・蜘蛛男



 目の前は真っ暗だった。

 だけど船に乗っているように、ぐらぐらと体が揺れているのが判った。

 ・・・ちょっと、気持ち悪い。うえ〜・・・。揺れないでよ、やめてやめて。私は目をゆっくりと開けながら、迫り来る吐き気に対処しようとして──────────気がついた。

 船にのっているのではなくて、体をゆすられていたらしい。

「まり」

 薄暗い部屋の中、私を覗き込んでいるのは夫の彰人だった。

 私はゆっくりと瞬きをして彼の顔へ焦点をあわせる。少しだけ眉間に皺をよせて、彼は心配そうにじっと見下ろしている。

「・・・ハロー」

 大きなため息。体の下に彼の大きな手が入り込んで、私の体はゆっくりと起こされる。

「何がハローだ。ビックリしたぜ、倒れてるから。何があった?」

 私は周囲を見回した。壁際にずらりと並ぶコートや帽子、紙袋。ここはクロークの中らしい。

「・・・バカ野郎に首の後ろを叩かれたのよ」

 ぶっすーとした声でそう言うと、彼は無言で私の首を廊下からの明りに照らして確認する。そして、一瞬で非常に怒気を含ませたザラザラした声になって言った。

「話せ」

 何よこの命令形。ムカついたけど、今は夫婦喧嘩をしている時ではない。私は不快感を眉毛をあげることで表明することにして、痛む頭をさすりながら座り込んだ。

「帰る前にトイレに行こうと思ったの。通りかかりに受け付けの後ろのクロークから変な男が出てくるのに出くわした。名札なし、サイズのあってない制服、それから靴。だから呼び止めたの。そしたら手刀でいきなりガツンとやられた」

「変な男?」

 桑谷さんはぶっきらぼうに聞き返す。その次に来る言葉は判ってる。私は一人で頷いた。どうしてそんなことに首を突っ込むんだ、に決まってる─────────

「どうして首を突っ込むんだ!?放置しとけよ」

 ほらね。

 私はまだ頭をさすりながら、じろりと彼を睨みつけた。

「私はここで倒れていたの?どうしてあなたが見つけてくれたの?」

 彼はムスッとしたままの声で淡々と説明した。

「もう帰ろうと言いに戻った。そしたら会場を出て行く君の背中をバルコニーから見つけたから追いかけたんだ。で、廊下に出るとすでに君の姿がない。どこに消えた?と思って歩いていたら、受付のテーブルのうしろから足が出ているのに気がついた。まさかと思って覗き込んだら・・・」

「私だった。あ、そう。それはどうも」

 最後を引き取ってそう言ったあと、私はざっと周囲を見渡す。それから痛みに気をつけてゆっくりと立ち上がり、壁に手をはわせてクロークの電気を指で押した。

 パッとついた明り。その眩しさに目を細めて、奥を見る。彼が隣であ、と声を出した。

 雑然と色んなものがあるクロークの一番奥で、担当者と見られるホテルの従業員が膝を抱いてぐったりと壁にもたれている。

「・・・発見」

 私が呟く。

 あの怪しい男が受付に成り代わっていたのなら、本来のホテルマンさんはどこにいるのだろうって思っていたのだ。クロークの受付が無人なわけがない。私の足に気がついて桑谷さんはそのまま入ってきた。だから電気をつけたら何か判るかと思ったけど・・・。

