・終わり@



 夜道をバタバタと自宅へと走る。もうもってきたベビーカーが邪魔でならなかったけれど、まさか捨て置くわけにはいかないし。

 両手で押し捲って台風のように突進し、静まり返っている自宅玄関前でとにかくと立ち止まった。

 ・・・こ、呼吸が乱れまくってるわ・・・。それから汗も。全身から湧き出るようだ。

 胸に手をあててゆっくりとした呼吸を繰り返す。さて・・・家の中は今どうなっているのだろう?静かだから、雅坊は起きていないと思われるけど・・・。いや、もしかしてもしかすると両者相打ちになって倒れていたりして?

 最後の方は不謹慎に笑いを漏らしちゃったりしたけれど、いや笑ってる場合じゃないでしょ、と自分を叩いて、ようやく静かになった鼓動とともに玄関へと歩いた。

 施錠をとく。それから、そろそろとドアを開ける。

 明りのついた玄関間。そこには確かに見慣れない革靴が置かれていた。

 ・・・滝本さん、いらっしゃってるんだよね。

「ただいま〜」

 声を限りなく低く小さくして、私は居間や台所へと続くドアを静かに開けた。

 そこに居たのは。

 そう、噂の調査会社社長でうちの夫の元パートナーである、滝本英男その人だった。

 くるりと振り返った彼は、新聞を手に寛いだ格好で椅子にゆったりと座っている。静かな家の中、色んなもの(脱いだ服とか子供のおもちゃなど)が散乱する、実に家庭的な我が家の居間の椅子に腰掛けて、完全にリラックスした様子で滝本さんは存在していた。

 浮いているといえば浮いていたし、馴染んでいるといえばそういえなくもない、不思議な光景だった。

「ああ、ご帰宅だ。蜘蛛は捕らえられましたか?」

 にっこり。滝本さんはシルバーフレームの眼鏡の向こう、いつもと同じ三日月形に細めた瞳で、柔和な笑顔を作って私に言った。

 私はざっと部屋を見渡す。

 ・・・雅坊は、いない。

 とりあえず安心した。1歳半の赤ん坊なのだ。夜泣きがまだ頻繁な、仰け反りかえって泣き叫ぶうちの息子を抱えて途方に暮れる滝本さんが居たりしたら、それはそれで大変面白かっただろうけれども誰一人として得をしない結果になったはずだ。

 どうやらそんなことはなかったらしい。

 ふう、と息をついて私は部屋の中に入ってドアをしめる。それから、深深と頭を下げた。

「お留守番、ありがとうございました」

「いえ、何事もなく勤めることが出来ました」

 その声には嫌味は感じなかった。何かしら思っていることがあったとしても、外面が完璧な彼は私には苦情は言わないらしい。私は荷物を置いて、襖をあけて隣の和室を覗く。そこにはいつものように大の字になって眠る雅洋の姿があった。寝かせたときのままの格好。つまり、やっぱり起きてはいないらしい。

 超、平和な光景だ。

 改めて向き直り、私は滝本さんに微笑んだ。

「すみませんでした、こんな用事を押し付けてしまって。夫からあなたに頼んだ、と聞いてとても申し訳なく思ったんで、すっ飛んで帰ってきました」

 滝本さんはうっすらと微笑んだままで少しだけ首を傾げる。

「彰人には考えがあるようだったので、従いました。お役に立てて何よりです。あなたも無事だったんですね」

「彼と飯田さんが蜘蛛野郎・・・失礼、あの何でも屋を追い詰めたところで交代してきたんです。二人がいるし、危ないことはないと思いますけど・・・」

 そこまで言うと、滝本さんはするりと立ち上がる。読んでいたらしい新聞をきっちりと畳んでテーブルに置き、ふむ、と呟いた。

「飯田や彰人が危険なことはないと思いますが・・・蜘蛛はある意味危険かもしれませんね。何故か今回は、彰人がえらく殺気立ってましたから。まあ殺すようなことはないと思いますけど────────私もこれから向かうとします」

 こ、殺す??・・・さらりと物騒なことを言う。私は少しばかり引きつった口元を手で隠して滝本さんに言った。

「ええと、すみません。私が頭を突っ込んでしまったばかりに皆さんを面倒くさいことに巻き込んでしまって」

 挙句の果てに赤ん坊の子守までさせるところだった。

 さすがに真面目な声と顔でそう謝ると、滝本さんはうっすらと微笑んだままの顔でしれっと言った。

「大丈夫ですよ、貰うものはちゃんとヤツから貰いますから」

「・・・・はあ」

「知人価格で」

「・・・つまり、3倍料金?」

 滝本さんがにやり、と笑った。それはいつも私に見せる対外用の柔和な笑みではなく、大層人間くさい企んだ笑顔だった。

「いえ、料金は通常です。ただ、彰人は私に大きな貸しが出来る」

 ・・・さよですか。私はどうすればいいのか悩んだ挙句、曖昧に微笑むだけにした。

 玄関に向かいかけて、何か思いついたように滝本さんが振り返った。

「そういえば、やっぱり言ったんですか?」

「え?」

 何をだ。私は思わず首を傾げて聞き返す。すると滝本さんは丁寧な物腰で優しげに微笑んだまま、言った。

「言いたいことを言ったんですか、蜘蛛に?私の知っているあなたなら、そうするかなと思いまして」

 つい、声を出して笑ってしまった。滝本さんの中での私のイメージは、刃物を向けるストーカーに向かって罵詈雑言怒鳴りまくった2年前の私のままなのだろうって判ったからだ。

 もう一児の母親になっているのに。

 だけど、ちっとも変わっていないのは、自分でも知っている。だからニッコリと笑顔で頷いた。

「ええ勿論」

「・・・で、彰人が更に怒った」

「ええ、勿論」

 くく、と笑い声を漏らし、彼は玄関へと歩く。そして、では、という柔らかい声を残して外へと出て行った。

 

 その夜、桑谷さんが戻ってきたのはいつなのか知らない。

 滝本さんが帰ったあとで何かの気配に気がついたのか、雅洋が起きていつもの夜泣き、つまり凄い声量での号泣を始めたので、蜘蛛や夫や飯田さんや滝本さんのことは頭から消えてしまったのだった。

 なにせ、夜泣きをする赤ん坊というのは悪魔以外の何者でもない。よかった、滝本さんがいる時には起きなくて。もしかして、あの眼鏡男性からの無言の圧力を感じていたのかもしれないけれど。

 とにかく何とか夜泣きを収め、ささっと入浴して私も眠りについた。

 いい匂いのする息子の肌に顔を近づけて、私はゆっくりと幸せな夢に落ちていく。

 この子を守れた、それが判っていたからだった。


 朝。

 私が起きると、台所で立ったまま、夫がコーヒーを飲んでいた。

 台所に面した大きなガラス戸から朝の光が差し込んで、キラキラと部屋の中を明るくしている。空気中の埃と沸かしたお湯の蒸気の中で、彼は外を眺めながらカップを傾けていた。

 静かにドアを開けたので、私には気がつかなかったらしい。彼の大きな体。それから短い黒髪。シャワーを浴びたのだろうか、頭にはまたタオルがかかっている。私はしばらくぼーっとその、朝日の中で佇む夫の後ろ姿を見ていたけれども、ようやく気が済んで、ドアを片手でノックした。

「おはよう」

 彼が振り向いた。

 ・・・う。

 私は驚いて、つい目を見開いた。

「おはよう、雅は大丈夫だったらしいな」

 そういって微笑む夫の顔は、いろんなところが青あざになり、口の端などは切れてしまっているようだった。

 元々岩のようなゴツゴツとした、よく言えば男性らしい濃い顔をしているのに、その怪我だらけの顔では更に凄みが増している。もうどう好意的にいってもヤクザのようだ。

「・・・ええと・・・何事?だ、大丈夫なの、その酷い顔?」

 にっと彼が笑う。痛そうではあったけど、機嫌はいいようだ。つまり、何であれ彼の納得がいくような結果を迎えたのだろう、それが判った。

「まり、今日の仕事は?」

「あ、私は遅番だから昼から。あなたは?それに怪我は顔だけ?病院いかなくていいの?」

 私の問いに、彼はひらりと片手を振った。そんな怪我じゃない、って。それから頭を傾けて、お湯を指す。

「コーヒー飲むか?朝食は?」

 私はにっこりと笑った。朝食は?と彼が聞く時には、俺が作ろうか、の意味であると知っている。だから頷いた。彼にも今朝は時間があるらしいと判ったので、私は自分の支度をしにいくことにする。洗顔をして着替えている間に、素敵な朝食が出来上がっているはずだ。

 外見は、まるでヤクザなみの迫力がある男。しかも現在は顔までもがボロボロだ。だけど─────間違いなく、私の「いい男」だわ。そう思って、つい笑ってしまう。洗面を済ませて着替え、台所に戻った。

 お互いの休みを把握していないので、本日の予定は毎朝情報交換している。それによると、彼は今日休みのようだった。本当はこれからの冬にかけての繁忙期の為にまとまった休みを取るべきらしいのだが、今回の騒動でやたらと仕事を押し付けてしまったらしい売り場の新人さんに明日からの残りの休みをやるんだ、と言って、器用にチーズオムレツを作っている。

 コーヒー、それからオムレツとホットサンドを魔法みたいな速さで作って、彼がすすめてくれる。

「頂きます」

 私は幸福な気持ちで両手をあわせた。雅洋はまだ眠っている。だから、朝のこの時間は夫婦二人の時間なのだった。

 いつもはテレビや新聞を見るこの時間、今日は勿論、彼の顔の怪我を作るにいたった昨日の夜のことの話になった。

 彼は自分も食べながら話す。時折痛そうに、口の横を舐めていた。

「全部判ったぞ。蜘蛛の雇い主、それから奴らの目的も」

 わお!私は声を出さずに指先で拍手した。まさか、この数時間でそこまで判るとは思ってなかったのだ。

 凄いじゃん!だって昨日は私が帰宅した時点ですでに夜の10時すぎだったのだ。それから全部が判ったってこと?それって何時に帰ってきたの?そう思った。

 とにかく、昨日の夕方、雅坊を連れて保育園から帰ったあと、メールで激しく夫とやりあったのだった。

 つまり、私が蜘蛛のおとりになることについて、彼は反対したのだ。「何考えてるんだ!?」って文字が携帯の画面の中で躍っていた。だけど仕方ないでしょ?と私は返したのだ。だって、あなたが食堂で言ったのは私と雅があなたの実家にいく、ということなんだから、って。

 狙い通りに蜘蛛が私達のところにくるなら、自動的に私は囮になるはずだ。

 それで実は武道の心得があるらしい飯田さんを護衛につける、という話になったのだった。それでも夫は相当ごねて、その挙句しぶしぶという形で了解を出し、その上で彼の仕事が終わる9時までは家を出ない、という約束を私に強要したのだった。

「まず昨日の話からだな。まりが家に帰って、それからだ」

 俺と飯田に囲まれて、だけど蜘蛛は逃げるつもりでいたようだった。勿論何でも屋としてのプライドもあっただろうけれど、まあ簡単にいうと俺達はまだ舐められていたんだな。格闘技ではきっとヤツの方が上だったはずだ。あっちにもこっちにもそれが判ってた。だから、ヤツは逃げられるとタカをくくっていたんだろう。

 だけど、こちらには人手と文明の利器があったんだ。







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