・作戦実行@



 翌朝、私達は二人とも不機嫌な顔のままで出勤した。

 今日は息子の雅坊は私が朝、彼の実家へ迎えにいって保育園に送って行く手はずだったのが、桑谷さんが言ったのだ、俺がする、と。

 彼は私と同じデパート3階のスポーツ用品店の売り場責任者であるにもかかわらず、シフトを強引に変更して自分を遅番に設定し、保育園への送りを実行した。

「どうしてよ?」

 朝、台所で立ったままモーニングコーヒーを飲んでいた私は呆れて振り返る。

 シフトかえた、俺が送っていくから、とその直前に聞いたのだ。

「大丈夫なの、売り場?人いたの?ってかいつの間にシフト変更の連絡したわけ?」

 私の矢継ぎ早の質問に、彼は洗ったばかりの頭をタオルで拭きながら簡単に答えた。

「起きてからだ。新入社員の張り切りボーイが売り場にいるんだ。ヤツに頼んだら喜んで引き受けてくれた」

「・・・」

 喜んで、のところは信用しないでおきましょ、私は心の中でこっそりそう思ってあからさまなため息をつく。

「で、どうしてあなたが雅坊の送りを?今までそんなこと言い出さなかったじゃないの」

 これまでだってあったのだ。実家に迎えにいって保育園に送って行くことは。それは、例え彼が昼出勤だったとしても私がやっていた。まだ幼い息子はやはり母の顔を見るほうが喜ぶからな、と彼本人が言ったのだ。なのに、なぜ。

 昨日は遅くて結局お風呂に入らなかったためにさっきシャワーを浴びたばかりの上半身裸の格好で、彼は私をじっと見た。

 その一重の黒目には愛嬌のカケラもなかった。やたらと真剣な目で、彼は私をしばらく見てから呟くように言う。

「蜘蛛野郎に雅のことを知られたくない。君が送るより俺が行った方が、もし尾行されてるなら気がつく可能性が大きいからだ」

 私はゆっくりと頷く。

 勿論、それは判っていたのだ。

 だけどこちとら普通にこの町で暮らしている一般市民で、当たり前だけど戸籍謄本にも住民票にも桑谷彰人を筆頭として家族構成がのっている。ヤツは調べる、と断言していたのだし、今更雅坊の存在を隠すのは無理だと私は思ったのだった。

 それに、保育園に居るほうが息子は安全だ。それは間違いない。今の保育園では連絡なしでは例え身内であっても引き渡してはくれないし、幼少なので一人での行動も少ない。だから問題は家に私と息子がこもる夜だと思っていたのだけれど、桑谷さんは保育園まで発見されることを恐れているらしい。

 彼は頭にのせたタオルの淵から私を見下ろす。

「こうなったからには仕方ない。今日は休めないが、英男にも協力してもらってヤツの情報を集めるつもりだ。そして、早々に何とかしてしまいたい」

「そうね」

 私は同意する。だって、あんな面倒なバカ野郎についてこられるなんてごめんだわ。

「君と」

 桑谷さんが低い声で言った。いつも意識して出しているのだろうひょうきんなキャラクターはカケラも見えない顔をしていた。

「雅に、手を出させるわけにはいかない」

 黙って考えた。ここでまたふざけた軽口を叩くと、彼はあの、「今すぐ何放り出してもいいからこの女の首をしめたい!」という顔をするのだろうなあ〜って。

 ・・・言おうかしら。例えばほら、「手を出すんじゃなくて、足ならいいの?」とかさ。

 彼はとても真面目な顔で私を見下ろしている。私が考えていることなど全てお見通しであるような気がした。

 ・・・や〜っぱり止めときましょ、軽口叩くのは。朝から面倒くさいことになりたくないし。

 だから、私はただ頷いただけだった。

 桑谷さんはちょっと片眉を上げたけれど、そのまま服を着に奥へと入っていったのだ。

 そんな朝だった。

 私は自分のチョコレート屋さんの売り場に立って、パソコン画面を睨めっこしながら回想していた。雅坊は保育園に間に合ったのかしら?それに、彼も?桑谷さんの職場の新人の子に、今度ご馳走しなくっちゃ─────

 今日の売り場の相方である福田店長はお昼の休憩にいっていた。私は閑散としているデパ地下の洋菓子売り場を何と無しに見渡して、エスカレーターのところで視線を止める。

 ──────あら。

 どうやらそこに立ってずっとこちらを見ていたらしい男が、特徴のない無表情の顔のままでふらふらと近づいてくるのが見えた。

 ・・・蜘蛛野郎のお出ましだわ。

 私は手早くパソコンを片付けて、顔に笑顔を貼り付ける。バカ野郎でも、一応お客様。

 ヤツはたらたらとした足取りで、それでもこの売り場を目指してきていると判ったので、私はケースの前へ出た。それから、声の聞こえる距離に入った蜘蛛男めがけて言った。

「いらっしゃいませ」

 蜘蛛男は無表情のまま私から目を離さずに近づいて、黙って突っ立った。

 私も笑顔を崩さないままで両手を前に交差して待つ。

 しばらく無言で見つめあったまま、ゆらりとヤツが視線を外した。

「・・・朝、ダンナにまかれちまったよ」

「商品お決まりでしたら、お伺いします」

 ヤツはこちらをちらりと見た。相変わらず表情が読めない無表情で。何でも屋というのは誰にでもなりきれるために特徴のない背格好、顔立ちをしている人が好まれると聞いたことがある。だから、こいつも覚えにくい姿形をしているのだろう。