 彼がスタスタと歩いて近づき、のぞき込み体に手をあててボーイさんを確かめる。

「眠っている。薬を使われたようだな」

 私はほっと息を吐き出した。ああ、良かった。万が一でも死亡なんてなっていたら、どうしようかと思ってしまった。緊張して固まってしまっていた体を手でさすって温める。

「寝てるのね?じゃああの男、そんなに乱暴じゃないってことよね」

「君は襲われているし、眠らされるのも丁寧ではないだろう。何か目的があってきたんだな、そいつは。ここで何かを探していたのか・・・ただ単に、変装したかったのか」

 彼がそう言って、ボーイさんを楽な格好に寝かせてから戻ってくる。その目は、で、どうするんだ?と私に聞いていた。

 だからにっこり笑って答えてあげることにした。

「捕まえましょ。バカ野郎なのは間違いないんだから」

「・・・警察に電話して帰ろうぜ」

 すごく諦めきったような声で、夫が言う。私はまだ痛む頭を片手で抑えながら彼を振り返った。

「本気で言ってるの?私がいきなり殴られたのに?このままで帰るわけ?」

「トラブルはごめんだ」

「既にトラブルに巻き込まれてるのよ!十分痛い思いをしてるわ」

「・・・まり、それで済んだことを有難く思うんだ」

 私は両手を組んで顎を上げる。身長の高い彼を見下ろすには無理があったが、こちらが戦闘態勢なのは十分に伝わるはずだ。

「じゃああなたは帰ったらいいわ」

「まり」

「雅坊はお泊りだけど、今からなら間に合うから家に連れて帰ってね」

「・・・」

「別行動しましょう。私はここで頑張る、あなたは家で子守をする」

「・・・くそ」

 彼は片手でごしごしと顔を擦る。それから目を細く細くして、私を見下ろした。

「────────どこのどいつだ。探しに行くぞ」

 よし、勝った。


 ほんの少し時間を空けただけだったらしく、パーティー会場はそれほど変わっていなかった。壇上の歌手が退いて、誰だか知らない人がスピーチしているだけの変化。ちょっと聞いただけでもそのスピーチは退屈極まりなくて、さっき歌っていたシャンソン歌手の方がよっぽどいいわねと思った。

 低いハスキーな声と、大きくて幸せそうな口元。彼女の歌声はまだ若干耳の中に残っている。

 相変わらずたくさんいる酔っぱらった人々を壁際からじっと見る。

 この会場にヤツがいるという確証はないのだ。だけど今晩のこのホテルの3階宴会場はこのパーティー以外ないと判っているし、ここに来ている客のクロークで何かを探していたらしいからここにいても不思議はない。

 ヤツが何が目的でも私には関係ない、それは彼の言うとおりなのだ。

 だけど。

 だーけーど。

 私は無駄に殴られたなんて嫌なのよ。心の中でそう呟いてぎらぎらと会場中を見渡す。ちょっとしか見ていないけれど、多分もう一度見れば判るはずだ。

 あのわざとらしい笑顔、それから微妙にあってない制服や服に似合わない運動靴。

「あいつか」

 隣で桑谷さんの低い声が聞こえた。私はパッと彼を振り返る。彼がじっと視線を固定しながらすたすたと壁際を歩いていく。

 え?もう見つけたの?私はとりあえず彼について動く。早い早い!彼は顔も知らないのに、一体どうやって──────

 桑谷さんは歩いている相手に合わせているらしい。相手の行方を見ながらそのままのスピードで歩いていき、途中で通りすがりのドアを開けて廊下に出る。それから、すぐ目の前にある角を曲がって人目から隠れた。

 私も同じように後ろに付きながら、彼の服を引っ張る。

「ねえねえ」

「待て」

 片手で私を制しておいて、彼は角の向こうをちらりとのぞき込んだ。その時足音がして、人が近づくのに気がつく。私が思わず息を殺していると、壁にぴたりとひっついていた桑谷さんがいきなり片腕を角から突き出して素早くぶんとふるった。

「ぐ・・・!」

 小さな悲鳴と衝撃音が聞こえてドサっと重い物が倒れる音。私は思わず顔をしかめる。桑谷さんはパッと角を曲がって、彼に倒されたらしい人の両足を引っ張ってこちら側に回り込んできた。

 ずるずると引っ張られてくる顔を押さえている男。きっと桑谷さんの拳骨が顔面にヒットしたのだろう。彼はフリーの腕をばたばたさせながら何が何だか判らないように小さな声で罵った。

「くそ!何なんだよ!!」

 床の上の男はそう言って、両足に力を入れて暴れようとした。だけどその瞬間に男の足から手を離した桑谷さんが、表情も変えずに彼のお腹を足で踏みつけた。

「ぐえっ!」

 あらまあ。私はちょっとばかり男に同情した。その容赦ない扱いに、だ。

 久しぶりにみたけれど、これがまあ、桑谷彰人という男なのだ。普段は軽いキャラクターの下に隠している、これが彼の素顔に違いない。凶暴で、あっけらかんとして、容赦がない。

 お腹に足を入れられて咳き込む男のそばにしゃがみ込んで、私はじっくりと眺める。うん、間違いない。

「まり、こいつか?」

 彼の淡々とした声が聞こえたから頷く。男は床にうずくまったままでまだ苦しそうに咳をしている。桑谷さんはどこから出したか携帯電話で男の顔写真を撮った。

「何で判ったの、この人って?あなた顔知らないでしょう?」

 私は疑問に思ったことを聞く。すると彼は携帯電話を操作しながら何でもなさそうに言った。

「君が靴がおかしいって言ってただろう。人を探すときには女も男も足もとに注目するんだ。パーティーに似つかわしくない靴を履いてるのはこいつだけだった」

 ・・・へえ。

 ぱたんと携帯を仕舞いながら、彼が私を見て言う。

「野口薫さん、覚えてるか?彼女に教えてもらった。俺はそれまでは下半身を見てたけど、足首を見るんだと教えて貰ってからはそっちの方が便利で確実だと判った」

 ああ、彼女。私はやたらと納得した。彼と昔に共同で調査会社を経営していた滝本さんという男性の目下の恋人らしい野口薫と言う女性は、なんと驚いたことに職業が掏摸なのだ。掏摸よ、掏摸。現代にいるのねえ!って感じだ。

 私は泥棒はもちろん好きではないが、彼女は何故か憎めない。やたらと愛想のいい、可愛い女性だった。

 ようやく息が出来るようになったらしい床の男が、そろそろと体を起こした。特に特徴のない、平坦な顔をした男だ。黒髪、短髪、二重の小さな目。平べったい鼻と口。

 私と桑谷さんを、黙ったままでじっと見上げる。不機嫌なようだけど、特に怖がっているようには見えなかった。それって凄いのだ。だって、うちの夫は普通に黙って立っているだけで人を威嚇できる人。その彼から暴行を働かれていて、しかも今迫力満点で見下ろされているのに怯えないとは!

「ハロー。先ほどはどうも」

 私はにっこりとほほえんで顔の横で手を振った。

 床の男は気がついたらしい。あ、と一瞬口をあけて、それから恨めしそうに桑谷さんを見た。

「何の用だ」

 疑問系でない聞き方だった。桑谷さんは対応は私に任せるらしく、人払い宜しく角に立って廊下の向こうと二人を見ている。

「何の用、じゃないでしょ。人をいきなり昏倒させといてどういう態度なのよ、あなた?ここで何してるの?」

「・・・あんたらには関係ないだろう」

「そうよ、関係ないのにいきなり暴力をふるわれたのよ。だから残念ながら関係ある人になっちゃったわけ。ここで何してるの?」

 人を気にしてどちらも小声で問答を繰り返す。

 男はぶっすーとしたままで押し黙った。

 おいこら、おっさん。私は大して年齢も変わらないだろう男の肩を指先でつんつんと押してみる。

 その時桑谷さんが着信があったらしい携帯を開いて言った。

「────蜘蛛。何だ、お前、何でも屋か」

 びくっと男の肩が震える。蜘蛛と呼ばれた男は驚いた表情で桑谷さんを振り返った。

 彼は携帯の画面を見ながらすらすらと言った。

「『自己顕示欲の強い男であまり使えないから俺は使わない』。・・・何でも屋で自己顕示欲が強いのは感心しねーな。それじゃ目立つだろ、スパイダーマン」

「知り合い?」

 私はしゃがみ込んだままで夫に聞く。彼はまだ驚いている男を見下ろして、携帯を仕舞いながら言った。

「英男に聞いたんだ。こいつ知ってるか?って。その返答だ」

 クモ・・・スパイダーマンってくらいだから、蜘蛛なんだろう。何でも屋。私はちょっと苦笑した。桑谷さんと付き合うようになってすぐくらいの頃、ストーカーが絡む事件に巻き込まれたことがあったのだ。その時に知り合いになった、「何でも屋」という職業の男がいる。

 彼の名前は太郎、だった。苗字はなし。支払う金次第で、取り立てや調査、泥棒や空き巣など、様々な裏の仕事をする人間らしい。桑谷さんが英男と呼んだのは、彼の元相棒である調査会社社長の滝本氏だ。

 どうやらさっき男の写真を撮っていたのを、滝本さんに送ったらしい。

 それにしても・・・。何でも屋って、名前がどうしてそんなのなの?太郎とか蜘蛛とか・・・ならいっそのこと男AとかBでもいいんじゃないの?

