・始まり



 私はゆっくりとドアをしめた。

 それから注意深く姿勢を低くして部屋の中をすすむ。ここにいたら、もしかして彼を捕まえられるかもしれない。捕まえることが出来たなら、是非ともさっきの仕返しをしなくっちゃ。おおまかな意味での仕返しは済んでいるが、それは私がしたのではない。自分の手でやりたいのだ。

 悔しさが蘇ってきて、ぎりりと唇を噛んだ。

 くっそ、あの男・・・よくも私をどついてくれたわね!

 全く、世の中には腹がたつ男が多いものなのだ!夫である桑谷彰人しかり、男友達である楠本孝明しかり。彼らはいつだって私を混乱させて面倒くさいことにまきこみやがるんだから!

 そのセリフは俺のだろう!と本人達からは苦情が殺到しそうだけど、そんなのは無視してやるわ。だって現に、私は彼らに似た面倒くさい男のせいで今、こんなところに隠れているのだから!

 電気を消してあるホテルの控え室で私は一人のバカ野郎を待っていた。

 私は桑谷まりという。32歳で既婚、2歳になってちょっと経つ息子が一匹・・・いやいや、一人いる。

 珍しく着飾った格好で、派手目な化粧も丁寧にし、肩までの髪も巻いて飾りをつけていたのだ。ちょっと前までは。今では化粧は崩れ、不機嫌で首の後ろにアザをつくり、唇をひんまげて暗闇を睨みつけているけれど。

 最初はソファーの後ろに身を隠していたのだけれども、バカバカしく感じてやめたところ。何だって私がかくれなきゃならないのよ?この部屋は暗いのだから、普通に座っていてもパッと見分からないはずでしょ。
 
 そう思って部屋の真ん中に置いてあるソファーに、堂々と座る。

 今夜の為に新しく買って着ているドレスはすでに皺皺になっていて、ちょっと情けない。だけど、背筋をのばして座っていた。私は凛としていたいのだ。バカ野郎と対峙する時にはいつだって。

 その時足音が廊下をこちらにすすむのに気がついて私は息を殺す。

 足音は部屋の前で止まった。そして、カチャリとドアノブがまわる。

 暗闇の中で息を潜めて私はじっとしていた。

 ドアが開き、廊下の明りが細長く部屋の中へと入ってくる。逆光で侵入者の顔はみえないが、高いところにある頭がゆっくりと動いて部屋の中を見回しているようだ。そして───────────

 その人物が、肩をドアの枠にもたれかけて大きなため息をついた。

「・・・こんなことだろうと思ったけど」

 あら。私は目を見開いた。

「どうしてここにいいるって判ったの?」

 現れたのは夫の桑谷彰人だった。どうしてばれたんだろう。全く油断ならない男だわ。

 彼は部屋の電気をつけて入ってきながら、うんざりした顔をしている。

 私がゆったりと座るソファーまで歩いてきて、上からじろりと見下ろした。その黒い一重の瞳は細められ、機嫌が悪そうだ。

「君の考えそうなことだ。だけどまさか人のパーティーでそんなことしないだろうって思ったんだけどな。・・・君は、小川まりなんだった、そう言えば」

「何よそれ。小川姓に戻ってほしいなら離婚しなきゃなんないわよ」

 私がぶすっと答えると、彼はふんと鼻をならした。

「そんなことは言ってない。一応聞くが、何してるんだ、ここで?」

「何してると思う?」

 彼はまだ不機嫌なままでぼそっと言った。

「・・・奴を待ち伏せしてぼこぼこにしようと企んでいる、と思っている」

 わかってるんじゃないの、素晴らしい。私は力をこめて、にっこりとほほ笑んだ。

 夫はもう一度ため息をついて、それから部屋の電気を消した。

「ん?」

「俺もいるよ」

 すたすたと歩いてきて、私の隣に座る。それから息を吐くとやれやれと呟くように言った。

「・・・君の家族をするのは、まったく大変だな」

 それはお互い様でしょうが。私はそう心の中で言って、足を組み替えた。


 私たちがいるところは大都会のほぼ真中に位置する中級ランクのホテルだ。その3階にある廊下の端っこの控え室3。

 なぜ、暗闇の中、夫婦で不機嫌にここに座っているかというと・・・・。

 ことの始まりは3時間前に遡る。


「まり〜!よく来てくれたわねえ!」

 私の数少ない女友達である、高木弘美が両手を広げて大げさな笑顔で近づいてくる。私は仕方ないわね、と肩をすくめてから彼女が抱きつくのにまかせた。

 今晩は、弘美がエッセイやコラムを書いている雑誌の、創刊15周年のパーティーなのだ。貧乏な雑誌社では到底支払えない会場代その他諸々は、パーティー券を販売することで事なきを得るらしい。そして私は、友情をダシにされてそのパー券を買う羽目になったってことで・・・。

「それでこちらが、噂のダンナ様よね!」

 弘美が大きな声でそう言って、タダでさえ大きな瞳を好奇心で一杯に見開いて隣の夫を見る。今日は、夫婦で参加したのだった。よく考えたら結婚式も挙げていない私たちは、お互いの友人や知人にパートナーのことを紹介してもいないのだ。大体年賀状の結婚報告でも写真すらつけなかった。

 といっても夫である彰人は職場の百貨店が私と同じなので、職場の人達には最初から知れ渡ってるわけだけど。

 私の男友達で親友でもある楠本孝明という無駄に美形の男とは、夫の桑谷彰人は面識がある。だけど、弘美とは会ったことがなかったのだった。

「桑谷です。こんばんは。お話はよく伺ってますよ」

 夫がそう言って、弘美に笑顔を向けた。それは子供のように無邪気で大きな笑顔で、彼がたま〜にする、相手の警戒心を一瞬で解く笑顔だった。

 桑谷彰人という男は、履歴書を書かせたら珍しい経歴ばかりで職業欄が埋まるような、ちょっと変わった人生を送ってきた男なのだった。出会ったのは今も勤める百貨店。元カレで私の黒歴史である守口斎というバカ野郎を追い詰めるために入ったそこで、彼は私の命を助けてくれたことがあるのだった。それも、相当数。

 彼の変わっていて、かつ危険な過去が引き起こす事件に私が巻き込まれたこともあるし、何だかんだで一緒にいる内にカップルになってしまったのだった。

 そして弘美は、私から彼の話だけを聞いている。そりゃあ凄まじいばかりの好奇心をもって夫を眺めるはずよね、私は苦笑してそう思った。

 今日の桑谷さんは、ホテルでのパーティーとあっていつも彼が好むサバイバルないでたち(迷彩カーゴに黒Tシャツ、ブーツ、の3セット)とは違い、ちゃんとしたスーツ姿だった。

 少しだけのびている黒髪、ゴツゴツした濃い顔立ち。黒目が光る一重、それから黙って立っているとそれだけで人を威圧する存在感と高い身長、細いのにがっしりとした体つき。さてさて、弘美はどんな印象を抱くだろうか?

 女友達で毒舌団体代表(になれるくらいの口の悪さ)の弘美は、じっくりと彼を眺めてから、失礼、と謝った。

「ごめんなさい、不躾な視線で。でも桑谷さんは、想像したとおりだったわ!まりを大人しくさせることが出来る男性ってこんな感じかな、って私が描いてたような」

 多分に笑いを含んだ声だった。それに気がついて、夫は鼻の頭を指でかく。

「・・・大人しく、させることなんて出来ないんですけどね」

「あら、あなたでも無理ですか?結構簡単なはずですけど。まりを押し倒せばいいんですよ」

「それをして、鼻の骨を折りかけたことがあります」

「あらまあ」

「その上で股間を踏み潰されそうにもなりました」

「だってまりですもんね!あははは」

 あんた達、どこで何の話しをしてるのよ?私は眉間に皺を寄せて二人をにらみつける。押し倒せって何だ、押し倒せって。それに、鼻の骨を折りかけてなんかなかったでしょ、ちゃんと鼻を狙いから外したんだから!あそこだって踏み潰してないし。・・・企んだけど。

 折角のお洒落を台無しにするあけっぴろげな笑い方をして、弘美はキラキラした瞳で私を見る。いいじゃない、彼!その目にはそんな文字が見えるようだった。

 ・・・弘美には受けがいいのか、うん。まあ、そうだろうと思ったけど。

「退屈だと思うけど、ご飯だけはいいはずだから十分に食べていってね!それからほら、出版業界の偉いさんは何人か来てるから、もしよかったら名刺交換に励んで頂戴」

 弘美がそう言って会場を指し示す。私は手をヒラヒラと振った。

「出版業界とは全然関係ない生活をしてるんだから、それはいいわよ。有難く料理を食べてるわ。挨拶で忙しいんじゃないの、あんた?」

「そうそう、ここで次の仕事をとらないとね」

 またあはははと口を開けて笑っておいて、弘美が夫へ挨拶する。

「会えて嬉しかったです、桑谷さん。本当に大変でしょうけど、まりを宜しく」

「こちらこそ、よんでいただいてありがとうございます。折角なので楽しんで帰りますよ」

 大人な挨拶だった。私はどちらにも感心して目を丸くする。

 毒舌でヘビースモーカーな、ちょっとやそっとの喧嘩では負けない荒れた女が素である高木弘美と、黙っていればバーの用心棒のようで口を開けば軽い男、素顔はまるで鎖付きの野獣のような男である桑谷彰人は、一体どこに隠れた?そう思って。

 ・・・皆、ネコ被るのうまいわねえ!

 弘美が人ごみをかきわけて姿を消してしまうと、彼が通りすがりのウェイターからシャンパンのグラスを取りながら言った。

「デートは久しぶりだよな。楽しもうぜ、折角だから」

「無理やり買わされた券できたパーティーでデートってのも何だけど・・・まあ雅坊がいないで二人っていうのは久しぶりよね、確かに」

 私たちの息子である雅洋は2歳、今晩は十分に慣れ親しんだ彼の母親に預けてきているのだ。私達は静かにグラスをあわせてシャンパンを飲む。微炭酸が喉を通って、一瞬で気分がよくなった。

「そうね」

 私は彼を見上げてにっこり笑う。

「どうせだから、楽しみましょう」

 パーティーはこの時、始まったばかりだった。


 だけどもやっぱり、普段の自分達と全く関係のない人々が集う仕事上のパーティーなんて、退屈極まりなかったのだ。

 私は弘美がエッセイを連載しているので雑誌そのものを何度か読んだことがあったので、小説家や編集者などに見知った名前や顔があり、それはそれで興奮して眺めたり話したりして、会場を動き回っていたりもした。だけど彼は早々に場所に飽きたらしく、暫くは酒を飲みながら壁際で会場を観察していたけれど、その内どこかへ姿を消す始末。

 まあ多分、ストレス発散に喫煙でもしているのだろうと私は思っていた。

 2時間くらいいれば、十分かなって。私は考えていたのだ。もう弘美への義理は果たしたし、時間は夜の9時で、普段なら雅坊の添い寝でうとうとしている頃だった。

 ビールは毎日のように飲むけれど、ワインはそうでもない。足元にちょっとばかりアルコールの影響が出てるわ、そう思って、レストルームへ行こうとしていたのだった。

 誰か偉いさんのお友達らしい歌手が舞台で歌っている隙に会場を抜け出す。騒がしい部屋から廊下へと出て、その静けさにホッとした。

「トイレ行って・・・帰ろうかな」

 もう夫もうんざりしてるころだろうし。それを想像すると、ちょっと笑えるけどね。私はくっくっくと口の中で笑いながら、トイレへと向かう。

 今からだったら帰ってお風呂に入っても、まだ居間でゆっくりする時間があるわ。今晩は雅坊はおばあちゃん家でお泊りだし、二人でゆっくりして────────

 その時、通りかかった無人の受付後ろのクロークから、人が出てきた。

 チラリと目をやるとホテルの従業員のようだった。受付の交代時間かしら。そう考えて、私に気づき体をよけ、頭を下げているその男性に会釈を返す。

 その時何気なく彼の胸元を見たのは、デパ地下で働く百貨店従業員のクセだったといえるだろう。

 相手の立場、百貨店の社員なのか、メーカーの社員なのかを見極めるため、普段からまず名札を見るクセがあるのだ。そしてそのホテルの従業員と思われる格好をした男性の名札には────────あれ?

 私は瞬きをする。

 自分がすれ違うのを待って頭を上げ、去っていこうとしている男の胸には・・・・名札が、なかった。

 思わず立ち止まって、振り返る。

 私のヒール音が止まったのに気づいたらしい男も、ちらりと背中越しに私を見た。

「あなた・・・名札は?」

 どうでもいいことだった。

 私には関係のない、本当にどうでもいいこと。

 だけどそう聞いてしまった。きっと、怪訝な顔もしていたし、声にも疑問が含まれていたと思う。

「・・・」

 男は立ち止まり、体を半分こちらへ向けて私を見た。

 黒髪を後ろにながしてあり、白いシャツに棒タイ、ピシッとしたホテル従業員のスーツ・・・・だけど、違和感がある。

 酔っ払っていた私は、無遠慮にマジマジと見てしまったのだ。

 ・・・スーツ、肩の線があってないわ。それから、靴も。胸元から視線を落として、スーツに似合わない運動靴を眺めた。疲れない靴は履くのは判るけれど、ホテルの従業員でもあの運動靴はないでしょ。

「いかがされましたか?お客様」

 男が口を開いた。

 私は彼をじっと見たままで、低い声で言った。

「・・・パウダールームはどこですか?」

 男は接客業の笑顔を見せて、手の平を私の後方へ差し向ける。

「右に曲がってまっすぐでございます」

 完璧な笑顔が、わざとらしかった。

「案内してくれませんか?少し酔ってしまって」

「案内係をすぐに呼んで参ります」

 そう言って踵を返しそうな男の背中に、私はパッと声を飛ばした。

「あなたに、お願いしてるの」

 ねえ、名札のない、体にあわない制服を着ている不審者さん。私は目を彼から外さなかった。

 男は一瞬黙る。それから、畏まりました、と静かに返した。そして足音も立てずにするすると近づいてくる。

 トイレの場所なんて判っていた。だけど、あまりにも怪しいこの男がどう動くか見たかったのだ。桑谷さんが居たら怒るわね、きっと────────そう思いながら、それにその時の夫の顔を思い浮かべながら笑いそうになって、結構な衝撃を、体に感じた。

「・・・う・・」

 男の手刀が、私のうなじに入り込んでいた。

 ぐらりと揺れて回る視界。

 すぐに暗くなってきて──────────────


 私は、意識を失った。





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