・かくも平凡な毎日



「今年はどうするんだ?」

 夕食後、彼が改まって聞いて来た言葉の意味が判らなくて、私は首を捻った。

「何が――――――どうする、なの?」

 今晩は彼も私も勤めている百貨店の勤務が早番で、久しぶりに家族で揃って晩ご飯が食べられる日だったのだ。だからデパ地下を出てから駆け足で着替え、保育園までダッシュしたあと、息子と揃ってスーパーに行って色々買い込んだために普段より豪華になった夕食の後だった。

 故に、いつもより疲れていたのだ。だから私は多少むっとして聞き返す。大体、日本語のここが一番曖昧でいけないと思うのよ!主語をつけなさいよ、主語を!

 夕食の後片付けをしようと台所に立つ妻が不機嫌なのに気付いて、彼はちらりとこちらを見た。

 一重の黒い瞳にはいつもの冷静な光が。その下のごつごつした鼻と、薄い唇が皮肉そうにきゅっと上がる。そんな顔をする時、彼、桑谷彰人の普段の近寄りがたいオーラはなりをひそめ、やたらと無邪気な子供のような笑顔になるのだ。

 桑谷彰人、36歳。履歴書を書かせたら中々変わった経歴が連なる過去の持ち主で、見る者によっては整っているともブ男とも言われる濃い外見をしている。

 身長も高く全身是「男」!と示したようなガタイをしているその男の妻である私は、桑谷まり。自分で言うのもなんだが、酒飲みでドライな性格をしている。未だに妻ですという身分に慣れないけれど、一応結婚して2年が経ち、一人息子の雅洋はもうすぐ2歳になる冬を過ごしている。

 独身の時にあらゆる事がやりたい放題だった男と、独身の時には堅実でどちらかというと不幸な恋愛を長年してきた女は、実にドラマチックな血も涙も絡みまくった出会いをし、多少の秘密と壁を共有したままで夫婦となったのだ。

 子供が生まれても相変わらず彼は私一筋で、相変わらず私はいつでも彼を失えるような心構えのままだった。それはそれで確かに素晴らしい毎日ではある。

 少なくとも、悪魔みたいな男とデートを繰り返した過去の私よりは、満ち足りていて幸せなのだから。


 彼は食卓の椅子に寛いで座り、にっこりと大きく笑った。

「年末年始の話だよ。俺はいつものように通しで入るから正月はなしだけど、君は休めるんなら、雅と沖縄に帰るのか?」

 ああ。私はようやく彼の言わんとすることが判って、ぽん、と手を叩いた。

「沖縄ねえ、どうしようか・・・。うーん」

 子供が生まれてから出戻ったデパ地下のチョコレート屋さんも年末年始は勿論忙しい。だけども、子供が小さいからとパートで入っているので、店長や他の古参のパートさん達が休みを優先でとってもいいよ〜って言ってくださっているのだ。

 私の現時点での実家は沖縄なので、息子と里帰りをするのか、と彼は聞いているらしい。

 ちなみに彼は同じ百貨店のスポーツ用品売り場の責任者をしている。出入りの専門店の従業員である私とは違って百貨店の社員なので、年末年始は大繁忙期にて、勿論休みなどない。今年は息子がいるので、私は休みを貰っても彼はやはり仕事なのだった。

 つまり、年末年始は母子で過ごすことになるってわけで――――――――――――

 うーん、と私は考え込んだ。

「どっちでもいいんだけどね、あなたのお母さんと一緒に過ごすのでもいいし」

 彼の母親は隣町に住んでいる。母子家庭で育った彼は成人してから母親とは疎遠になったらしく、結婚の挨拶をしにいくのが久しぶりの対面だったほどだ。それで、孫が生まれてからは付き合いも復活し、私もかなりよくしてもらっている。

 そりゃまあ、近いに越したことはないわけで・・・。沖縄っていっても両親が退職後に移住した家なので、私が育ったわけではないし。やっぱりあっちに戻るなら、2泊3日くらいにはなるし・・・。それだけ休みを貰えるかは、他のパートさん達と要相談だしな。

 シンクに腰掛けてつらつらと考えていると、そこで苦笑した彼が言った。

「前回沖縄にいった時は誘拐監禁騒動も起きたし、また何か起こるかもなら近場にいてくれたほうが俺は助かるんだけどねえ」

 ふん。鼻で笑ってやる。だって、確かにアチコチで事件に巻き込まれてはいるけど、それの半分は彼絡みだったのだから私の責任ではない。

 それに、と意地悪く微笑んで私は言ってやる。

「何が起きたって、ちゃんと自分で乗り切っているでしょ?それに関して文句言わせないわよ」

 腕を組む私を嫌そうにちらりと見て、彼は手で顔をこすった。

「・・・乗り切る。ものは言いようだな。巻き込まれた上に現場を混乱させる、というのもある意味では事実だぞ」

「とにかく、前回の沖縄の事件の時は、あなたの手は借りなかったわよ」

 タコの手は借りたけど、と心の中で付け加える。タコをひっつかんだのなんて人生で初めての出来事だったから、忘れようもないぜ。

 彼が目を細めた。

「そうだった。俺はこっちの用事を全部放り出して君のために沖縄まですっとんで行ったのに、会うなり君は帰れと言ったんだったな。あれは俺が今までに貰った優しい言葉の中でもピカ一だったっけ」

