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 夜の9時。

 私はベビーカーに毛布をかけて、秋の夜の防寒準備をしてから大きなバッグを持ってこっそりと家を出た。

 ここから夫の実家までは徒歩で25分。歩きでは結構な距離だけど、ベビーカーでは仕方がない。車で行ってはあちらに駐車場がないので困ることになる。

「さて、出発ね」

 一人ごちて、そろそろと夜の中を歩き出した。

 月が出ていて風はそんなにない。そういえば、先月の十五夜も綺麗だったわ、そう思いながら人気のない夜道をベビーカーを押して歩いていく。

 夜道になるとふと昔のことを思い出してしまうのだ。

 小さなころに父の背中におぶわれての夜の散歩や、学生時代のデートの帰り。大学生の時は楠本達とよく飲み会をしていたし、あの頃は夜というより既に朝の帰宅になったものだった。

 それから私の黒歴史である元カレの守口斎に振り回されていた頃や、桑谷さんと出会って手を繋いで歩いたことなんかも。

 今は、ベビーカーを押して歩いている。

 あら、これってちょっと不思議ねって。

 だけど、物思いに沈めたのはほんの少しの間だった。

 家を出てからおおよそ10分くらい経過していた。駅前を過ぎて、町の明るい外灯はとっくに過ぎてしまっている住宅街。それも大きな家が多くて周囲は巨大な塀が続くという場所で、私は少し離れたところに立っている人間の影に気がついた。

 ぽつんぽつんと離れて立っている外灯の一つに照らされて、ヤツは顔を影にして立っている。

 私は歩くのをとめて、ヤツの影になった顔を見詰めた。

「こんばんは」

 影が言った。

 聞いたことがある声。ちょっと低めで、ざらりとしている。

 私は表情を消したままでボソッと呟いた。

「・・・害虫野郎の登場だわ」

 ちゃんと聞こえたぞ、と呆れたような声色で、ヤツが言った。一歩下がって顔を光にさらす。それは、今日の昼間私の職場に現れた、蜘蛛男だった。

「・・・あなた、よほど暇なのね」

 私の言葉にヤツは手をヒラヒラと振る。

「言っただろう、あんた達のせいで仕事が停滞中なんだって」

 それからゆっくりと近づいてきた。

「さて、交換材料を貰い受けるよ。息子ちゃんは夢の中かな?」

 私は唇をかみ締めた。

 全く、どうやって情報を手に入れたのだろう。私はヤツは保育園を見張ってるだろうって思ってた。だから、帰り道は気をつけなきゃって。それからはまた百貨店に戻って、桑谷さんにコンタクトを取るだろうかって、思ってたんだけど─────────・・・

 ヤツは、目の前にいる。

 私はベビーカーから手を離し、その前にたって肩からおろした鞄を地面に放り投げた。

 人気のない夜の道で、蜘蛛と向かいあう私。うしろには守らなければならないもの。

 口元にあざけりを浮かべて私は口を開く。

「大声で叫ぶわよ」

「やればいいだろう。ここら辺は敷地が大きな家ばかりでちょっとやそっと叫んだくらいじゃ誰も動いちゃくれない」

 それが判ってるから、ここで私の前に出てきたのだろう。私も判ってる。一応言ってみただけだ。だって、それが一般的な反応でしょう?

 私は不機嫌な顔のままで言葉を続ける。

「息子を簡単に渡すと思ってるの?どうしてそんなにバカなのか判らないわ。これこそ無駄な時間でしょう?他に仕事がないなんて、あんた何でも屋としても3流なのね、きっと」

 ここに桑谷さんがいたら怒るに違いない。そう思いながらも、私は言いたいことをベラベラと言ってやった。だってどうせ危機なのだ。黙ってその結果を受け入れることなんてない。

 ヤツは両手をだらりと体の横に下ろしたままで、無表情のまま言った。

「───────あんた、本当にムカつく女だな」

 私は顎をつんと上げてみせる。

「それはありがとう。変態のバカ野郎に褒められたってちっとも嬉しくないから、どうぞいくらでも罵って頂戴」

 はあ〜、と大きなため息。

 それから、蜘蛛は腰に手をあててダラダラと話しだした。

「俺がどうして蜘蛛って呼ばれているか、知ってるか?」

「興味ないわね」

 折角答えてやったのに、やつは無視した。

「糸みたいに策を巡らせて、ターゲットをしとめるからだ。お前らもそうなる」

 私はふんと鼻で嗤う。

「あんた、ナルシストって呼ばれてない?」

 蜘蛛男の表情は変わらなかった。これではヤツを怒らせることは出来ないらしい。ふん、心の中でもう一度鼻をならし、私は口角を上げる。

 体術では負けるだろう。体力も違う。それに、ヤツのスピードはとても速い。だけど、口喧嘩では絶対勝ってやるんだから──────────

「なにが策を巡らすよ、バッカらしい。あんたがしたのはあちこちに出没することだけじゃないの。蜘蛛の巣に引っかかる私達を見たいのでしょうけど、残念ね、それは叶わないわ」

