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「しゃ・・・借金です。僕は・・・その・・・」

「借金!?借金があるの、新井君?」

 歌手が叫ぶ。それは驚いているというより絶望的な表現で、もしかしたらこの青年は同じような問題で彼女に迷惑をかけたことがあるのではないだろうか、と思うほどだった。

 滝本さんがまた歌手をマネージャーからゆっくりと引き離す。桑谷さんが首を傾げた。

「それで?」

 マネージャーの新井さんはもごもごと口の中で言葉を言いかけては消して、それでも何とか言った。

「ぼ、僕は、お酒にのまれるんです。それで、一度詐欺にひっかかったこともあって・・・今度のは、また酔っている時に保証人の判子を押してしまって─────」

「いくらですか?」

「え?」

 滝本さんの質問に、新井さんは怪訝な顔した。それから気まずい表情でぼそぼそと答える。

「・・・800万です」

「新井君!!」

 歌手が怒髪天きたって顔で怒鳴った。彼はびくっと体を縮こませる。

 あらまあ、だわ。私はため息をついた。お酒が好きで泥酔し、その間に詐欺にあって借金を作らされたってことなんだろう。よくあるけど、何回もひっかかるのはバカに違いない。

 同情できないわ。そこにいる全員がそう思っていたようだった。

 青ざめた顔で塞ぎこんでしまった新井さんに掴みかかろうとする歌手を自分の体で押しとめたまま、滝本さんが振り向いて、歌手に静かに聞いた。

「それで、あなたは?」

「はい!?」

 苦笑したけれど、眼鏡の奥の瞳は相変わらず細めたまま。実に柔和で読めない表情のまま、滝本さんが彼女に言った。

「あなたにも、何かあるはずです。でなければわざわざ危険を増やして巻き込みはしない。最近身辺で何か変わったことはありませんでしたか?」

 歌手がぴたっと動きを止めた。まだマネージャーを襲おうとしているような凶暴な顔をしていたけれど、一応真剣に考え出したらしい。

 そして、ぱっと眉間の皺をといた。

「・・・あの」

「はい、どうぞ。細かいことでも、実は大事なことという場合が多いんですよ」

 躊躇したのを滝本さんにそういわれ、歌手は頷いた。

「・・・ストーカーがいたんです。ですが、5日くらい前からいなくなりました」

 桑谷さんの隣で、飯田さんが微かに頷いたのが視界に入った。誉田さんはぽかんとした顔。桑谷さんは飄々とした表情のままで新井さんの肩を叩いている。

 滝本さんが首を傾げた。

「いなくなった?あなたについていたストーカーが?・・・それはどうして判りましたか?」

 歌手のミレイさんは少し後ろに下がって深呼吸をした。眉間に皺を寄せて考え込むような表情をしている。

「その男の人は私から隠れようとはしていなかったんです。露骨についてくる。姿を見せたままの男。だけど、手は出されないし郵便物を開けられたりなどの迷惑行為はありませんでした。最初は気味が悪くて警察にも相談しましたけれど、そのうちに慣れてしまって・・・」

「むしろ、心地よくなった?」

 滝本の言葉に、少しばつが悪そうな顔で、歌手は頷いた。

「見守られているような・・・気分に。だけど、先週からその人の姿が消えました。うまく隠れているとは思いません。私も一生懸命探しましたので」

 ふむ、と滝本さんが頷いた。新井さんもそれは知っているようだった。とくに驚きもせずに歌手の話を聞いている。私はヒールが疲れてきていて黙って椅子に座らせてもらう。その間に、湯浅さんがコップを洗って戻ってきた。

「あなたをつけていた、相手は誰か判っているんですか?」

 滝本の質問に、マネージャーの新井さんがあのーと声を出す。

「ミレイさんに相談されて、僕は近づいたことがあるんです。ストーカーに気がついた最初の方に。迷惑だからやめろっていうために」

 部屋の中の全員が新井さんを見た。歌手はまだ考え込むような顔をしている。

「だけど、すぐに逃げられました。僕がいくと男は笑って、大丈夫、手は出さないよって言って走っていきました。それで警察に相談にいったんです。北川ミレイには小さいけれどファンクラブもありますから、熱心なファンの一人かと思ったんですが」

 皆が一斉に考え出したように、しばしの静寂がその場を支配した。滝本さんは腕を組んで歌手とマネージャーを見ていたけれど、その内に頷いた。

「関係がある、と思います。だけどどうにも情報が少なすぎる。うちで調査することは出来ますが、それも依頼があってからの話ですし、今現在あなた達が自分が危険な立場にいるという認識がないのでどうしようもない。まあ、とにかく────────」

 ぐるっと部屋中の人間を見回した。

「今夜はここまでにしましょう。あなた方はホテルまで送ります。必要だと思われたら警察に行くがいいと思いますが、蜘蛛──────あなた達に睡眠薬を飲ませたあの男が今晩さらに何かするとは考え難いので、しばらくは身辺に気をつけて下さい。いいですか?」

 二人は暗い顔で頷いた。

 滝本さんは飯田さんにホテルへの送りを淡々と指示すると、マネージャーに体を向けてはっきりと言った。

「断酒することをすすめます。あなたは自分の人生を無益に複雑にする酒を飲むべきではない。800万なら働けばさほどかからず返せる金額でしょう。社会勉強代を支払ってこれで面倒とはさよならしよう、そう強く思うべきですよ」

 彼は、真っ青な顔で滝本さんを見ていた。

 ドアへと誘導する前に、滝本さんはいつもの柔和で謎めいた微笑を浮かべたままで、マネージャーに更に近寄る。そして、彼の耳元でゆっくりと囁いた。

「・・・でないと、金だけじゃなく、今度は命を奪われますよ」

 新井さんは目をぎゅっと閉じて、体を固めて立っている。桑谷さんが滝本さんに近づいて、とん、と肩を押した。

「おい英男、あんまり脅すな。今日は十分痛い目にあってんだ。これから気をつければいいんだよ。ほら、戻らないと、会場へ。まだマネージャーとしての仕事もあるんでしょ?」

「う、あ・・・はい」

 心配そうに覗き込む歌手に頷いてみせて、新井さんはぎこちなく事務所内の人間に頭を下げる。それから飯田さんに誘導されて、事務所を出て行った。

「あーあ、何だかなあ!ですねえ〜!!ついでにウチに仕事くれたらいいのにさ、トラブルが心配なら」

 誉田さんがそういって、腕をぐるんぐるんと回している。湯浅さんが戸締りの準備をして回る中、お疲れ様でしたと声をかけて、私達も出ることにした。

「彰人」

 うしろから、滝本さんが夫を呼び止める。

 ん?と振り返った彼に、滝本さんは手のひらを上にみせてゆっくりと振った。

「・・・んだよ」

「今夜の分の請求だ。ガソリン代、人件費、それから相談料」

 忘れてなかったのか、そう小さく呟いて、桑谷さんは嫌そうに言った。

「知人価格で頼む」

「じゃ、3倍だな」

「ああ!?」

 滝本さんの言葉に逆上した桑谷さんが噛み付くのを背中に聞きながら、私は疲れた足で階段を降りた。

 あーあ・・・なんて夜だったのかしら。本当、雅坊を実家泊まりにしていてよかったわ。首をまわすとコキコキと音がなる。

 倒れたりで足が痛かった。帰ってお風呂に入り、マッサージをしなくっちゃあ──────────


 ところが、そうは問屋がおろさなかったのだ。

 私達は飯田さんの車とは別に自宅方面へと車をまわし、契約している駐車場からぶらぶらと歩いて帰る途中だった。

 空にはちらほらと星空。風はあまりなく、隣を歩いている桑谷さんがするりと手を握ってくる。あら、どうしたの───────私は顔を上げて、斜め上にある彼の顔を見ようとして、ハッとした。

 そこにあったのは微笑している夫の和やかな顔ではなく、かなり険しい表情だったからだ。

「どう───────」

「尾けられてる」

 言いかけた言葉は、彼の低くて静かな呟きにかき消される。私は驚いて、一瞬足を止めてしまった。

「歩け、まり。そのままのスピードで」

 繋いだ手に感じる引力。私は夜の闇に表情を隠してすぐに歩き始めた。・・・誰かに尾行されている?全く気がつかなかったけど・・・。彼はいつ、気がついたのだろうか。

「・・・どうして判るの?」

 小さくした声で隣にそう聞くと、夫はぶっきらぼうに返答した。

「足音が被っている。それは、意識しないと出来ないことだ」

 ・・・へーえ?

 思わず眉毛を上げてしまった。被ってる?足音が?・・・何のこったい、そりゃ。

 だけど言われてから注意深く耳に意識を集中させると、確かに、私のヒール音にかぶさって足音が聞こえるようだった。なぜそれが普通の状態でわかるのよ、あなたは。

「右だ。そこに入って。多分、あの蜘蛛野郎だろう」

 桑谷さんがそう言って、私達は手を繋いだままで自宅から離れた路地の暗がりに入っていく。ここを抜ければ別の駐車場で、行き止りだと知っていた。

 ・・・ああ、何てことなの。今晩はまだ終わらないってことね─────────

 私が歩くのを停めると、暗闇の中の音もぴたりと止まった。そこには外灯の明りはとどかず、ヤツの姿は見えない。

 だけど、私もそうだろうと思っていた。私達を尾けているとしたら、あの何でも屋だろうって。

「おい、お前は尾行が下手なんだな」

 駐車場に入って真ん中ほどで立ち止まった桑谷さんが、暗闇に向かってそう言いはなった。

 私は黙って闇の中を見つめる。そのうちに、暗がりの中から何かがゆらりと動くような気配がした。

 パタンと、さっきよりはハッキリとした足音が聞こえる。

 駐車場に3つしかない外灯に照らされて、足首から姿が浮かび上がる。それは運動靴、それから黒いスラックスとうつして、やがて数時間前に目の前にいた男の全身へと変わった。

