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「痛っ!」

「ちょっと、あんた誰よ。何で人の車に乗ってきて勝手に運転してるの。停めなさいよ」

 眉間に皺を寄せた男は、ミラー越しではなく、そのままで後を振り返って私を見た。若いかも、と思ったのは訂正しよう。きっと私よりも年上だ。

 男は髪の毛もボサボサで、未だに青ざめて汗をかいているようだった。目の下のクマで余計に老けて見える。彼は私をしっかり見たあとで、前に向き直って深くて重いため息をついた。

「・・・全くついてないぜ。何だってこんな車を・・・」

「だから停めろって言ってんのよ!」

 足を思いっきり上げて、ガンガンと蹴りを入れる。

「やめっ・・止めろよ!危ないだろ!ちょっと隣の駅まで乗りたいだけなんだよっ!すぐに降りるから待てって!」

「は!?」

 私はムカついた。だってなーにが隣の駅まで、だよ!タクシーじゃないっつーのよ。

「バカ言ってんじゃないわよ!どこの人間が駅に行きたいからって人の車パクってんの!今、すぐ、降りなさい!」

「うー・・・ふっぎゃああああああ〜!!」

 言い合いに驚いたらしい雅洋が、眠気の不機嫌も手伝ってまた盛大に泣き出す。私は慌てて抱きしめて背中をポンポンと叩いた。

「あー、ごめんごめん声が大きかったわね〜。ほら、大丈夫よ、お母さんが怒ってるのは雅にじゃないんだから」

 よしよしとあやす。もうすぐ2歳で、赤ちゃんだと思っていても走るし喋るしよく聞いている。小さい子供なりに色んなことが判っているのだと、親になってから知るようになった。私は雅洋を覗き込んでニッコリと笑う。

 この子に罪はなし。


 私が赤ん坊をあやしていると、前でハンドルを握ったバカ男はガシガシと片手で頭を引っかいていた。

「運が悪かったって諦めてくれ!俺が無事に逃げれるまで、ちょっとあんたらには付き合って貰わなきゃならない」

「は?」

 私は漸く泣きやんだ雅坊の為に、マザーバッグから赤ちゃん用せんべいを出して口に突っ込んでいたところだった。だけど、今、何か聞こえたわよ。

「無事に、逃げる?―――――――何から?」

 え、あんた一体何したの!?声がかなり低くなってしまった。こんなの、運が悪いじゃ片付けられないでしょ、全く!

 またちらりとバックミラーで私を見てから、顔色の悪いバカ男はむすっとして言った。

「・・・コンビニ強盗」

「あ?」

「さっきのコンビニで、強盗してきたんだ。そしたら駐車場に人がいないのにエンジンかけっぱなしの車があったから、逃げるように乗ったってことだよ!」

 え、真面目に言ってる、このオッサン?

 私はマジマジと運転席の見知らぬ男を見詰めた。雅洋は子供用せんべいを喜んで食べていて、母親が仰天しているのには気付いてないようだった。

「・・・コンビニ強盗?」

「そう」

「それって、レジに金を出せ!といかいう、あのマヌケでチンケな強盗のこと?」

「・・・そうだよ」

「―――――――――」


 まさか。それが最初に考えた言葉だった。

 だって、まさか、でしょ。そんなこと今時する人がいるんだ。しかも、右も左も判らないような中学生がやるんじゃない、立派に成人した男がそーんなちゃっちい強盗を!?この年末のくそ忙しい時に!?そう思ったんだった。

 私の沈黙を、彼は私が恐怖を覚えた、と解釈したらしかった。いきなり運転席で言い訳を始める。

「大丈夫だ、誰も傷つけてない!金を貰って出てきたら、この車があったから―――――」

「バッカじゃないの!」

 たまらずに、吐き捨てるようにいってやった。運転席の男は口をあけたままで話を止める。

「大の男がこの忙しい年末に、なーにバカなことやってんのよ!それだったらそれで、自分の足でにげりゃあいいでしょうが。あんた判ってるの?私と子供を巻き込んだことで、ただのコンビニ強盗が、今や立派な誘拐監禁事件もプラスされてるのよ!」