「そうそう、あなたは元パートナーの失踪事件もほったらかしで、妻と約束した子供の世話もほったらかしだったのよねえ」

「全部君を優先した結果だろ?」

「頼んでないでしょうがよ」

「優しさを理解しないとは」

「そういうのを押し付けって言うのよ」

 彼が唸った。

 勿論私も唸る。


 腕を組んで不機嫌な顔で、夫婦で威嚇しあっていた。だけどその内にバカバカしくなってやめたのだ。折角久しぶりに家族3人で晩ご飯を食べた日に、何で嫌味の応酬をしているのよ、と気付いたのだ。

「ま、とにかく」

 私は空気を変えようと手をヒラヒラ振った。

「今年は沖縄には帰らないことにするわ。あなたのお母さんに予定を聞いて、一緒に過ごそうかな」

「了解」

 彼は肩をすくめただけだった。そしてテレビを消して、和室でプレイマットに転がっている息子の相手をしにいってしまう。私はため息をついてシンクに向き直った。


 ・・・そうか、もう年末のこと考えなきゃなのか。



 20代も後半になれば、毎日はするすると音もなく過ぎていき、1年の時間が高校生の頃の3分の1くらいに感じられたものだったけど、それは結婚して出産すると更に加速したような気がする。

 もう、びゅーんびゅんと過ぎていくのだ。毎日朝起きて、子供の準備をして保育園に連れて行き、職場までダッシュして着替えてから売り場に立ち、仕事の話や噂話、販売をして夕方までを過ごし、それからまた着替えて保育園までダッシュする。

 はーい、桑谷さんセーフでーす、などと先生に言われながら肩で息をして息子を迎えに行き、手を引いてゆっくりと家に帰る。ご飯の支度、お風呂の準備をして母子二人で夜を過ごす。子供が寝てから夫が帰ってきて、という平凡な、いたって普通な毎日は、いつでも一生懸命だけれどもいつも同じなので、スピードがとても速いように感じていた。

 あれ?もう11月もう後半?って思ったのだった。

 それが、その、晩ご飯の後に年末のことについて夫と話した時なのだ。

 それからまたどどーっと同じような日々は駆け足で過ぎていって、次に気がついた時にはクリスマスが終わっていた。

 来年の1月には2歳になる雅洋を囲んでクリスマス会なるものを家族でしたのは実はクリスマスが終わって2日経った27日の事だった。だって、繁忙期だったのだもの!!

 この時期の百貨店という外見華やかな職場は、文字通りに戦場と変わる。一足バックヤードに入れば大量の納品物と走り回る販売員、それと出入りの業者。積み上げられていく配送物に間違いがないようにと目を血走らせている担当者。この時期だけは喫煙者も増え、バックヤードの自動販売機ではずらりと並んだ缶コーヒーが売り切れになる。

 メーカーですら、それなのだ。それを統括している百貨店側の社員の忙しさといったらないに違いない。

「いや、地下に比べたら楽勝だぜー」

 などと夫の彰人は笑うが、それでもその27日の午後の半休が、12月後半で彼が取れる唯一の休みだったのだから。

 彼は3年ほど地下の食品で、魚屋の担当をしていた。その時は、クリスマスや歳暮の嵐は関係なかったけど、年末年始では死にそうに忙しかったらしい。だけど、今のスポーツ用品店では、クリスマスこそ忙しいのだ。早朝から出て夜も雅洋が寝てから帰ってくる生活で、同じく地下のチョコレート屋で歳暮とクリスマスの超繁忙期に殺されかかっていた私は毎晩何とかしてベッドに潜り込む、という状態だったのだ。

 夢の中でまで包装したりしていた。

 お釣りを間違えてお客様に謝罪するシーンまで見たりしていた。

 それで、朝、げんなりしながら目が覚めて、ああ、夢でよかった、などと思うのだ。それくらいには疲れていたし、繁忙期に追い詰められていた。

 だから勿論彼と抱き合うなんてなかったし、色んな意味で枯渇した女になっていたのだけれど―――――――――



「うーん、何か、感動だな」

 そう言いながら、彼がごつごつした長い指を私の体に這わせている。

 手を叩いて喜ぶ雅洋を囲んで小さなクリスマスパーティーを遅ればせながらした後で、彼は息子にプロレスをしかけ、クタクタに疲れさせてすぐに寝かしつけた。

 その後で、当然のように私は襲われた、というわけで。


 まだ台所に立ってお皿を洗っていた私を背後から抱きしめて、好き勝手に触りまくったのだ。

「こら、ちょっと!まだ片付けが終わってないわよ」

 って、勿論、私はブーイングを盛大にした。だけど彼には力では敵わないし、あっさりと服の中に侵入されてブラを外されたときには、私の呼吸も既に上がってしまっていたのだ。

「声、出しちゃダメだろう。雅が起きると止めなきゃなんない」

 そう言いながら、声が出るようにわざわざ煽っているのが判る指使いで私を攻撃する。

 炊事の手袋を外してから、私は彼の腕の中でくるりと回転した。そして彼の後頭部に手を回し、自分から唇を押し付けて深いキスをし始める。だってやられるばかりなんて嫌なんですもの。欲しいものは、いつでもハッキリしている。そして今欲しいものは彼の唇なのだ。

 ああ、そうそう・・・私、これ、好きだったんだ、そう思いながら、無遠慮に好き勝手なキスをしまくった。

 ククク・・・と彼が小さく笑う。台所で立ったままで、するすると私の服を脱がせながら、言った。

「働きすぎてボロボロの人形みたいだったよな。・・・久々に・・・人間に、戻ろうぜ」

「人間ていうより・・・・動物まで戻るって、感じ、ね・・・」

 上がる呼吸の合間にこたえると、彼はふっと顔を離して私を見た。その黒い瞳の中には勢いを増した欲望の光。それが悪戯っ子のようにキラキラと揺らめいている。

「動物?・・・俺がそこまで戻ったら、こんな優しくなんて出来ねーぞ」

 首筋に噛み付いて、彼がガッチリした腕で私を閉じ込める。

 つい、笑顔になってうふふと笑ってしまう。

 ああ、やっぱり私、この男が好きなんだわ、そう思って。

「――――――でも、ねえ」

「うん?」

「お風呂に入りたい」

 ヒョイ、と彼が私を覗き込んだ。本当に?そう、黒い瞳が言っている。今中止して大丈夫?そう言いたいのだろう。

 自分でも既に瞳や体のアチコチが潤んでしまっているのに気がついていた。だけど、これは譲らないわよ、そう思ってぐっと睨みつける。

「・・・風呂?」

「そう、お風呂」

 だって体中、デパ地下の埃だらけだし、汗もかいてたし、やっぱりそこに口付けされるのは嫌なのだ。彼に抱かれるときはいつだっていい匂いでいたいし、綺麗な肌でいたい。それにかなり久しぶりだからきっとアレは激しいだろうし、そうなると元々疲れきっている体ではすぐに寝てしまうに違いない。明日の朝起きて、枕に化粧の魚拓なんて嫌だ。

 私の目に頑とした意思を感じ取ったらしい、彼は一度ため息をついたけど、思いなおしたようでにやりと笑った。

「いい案だ、風呂に入ろう」

「は?」

「一緒に入れば全部済む。うーん、確かにいい案だ!声も我慢しなくて済むぞー」

「え?いやいや、私は一人でゆっくりと―――――――」

「却下。待つ俺が可哀想だから。俺も汚れを落とす必要があるわけだしな」

「え?ちょっと――――――」

「綺麗になるし、まりも食えるし、疲れも取れる。一石三鳥だ、素晴らしい!」

「ハロー、ハニー!?」

「行こう行こうすぐ行こう」

 久しぶりすぎた上にもうしっかりと発熱していた夫は、問答無用で私を浴室に運んだ。

 そして、大人が二人で入るには少しばかり狭い浴室で、気が済むまで私を襲ったのだ。


 
 満足した顔で隣で眠る彼の頭を手で撫でる。

 私も体中から力がぬけて疲れきってはいたのだけれど、月明かりのせいか何故か目が覚めてしまったのだ。

 まあいいや。彼の頭をなでながら一人で微笑む。

 明日は私は休みの日、雅も保育園が年末年始で終わってしまったので、お正月の買い物に二人で出ようと思っていた。

 駐車場のない我が家がこの間車を中古で手にいれて、少し離れたところに停めている。でもそのお陰で子供連れの買い物も楽になったのだ。だから明日は息子と二人で買い物に行って・・・・。

 頭の中で予定を組み立てていたら、眠気がとろとろとやってきた。

 私もベッドの中深くに潜り込み、目を閉じる。


 彼が無意識に私の手を捜して手を動かしたのを、薄れ行く意識の中で感じていた。





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