「・・・全く、あんたらは邪魔ばっかりしてくれたよな」

 ヤツが喋った。その声は淡々としていて、事実だけを述べている感じだった。

 蜘蛛だと呼ばれている男は面白くなさそうな表情をして、私たちを交互に眺めている。荷物はもっておらず、両手はだらりと体の横にたらしていて、緊張などはしていないようだった。

 怒りの気配もない。それはそれで、十分不気味だった。

「ご苦労だなあ、お前。わざわざここまでついてきたのか」

 桑谷さんが呆れた声でそう言うと、蜘蛛がふんと鼻をならした。

「商売の邪魔をされたままじゃあ帰れないだろ。あんたら、どこに隠したんだ、あの女?」

「あらつまり、歌手が目的だったのね」

「・・・」

 私が思わず零した言葉に、ヤツは更に表情を消して黙った。

 冷静だと思ってたのは私の間違いね、とこっそり心の中で思う。

 ヤツは、怒りのあまり冷静さを失っているみたいだわ。それかただ単に・・・。私は夜の駐車場につったつ男を眺めて思った。

 ただ単に、バカなのかもね。簡単に情報を漏らすとは。

 隣から夫が私の握った手に力を込める。

「まり、挑発するのはやめてくれ」

 私はうっとうしいその手を払ってから夫を見上げて言った。

「挑発なんてしてないでしょ?挑発するならもっと判るようにやってるわよ。あからさまに見下して、鼻で嗤うとか。だってこの人がバカよろしく勝手に情報を喋るから・・・」

「ば、バカだと?」

 呆れたような蜘蛛の声がして、桑谷さんがイライラと舌打をする。

「ちょっとお前は黙っててくれ、先にウチの嫁さんと会議中だ」

「会議って何よ。それに私は妻であって嫁じゃないわ。もうさっさと帰りましょう、こんなバカ野郎放置して」

「だからまり!頼むから────」

「挑発じゃないでしょ!バカはバカで事実なの!」

「・・・お前たちのことは調べられるぞ。このままで終われると思うなよ」

 低い低い、そしてざらりとした蜘蛛の声が聞こえた。パッとヤツを見ると、目を細めてこちらをじっと見ている。何て判りやすい威嚇!私はちょっと驚いたけれど、桑谷さんはあっさりとその言葉を片手で払いのける。

「ああ、調べるのは簡単だ。何でもやってみればいいだろう。だけど全く同じことがお前にも言えると覚えといてくれ」

「潰してやる」

 蜘蛛がぽつりと呟いた。隣の桑谷さんの体が緊張したのを感じ取った。きっと、同じことを考えているはずだ。つまり、私達の急所、雅坊のことを。

 さっきまではなかった感情が私にも生まれつつあった。

 焦りや後悔などでは勿論ない、これは、メラメラと燃えるような、怒りだ。

 私はヤツを見据えたままで、一語一語ハッキリと区切って言った。

「やってみなさいこのクソ野郎。その前に、こっちがあんたを潰してやるわ。自分の仕事が自分のへまで失敗したからって、一般人を巻き込んで恨みをぶつけるようや間抜けな野郎に、私が潰されると思ってるの?」

 蜘蛛が顔を歪めて何かを発言しようとした。だけどその前に、ぶっすーとした桑谷さんの声が入り込んでくる。

「私達、だ。私達」

 簡単に目をぐるんと回してやった。つい言葉が出ちゃっただけじゃないの!

「あら失礼」

「わざと間違えただろう、今」

「そんな信頼されると照れるわね」

「どう捉えたら信頼になるんだ!」

 パタパタと靴音が聞こえる。夫婦で言い合いをしながら同時に振り向くと、どうやら蜘蛛野郎はうんざりしているようだった。片足を地面にうちつけて、私達の興味関心を取り戻そうとしたらしい。

「あんたら仲がいいのか悪いのか判らない夫婦だな。なんつーか、締まらない」

「「うるせえな」」

 夫婦ではもってしまった。

 蜘蛛が真顔のままで、ふーん、と顎をかく。

「・・・奇妙なやつらだ、あんた達。やっぱりちょっと調べさせて貰うよ。それで、これ以上こっちの邪魔をするようなら考えさせて貰う。このままでは商売上がったりだ」

 言うだけ言うと、ヤツはくるりと背中を向けた。それから全く急ぎもせずに暗闇へと消えていった。

 足音もなかった。

 ・・・何でも屋って、ほんと不気味だわ。

 私は腕を組んで、やつが消えた駐車場のくらがりを見詰める。

 隣から大きなため息が聞こえた。

「・・・だから放置しようぜって、言ったんだよ・・・」

 彼は、激しく数時間前の行動を悔やんでいるようだった。






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