 蜘蛛野郎が首を傾げた。初めて私の意見に興味を持ったような顔をしている。

「私は、その巣の上で踊ってみせる。それも凄く細くて素敵なピンヒールでね」

 蜘蛛野郎が、口元を緩ませた。

 私はそれでも続けて言葉を出す。

 暗闇の中に立つ、バカ野郎に向かって。恐怖などちっとも感じなかった。今は、興奮状態にあると判っていた。

「ちゃんと私達の調査をしたの?なら知ってるはずよ、うちのダンナは──────そんな繊細な糸なんて気にせずに、あっさりとその場ごと吹き飛ばすような人なのよ」

 蜘蛛がいきなりヒュッと近づいた。

 急にのびて来たヤツの両手を、私はギリギリで何とかかわす。スピードが速くて手の動きで風が鳴ったほどだった。

 うわお!私は身を屈めながら、伸ばした左足でベビーカーを蹴り飛ばしてヤツとの距離を稼ぐ。

 両手を私の首めがけて伸ばしたヤツは、そのあとは続けて攻撃をしかけなかった。それよりもパッと後ろに飛びのいて私に言った。

「・・・子供はいないのか」

 質問ではなかった。

 私は屈めていた身を起こしてあはははと笑ってやる。

 人気のない暗い道に、私の笑い声が響いて消えていった。

 私は落ち着いて呼吸を戻す努力をしながら言う。

「その通り、ベビーカーには息子はいないわ。今何時だと思ってるのよ?あの子は寝る時間なのよ、外出なんてするわけないでしょ?」

 ホント、バカだ。

 私は心の中で呟いた。

 今回も、桑谷さんが正しかった。ちょっと悔しいけれど、こいつは彼の考え通りに行動をしたわけね、って。

 蜘蛛男が目を細めて呟いた。

「──────チビは家から出てないんだな。それで、あんたが出てきている。・・・昼間のは、嘘だったわけか」

 私は優雅に肩を竦めてみせた。

 昼間。

 百貨店の店員食堂。

 夫の桑谷さんを見つけて、呼び出した私。

 作戦会議をした。

 普通の声で、今晩彼の実家へ移動するようにと私に指示した彼。

 蜘蛛野郎が言っているのは、それのことだろう。

「・・・やっぱりあんた、あの場所にいたのね?」

 私の言葉にヤツは無造作に頷く。

 そうだったのだ、やはり居たのか。

 休憩時間を終えて売り場に戻り、そのままで終業時間まで勤務した私が、上がりますと方々に挨拶をして売り場をあとにした。それからバックヤードの階段を上りながら開いた携帯電話に、メールがきていたのだ。

 送り主は夫、桑谷彰人。

 内容はこれ。

『店食での話は無しだ。ヤツが周囲にいるだろうと思ったから話した。今夜、ヤツが君たちを狙ったところで仕留めることにする。連絡はメールのみで。次の休憩で質問に答えるから、聞きたいことがあればどうぞ』

 ───────は?

 そう思った私は勿論質問メールを送った。いや、正しくは送りまくった。何いってるのか判らなくて、ちょっとムカついてもいた。だって保育園にすぐ行かなきゃならない時に、何面倒くさいことしてくれやがるんだ、あの男は!!と思ったからだった。

 そんなことで、結局本当の作戦会議はメールで行われたのだった。

 夫は言ったのだ。あいつは何でも屋だろう、きっと、百貨店にも忍び込んでるぞ、って。俺だって階が違う人間のことまで全員の顔を知っているわけではない。食堂にあいつが紛れ込んでいても判る自信はない。だから、ヤツが盗み聞きしている前提で話したんだ、って。

 確かに、あの込み合った店員食堂に出入りするのは百貨店の社員だけではない。アルバイトや短期の派遣の者、掃除の人や出張でたまたまいるメーカーの人間だってイベントの什器運搬会社の人間だっている。

 着ている制服で所属階や階級を予想するだけで、初めてみた顔、なんてごろごろ居る場所なのだ。普通のスーツ姿の人もいるし、私服姿の人もいる。

 蜘蛛が潜んでいても二人とも気がつかなかっただろう。いや、実際、気がつかなかったのだ。

 保育園から帰宅したあと、お風呂にも入り、ご飯も食べた雅坊はいつもの通り8時半には寝ている。もし起きた時の対処に誰かを家に派遣する、と夫は言っていた。

 それが若干心配な私だけど、とにかく、彼の言う通りに蜘蛛は現れたのだ。

「・・・と、いうことは」

 蜘蛛野郎が呟いた。

「あんたが一人なわけが、ない」

 その通り。

 私の後ろ3メートルほどの暗闇の中から足音が聞こえて近づいてきた。それは、滝本さんの会社の調査員、飯田さん。そして─────────

「どの殺虫剤がいいか、お前に選ばせてやる」

 そんなことを言いながら、蜘蛛男の後ろからは、夫、桑谷彰人が姿を見せた。

 ヤツは振り返り、それから無表情で急に現れた男性二人を目で確認する。それから、体の力を抜いて静かに構えた。

 ・・・おお、すぐに戦闘態勢だわ。

 飯田さんが私の前に出て、言った。

「さっき危なかったですね。だけどあなたが避けたのをみて驚きました。遠くにいすぎてすぐに来れず、申し訳ない」

「いえいえ、バカを挑発したのは私ですから」

 大丈夫です、と言葉を返して無人のベビーカーを回収していると、飯田さんと蜘蛛男を挟み撃ちしている夫の声が飛んできた。

「また挑発したのか?全く、どうして君はいつもそうなんだ!」

 あら、聞こえてた?

 私は見付からないように舌を出してから、彼に向き直る。

「知ってるでしょ、私の性格は。ところで、雅坊を見に誰をいかせたの?湯浅さん?」

 本当は夫がみてくれるべきなのだ。だけど、彼は強固に自分が蜘蛛と対決すると宣言した。では、一体誰が?

 夫は蜘蛛から目を離さずに、きゅっと口の左端を持ち上げて笑う。全身に闘志をまとわせたままで、それはかなりやんちゃな笑顔だった。

「英男だ」

「─────は?」

 そう言ったのは私。右前方で、飯田さんも驚いたらしく桑谷さんを凝視したのがわかった。

「英男だ。そこは責任者に出てもらうのが筋ってもんだろ?」

 物凄く楽しそうな言い方だった。勿論、子供どころか赤ん坊の相手などしたことがないはずの滝本さんに押し付けて、彼はサディスティックな喜びを感じているのに違いない。

 私は唖然として一瞬言葉を失ってしまった。

 ・・・あの、正体不明の恐ろしいマネキン人形みたいな滝本さんが、雅坊の付き添いを!??

「・・・大丈夫なの、それ?」

 お互いにとって。

 そう思って聞くと、まだ楽しそうな顔をしたままの夫はヒョイと肩をすくめた。

「多分な。雅が寝てりゃあ問題ない。起きていたら──────ちょっと見ものだな」

 いやいやいやいや。私は心の中で盛大に突っ込んだ。ちなみに、張り手つきで。

「見ものだ、じゃないでしょ!どっちも可哀想だわ、それは!」

 右前方で飯田さんが微かに頷いている。彼は上司である滝本さんに同情しているに違いない。だから私は息子の同情をしましょ。だって目覚めたら、あんな眼鏡の兄ちゃんがいるなんて、きっとびっくり仰天!かーなりシリアスな場面じゃないの!

 黙ったままでその場の進行をみている蜘蛛をじっと見詰めたままで、桑谷さんが言った。

「そんなわけでまり、交代だ。俺はこいつと話をする必要がある。君は噂の冷徹人間から息子を救い出しに行ってくれ」

 その冷徹人間に息子を預けたのは誰なんだっつー話よ!

 私は腕を組んで低い声で言った。

「─────後で話し合いが必要よ」

「この件が片付いたら、ゆっくり時間取るよ」

 うぐぐぐ・・・仕方ない。とにかく、私は戻らなければならない。

 だから鞄を拾ってベビーカーへのせ、私は蜘蛛野郎を振り返った。

「じゃあ、お疲れ様。ちゃんと昇天してね」

 蜘蛛野郎はこっちをみていた。相変わらず感情の見えない表情で。

 だけどちっとも怖くなかった。

 桑谷さんがいる。それから、飯田さんも。もしかしたら私が知らないだけで、違う罠も用意してあるのかもしれない。

 だから私は2度と振り返らなかった。ただ、夜道をベビーカーを押して走っていた。全力疾走だ。

 家へ。

 凄く気になっていたのだった。

 我が家で息子と一緒にいる、滝本さんの様子が。





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