 黒髪、短すぎず長すぎない短髪。奥二重の瞳。平均的な鼻、特徴のない口元。歯は矯正しているのか綺麗な歯並びだったはずだ。きっと、八重歯なんかで目立つのがダメなのだろう。

 姿が見えなくなれば、5秒で忘れそうな人間・・・。

 蜘蛛野郎が小さな声で言った。

「だから、こっちに来たんだ。桑谷まり、さん」

「熨斗体裁や包装など、お気軽にお申し付けくださいませ」

 ヤツがちょっと目を見開いて、また私を見る。にこにこにこにこ。百貨店の教育の賜物であるこの親しみを込めた笑顔攻撃をみよ。私は口元がそろそろひきつりかけているのを感じながら、それでも笑顔を崩さなかった。

 だってここは私の職場なのだ。いきなり「お客様」に「何しにきたんだテメエ」などと怒鳴るわけにはいかないじゃあないの。

「・・・あんた、ちょっと面白いな。じゃあこれを貰うよ」

 ヤツはガラスケースの上に見を乗り出し、チップスにチョコレートをかけてコーティングしたお菓子の子袋を指差す。私は更に笑顔を大きくして両手でその包みをとった。

「畏まりました。少々お待ち下さい」

 それからカウンターに入って袋包装を始める。

 ケースを挟んだ前に立って、蜘蛛野郎が小さな声でぼそっと言った。

「女は家に戻ってた。だけど警察に行ったらしくて依頼主から待つように指示がきたよ。あんたらが入れ知恵したんだろうな・・・。全く、腹がたつよ」

「リボンなどはいかがでしょうか?」

 ヤツは手を簡単に振ったので、リボンはつけないことにする。ついでにそのまま床に落として中身を割ってやろうかと考えたけれど、子供っぽいと思ってやめることにした。

「だから」

 蜘蛛野郎が身を乗り出した。傍目には、商品について店員と相談している客にしか見えないに違いない。

「桑谷家のチビと交換しないか?あんた達の宝物であるチビ助を狙うのをやめるから、あんた達も他人事からすっきり手を引いてくれ」

 グシャ。

 手に持った菓子の袋を包装したままでガラスケースの角へと強く押し付けて、私はにっこりと笑う。

「百貨店のカードはお持ちでいらっしゃいますか?」

「・・・もってない」

 蜘蛛野郎は私がたった今中身を破壊したお菓子袋を凝視している。私はニコニコと笑顔のままでそれをビニール袋へといれ、レジを打った。

「お待たせいたしました。会計させて頂きます」

「・・・それに、金払えって?」

「何か不都合ございましたか?」

 目を見開いて、申し訳なさそうな顔を作る。蜘蛛男は少しの間呆れたようにみていたけれど、やがて苦笑のようなものを落として袋を取った。

「あんた、本当に面白い女だな」

 お金をつり銭なしのきっちりした金額をおいて、ヤツは歩き出す。

 私はそれをしばらく笑顔で見送って、それからふん、と鼻を鳴らした。

 ────────宣戦布告かよ。バカ野郎め。

 あたしは性質の悪い詐欺師で殺人犯だった男とも生活を共にしたことがあるのよ!威張れないけど。あんたなんかに───────・・・

「手出しは、させないんだから」

 呟きは、口の中だけにしておいた。

 桑谷さんの言う通り、やはり早朝にあいつは我が家を見張っていたらしい。だけど雅坊を迎えに行く彼にまかれてしまって、こちらに来た、言葉通りにとればそういうことなんだろう。

 依頼主から待ったがあった?だから私達にやり返す暇もあるってわけ?

 ムカついたのでケースを蹴っ飛ばしそうになった。

 落ち着くのよ、まり。とにかく必要なのは───────────

 腕時計を確認した。

 ・・・作戦会議、だわ。

 もうそろそろ福田店長が戻ってくるはず。そうしたら品だしに倉庫へいって、それから早い目に休憩を貰おう。運よく時間があえば、店員食堂で夫に会えるはず──────────

 その企みは成功した。

 つまり、いつもより早めの休憩に出ることで、滅多に会えなくなった3階所属の夫に店員食堂で会うことが出来たのだ。

 元々デパ地下の鮮魚売り場責任者だった彼は、滅多に最上階にある店員食堂へはこなかったのだが、3階へ異動になってからは毎日のようにここを利用している。ただし、私とは基本的に使用時間がずれているので会うことは少ない。