「・・・お前ら何者だ?」

 蜘蛛という悪趣味な名前の男が警戒心を丸出しで言う。桑谷さんが肩をすくめた。

「通りすがりの善良な市民だ。ただ、知り合いに変人が大量にいる」

 変人・・・。それ、滝本さんが聞いたら怒るわよ、自分だってそうだったクセに。そう思いながら私は立ち上がった。

「ここで何かの仕事をしてるのね、あなた。だけど関係ない人を巻きこむのはどうかと思うわよ。そのおかげで正体までばれたわけだし」

 蜘蛛は、暫く押し黙っていたけれど、その内パン!と両手を合わせた。拝む形になって、私たちに頭を下げる。

「追求してくるから排除したんだ。悪かった。だからもう放っておいてくれ。仕返しなら受けただろ?」

 桑谷さんは冷静なままの瞳で私を見た。私は少しだけ首を振る。

「私の友達が、ここの雑誌に記事を書いて生計を立てているのよ。それを台無しにするような仕事なら、私は邪魔するわよ」

 蜘蛛の向こうで桑谷さんが大きなため息をついた。私は勿論それを無視する。

 この「何でも屋」が何をしようが私には確かに関係ないが、それで弘美が仕事を失うようなことだけはあっては困るのだ。乗りかかった船なら、友達に降りかかる火の粉も払いのけたい。

 蜘蛛は一瞬考えるような顔をした。

 だけどすぐに立ち上がって、私を見下ろす。

「悪いが、仕事内容を言うわけにはいかない。あんたを巻き込んだことは謝ったよな、それにこっちも暴力をうけた。それで終わりだ」

 にやりと口元だけで笑って、やつは素早く走り出す。あっという間に私の横を駆け抜けていって、非常階段に消えた。

「・・・あら、早い」

 腕を組んだままで私がそれを見ていると、桑谷さんがうんざりした声で言った。

「で、やっぱり帰らないのか?」

 私はくるりと振り返る。

「そう、帰らないわ。だってあの男が何するのかわからないもの。でも別にいいのよ、あなたは家に帰って、どうぞゆっくりして─────────」

「まり、君は素人だろう。それに関係ないことだ。首を突っ込むのはやめてくれ、頼むから」

 ふん、と私は鼻で笑う。自慢じゃないけれど、私は彼と付き合いだしてから実に色んなメにあってきたのだ。多少は度胸がついてしまっている。

 私はゆっくりと夫へ近づく。彼はむすっとしていて、その眉間には皺がより、体は緊張して戦闘態勢に入っているようだった。

 手を彼の肩へと回す。静かに背伸びをして、目を開けたままでキスをした。軽い軽いフレンチキスを。彼の唇に、私のグロスがうつる。

「・・・何だ?」

 怒りの消えた彼の冷静な一重の目に、私がうつっている。その私はいつもより華やかな化粧をしていて、ニッコリと笑った。私は静かな声で言う。

「心配なら一緒にいていいわ。だけど、邪魔するなら消えて頂戴」

 うー、と低く低く彼が唸る。

 私は丁寧に彼の唇からグロスを拭い取って、一歩離れた。

 くそ、小さく呟く声が聞こえた。暫く見ていると、桑谷さんが口元だけで笑う。きゅっと左端を持ち上げて、苦笑していた。

「何だってこんなじゃじゃ馬に惚れちまったんだ、俺は?」

「楽しいでしょ?」

「楽しくねーよ。・・・けど、仕方ねーな、畜生。・・・やりたいようにやってくれ」

 うふふふ、私は笑う。

 さて、蜘蛛はどこに行ったのかしら?





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