そうよね、あるはずよ。荷物だって置いているだろうし、着替えもするだろうし。ってことはそこに忍び込んでいれば─────────何か判るかも。
つか、夫はどこにいったのよ!?私はイライラと目だけで探したけれど、無駄にでかい彼の姿は判らなかった。とにかくと急いで廊下を歩く。恐らく、このあたり。エレベーターホールを抜けて、トイレを通過し、それから・・・・・・あった。
プレートに「北川ミレイ様」と書かれた部屋を発見した。
ドアのノブに手を当ててみる。すると何の抵抗もなく開いたので、無旋状であると判った。おそらくただの控え室だからだろう。荷物などはここには放置しない決まりに違いない。
少しあけると中は暗闇。私はするりと入り込んだ。
**************
「・・・で、あなたはどこに行ってたの?」
控え室に潜んでいるとやってきた桑谷さんに、暗闇の中でそう聞く。
ん?と彼は唸るような声で返して、それから小声でたら〜っと言った。
「ちょっとな。ところで、俺達はここにデカイ態度で座っていていいのか?歌手達にしてみれば思いっきり不審者だと思うんだが」
「だって蜘蛛男が先にきたら、ここに座ってる方が攻撃できるかなって」
「・・・いや、足音は2組だ。こいよ、隠れようぜ」
外の音に気をつけていたらしい彼がパッと立ち上がって、舞台衣装などがずらりとかけてあるハンガーの海の中に身を隠す。私も慌てて立ち上がって、暗闇の中を突き進んだ。せっかくソファーで待っていたのに!
間一髪でがちゃりと音がして部屋のあかりがつけられる。私はスーツが並ぶ中に頭から突っ込んでしゃがみ込んだ。
「案外受けがよくてよかったわ、今晩は」
ハスキーな女性の声が聞こえる。その返事に男性の声も。少し落ち着きのないような軽い印象を受ける声が、さっき蜘蛛男が持っていたあの名刺の主、マネージャーの新井なのだろう。
「しかし見事に酔っ払いばかりだったな」
「いいのよ、歌の邪魔さえしてくれなかったら」
「まあ、な」
濃紺スーツジャケットや真ピンクのドレスの間から私はこっそりと部屋の中央を覗き見る。どうして私はこんなことを?と一瞬マトモな頭が考えたけれど、彼らがニコニコ笑いながらペットボトルのお茶をコップについで飲むところを見ていたために、そんな現実感はすっ飛んでしまったのだ。
「・・・あ・・?」
「ちょ・・・ぐるぐるするん、だ、けど・・・」
さっきまで笑いながらお互いに労い合っていた二人が、フラフラと椅子の上にもたれかかっていく。ドサリと音がして、マネージャーの新井さんは完全に床の上に崩れ落ちた。
歌手の北川さんは細くほとんど閉じかけている瞳を何とかこじ開けて、震える手をお茶が入ったペットボトルに伸ばして─────────そのままで力を失った。
「おい!」
どこからか桑谷さんが飛び出してきて、マネージャーを乱暴に上向けてよびかける。私も急いで出て行き、走ろうとしてヒールがカーペットにひっかかった。
わお!危ない!
危うく転びそうになるのをヒールを脱ぎ捨てることで回避して、何とか無理やりバランスを保った。
“一体何事!?”が何度目なのよ!?もう!バタバタと駆け寄ると、歌手はどうやら眠り込んでいるらしかった。小さいけれど呼吸が聞こえるし、体もゆっくり上下している。
「お茶だ」
桑谷さんの低い声が聞こえる。そうだ、彼らはこれを飲んだ瞬間からこうなってしまったのだった。私は机の上のペットボトルに手を伸ばす。
その時、ドアが開いた。
夫婦で同時に入口を振り返ると、さっき逃げていった蜘蛛男が口を開けたマヌケな顔で突っ立っていた。
ヤツは両目をすばやく動かして部屋の中を見回すと、踵を返そうとする。
だけど、その時にはすでに私は走り出していた。殆ど考えもせずに、体が勝手に動き出した感じだった。走りながらようやく頭に言葉が浮かぶ。戻ってきたわね、蜘蛛野郎!今度こそ私が──────・・・
歌手に駆け寄るときに引っかかって脱いでしまっていた7センチヒールのパンプスを掴んでいた。走ると同時に躊躇することなくそれを振り上げて、私は無意識のままで、腕を真横になぎ払う。
「がっ!!」
カーン、といい音がして、蜘蛛男が吹っ飛んで倒れた。
廊下に全身出した状態で倒れた蜘蛛男を、スタスタと歩いて近づいていた桑谷さんが、また両足をひっつかんで部屋へ引きずり込んだ。
「ま、まて〜!!ちょっ・・・何なんだよお前たちは!?は、はなっせ〜!」
ジタバタと蜘蛛男が暴れる。私はヒールで殴ったことでようやく気が済んだので、ヒールを放り出して眠りこけている歌手とマネージャーの方へと引き返し、彼らを楽な姿勢で寝かせる努力をした。
「放せ!!」
「うるせーぞ、スパイダーマン。お前が先に彼女をどついたんだろう?なら諦めろ、この人は実に執念深い女性なんだ」
ハロー?私は顔を顰めた。
「・・・聞こえてるわよ。お褒めの言葉をありがとう」
「褒めてねえだろ」
二人で一瞬視線を絡めて威嚇しあう。そこに、蜘蛛男の声が降って来た。
「何なんだよあんたらは!?いい加減仕事の邪魔すんのやめてくれ!」
ヤツが身を捻って私を見ていた桑谷さんの両手から足を逃がした。それと同時に床を両手で叩いて力を込め、柔らかく腰を回してパッと立ち上がる。それは見事な体術で、つかの間、私は感心したほどだった。
ヤツはすぐさま腰を落として、攻撃態勢に構える。目はギラギラと光っていて、かなり頭にきているようだった。私と桑谷さんとの距離を目ではかり、丁度いい位置に移動する。
・・・あらま。何か、やばい雰囲気。何でも屋ってくらいだから喧嘩も強いのよね、きっと。武術の達人とかだったらどうする?かなり危険な状況なのかも。私は彼をみながらそんなことを思っていた。
私はいつでも、危険な状態には一人で対峙してきた。
一人でいる時に襲われるからだった。
だけど、今日は───────・・・
「・・・これ以上邪魔するなら・・・」
蜘蛛男の声に、向き直った桑谷さんが鼻で笑ったのが聞こえた。彼の全身が緊張感をまとい、闘志がメラメラと立ち上るのが見えるようだった。元々背の高い彼の体が、更に大きく見える。
「どうするんだ?」
ざらりとした低い彼の声は、笑いを含んでいた。腕をだらりと下ろしたままで、夫は全神経を構えている蜘蛛男に向けている。
・・・今日は、彼がいるから。私は立ち上がってにっこりと微笑んだ。
私、そんなにピンチじゃないわ。
眠らされている二人の前に立って、私は野郎二人の決闘を観戦することにした。
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