「え」

 一言呟いて、ヤツは更に顔色を悪くする。

「いや・・・だって、ちょっと遠い駅まで乗せてもらうだけで・・・」

「勝手に運転してるじゃないのよ!それに遠い駅って何よ、隣町ってのはどこいったの!」

 後部座席で距離が開いているのにある程度の安心を得て、私はぎゃんぎゃん喚く。ヤツはそれで心証を悪くしたようだったけど、ムカついていたから構わずに言ってやった。今の感じだと、この強盗犯は肝っ玉の小さいやつらしいから、言いまくれば一人で逃げてくれるかも――――――――――


「コンビニのカメラにうつってるでしょうから、きっと今頃警察がこの車も割り出してるわ。そしたら私の家族に電話がいって、それから無理やり拉致られたって判るでしょう。今ここで停めて降りてくれたら、私は何も知らずに済むのよ。一人で頑張って逃げて頂戴、それは邪魔しないから」

 むしろそれなら応援もしてあげるわよ!心の中で乱暴に付け足した。この車を停めて、すぐに一人で逃げておくれ。私達はここで是非ともお別れしたい。

 だだーっと言いまくった。どうやら私はまたやっかいなことに巻き込まれてしまったらしい。だけど、今度は息子まで一緒なのだ。どうにかして、更に物事が進む前に止めてもらわなければ。

 でないと――――――――――・・・・・桑谷さんが、恐ろしいことになるに違いない。

 ただそこに立っているだけで周囲の人間を緊張させる迫力のある夫が、怒った時の迫力は半端がないのだ。背中に燃盛る炎の映像まで見えるほどで、冷や汗も脂汗も瞬時に大量生産される。あのいつもは冷静な黒目を細めてじっと見詰める、それだけで、ああ、死んだかもと思ってしまうほどだった。

 いやいやいやいやいや・・・平和な年末年始を迎えたいのよ、私は!そんなのごめんよ、仕事も忙しいこの時に、どうしてプライベートまでこんな・・・。

 私が言いたいことだけ言ってつらつら考えことをしている間、犯人も色々と考えたようだった。さっきよりは確実に色の戻った顔色で、ハッキリと言う。

「まだ検問もしていないなら、今のうちってことだよな。どうせだから逃げるまで付き合ってもらうぜ。赤ん坊だけだったら無理だったけど、運よく母親も一緒なわけだしな」

 ・・・何だと、バカ野郎。

 勿論、私は盛大なブーイングをかまそうとお腹に力を入れた。

 だけど、出来なかったのだ。

 なぜなら運転席の男がハンドルをもちながらごそごそとやって、背中から出したのは見事な出刃包丁、それを、よりによってハッキリとこちらに向けたのだ。

 ・・・今それ、あんた一体どこから出した!?私は瞬時に緊張したけど、考えたのはそんなことだった。

 ベビーシートに雅洋を寝かせていたなら、危ない位置だった、と思った。私は息子を抱っこしていたので、包丁はすぐには届かない距離だ。だけどこの狭い車の中で、大きい鞄とベビーシートに囲まれた私の動ける範囲はほとんどないと言っていい。

 つまり、逃げられない。腕には赤ん坊。・・・・畜生、何てことなのよ!

「・・・何してるか判ってるの?」

 落ち着いた声で一応聞いてみる。自慢にはならないが、私は今までの人生で既に3回ほど刃物を向けられた経験がある。そのどれもが運よく腕を掠る程度で命は無事だったし、その時は恐怖を感じる暇がなく、ただ腹が立っただけだった。

 だけど今は、守らねばならないものが腕の中にいる。自分一人ではない、それが、突如として恐怖心を沸き起こらせた。

 警察が動くという話から返って冷静になったらしい運転席のバカ野郎は、前をチラチラと見ながらついでに私を威嚇した。

「勿論判ってる。もうついでだから、ちゃんとした犯人になろうって思ったんだよ。あんたらには申し訳ないけど、込み入ってくるだろうからちょっと黙ってて欲しいんだ。こっちには凶器がある、それをよーく覚えておいてくれ」


 舌打を堪えるので精一杯だった。





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