 食堂内に入ってざっと見渡すと、隅っこの方にある大きな楕円テーブルで数人の同僚と話している夫を発見した。男性陣がコーヒーを前に思い思いの寛いだ格好で談笑している。

 躊躇せずにそちらへ向かっていく。

 何人かが気がついて、声を上げた。

「お、桑谷。奥さんが登場だぞ〜」

 ん?と彼が振り返る。

 私はにっこりと笑みを浮かべて方々へと愛嬌ある挨拶をし、彼の肩に手をかけた。

「ちょっといい?」

 周囲がにやにやとはやし立てる。ここ職場ですよ〜という声には、夫が中指をつきたててみせていた。

 時間が時間だから人がいないところ、などはない。仕方なく同僚達とは少し離れた場所に座って、どうした、と目で聞く彼に小さな声で言った。なんせ、周囲には普通に従業員がわんさかいるのだ。どうケアしたって胡散臭くなってしまう話題は、小声でないとダメだよね。

「ヤツが来たわ、午前中」

 彼の瞳から優しさが消えた。急に現れた不機嫌な気配に、私はやれやれとため息をつく。

「ちょっと、ここでそんな顔しないでよ。私が怒られてるみたいじゃないの!」

「────ああ、悪い」

 瞳を伏せて彼はコーヒーを飲む。そして、それで?と話を促した。

「売り場にきて、私と話をした。朝あなたにはまかれちゃったからこっちにきたと言っていた。あっちの依頼人にはちょっと待てといわれているらしい。それは、あの歌手が警察にいったから、らしいの。で、蜘蛛は暇なのよ。しかも私達に腹を立てている。だから、うちの雅坊と────────」

「・・・歌手を交換、か?」

 おお、よく判るわね。私はちょっと驚いたけれど、うんと頷いた。普通はそういう考え方なのかしら。なんて人達だ。

 彼は考えるときのくせで、人差し指を唇にあてて黙っている。それから、特に小声でもなく、普通の声で話し出した。

「まり、今日の夜は雅坊を俺の実家へ連れて行ってくれ。母には話してあるし、ちょっとの間離れて暮らすほうがいいかもしれない」

「え?」

 私は夫をマジマジと見た。離れて暮らす?誰と誰が?

 私の疑問を読み取ったらしい夫が、いつものひょうきんな軽い言い方でさらっと言った。

「君と、雅坊だ。しばらく俺と離れて暮らす。その間に俺が蜘蛛を何とかするからさ」

「え、嫌よ。仕事が遠くなるじゃない」

 私は憤然として一応の抗議を試みる。だけど、そんなことしたって無理だとはわかっていた。この申し出は彼の中では決定事項であるのだって。

 やっぱり彼は笑ってスルーした。

「頼む。時間稼ぎが必要なんだ」

 ・・・確かに、彼の実家からここには通えない距離ではない。何かよく判らないけれど、彼には考えがあるらしい。すでにひょうきんな笑顔であはははと笑ってはいるけれど、目が笑ってないのよ、もう。

 普通の声で言うから周囲の人には聞こえているに違いない。職場で家庭内別居を宣言されたような気持ちで、私はかなりの居心地の悪さを感じながら、渋々立ち上がった。

「・・・了解。じゃあ、今晩私の仕事が終わって雅を迎えにいったらそうするわ」

「うん」

 時計をみた彼は休憩時間が終了間際だと呟く。じゃあな、と同僚の元へと戻る彼に手を振って、私はトイレへと向かう。こっちもお昼ご飯を食べて、午後に備えなくっちゃ。



 夕方、早番で出勤していた私はいつものように5時半で退勤となる。

 マザーバックに詰め込むだけ詰め込んで、ダッシュで職場を出るのもいつものこと。それからチャリをかっとばして雅坊の待つ保育園に飛び込み、ギリギリセーフですね、と先生に言われて雅坊を引き取るのもいつものことだった。

 だけどいつもと違ったのは、今日はチャリにのっけて帰宅した、ということ。いつもは夕日を浴びながら息子と二人でチャリを押して歩いて帰るのだ。その日あったことなどをまだ言葉がうまく喋れない息子が一生懸命話すのを笑いながら聞いたりする。

 それはそれで毎日の中の大事な瞬間なのだ。

 だけど、今日は害虫のためにそれは変更。

「かーちゃ?」

 と不思議そうに聞く息子をチャリの前につっこんで、さっさと帰宅した。

 それからお風呂に入れて、晩ご飯を食べさせる。今晩は雅坊の好きなオムライス。鶏肉で作るのではなく、小さく切ったウィンナーで作るとチビはとても喜ぶのだ。卵の上にチーズをのっけてあげると更に喜ぶ。今晩は機嫌よくいてほしかったので、私はそのスペシャルバージョンを作った。

 わーい、と手をパチパチあわせて、早速オムライスに齧り付く雅を眺めながら、私も一緒に夕食をとる。夫が遅い日にはこれも恒例のことだった。

 今日はビールはなし。仕事上がりのビールはいつでも最高の微笑みを私にくれるけれど、今晩は気を張ってなきゃならないのだ。

 だってこれから、また一仕事────────









[ 7/10 ]


[目次へ]

[しおりを挟む]





×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -