1、悪魔に微笑む。



 自分の趣味で選んでいたからと捨てなかったカーテンの隙間から、朝日が差し込んで瞼を刺した。

 床に直に敷いた布団の中でううーんと伸びをする。・・・体が痛い。マットレスも敷かずに薄い布団だけだと、大して脂肪のついていない体にはキツイものがあった。

「入院できっと筋力も落ちてるのよね・・・」

 思い出す度にむかつく。眉間に皺を寄せた状態で布団から起き上がった。

 昨日丹念に見た通販雑誌で既に新しい布団セットに〇をつけてある。

 この布団であのバカ野郎に何度も抱かれた。それでもこれを捨てたら流石に眠れないからと仕方なく使用しているのだ。ベランダで親の敵並にぼこぼこ叩きまくって埃を出したけれど、一度抱いた嫌悪感はなかなか抜けてくれなかった。

 斎の匂いが染みこんでいる気がする・・・。

 いやいや、と一人で頭をぶんぶん振りまくる。そんなこと、ないない。ねーんだったらよ!

 簡単な朝食を取り、シャワーを浴びて、化粧をする。鏡の中の私は顔色もよく、ほんの2日前に自殺未遂から退院したばかりの女とは思えなかった。

「・・・とりあえず、超悲惨な女には見えないわよね」

 呟いて、全身を確認する。

 制服を貰うまでは白シャツに黒いエプロンと聞いているから、ダンボールの中からシャツとズボンを引っ張り出した。シャツにだけざっとアイロンをあてて皺を伸ばす。

 茶色の髪の毛はアップにする。どうぜ三角巾で隠れてしまうのだろうし、丁寧にまとめる必要はないかと思ったが、斎に会うかもしれないし、電車にも乗るのだからと綺麗にまとめた。


 よし、準備オーケー。

 掛け声を出して家を出る。

 今日の予定は、新しい仕事、帰ってから鍵の付け替え、部屋作り開始。

 その前にまず、悪魔と対面。


 百貨店で働く人用の店員出入り口で、福田店長と待ち合わせた。

「おはようございます、今日から宜しくね、小川さん」

 相変わらず素敵な笑顔の女性だった。朝日が彼女の黒髪にあたってキラキラと光っている。

 私もおはようございますと笑顔で言って、一緒に門から入る。ここが今日からの私の戦場なのだ。給料を稼ぎ、悪魔への仕返しをするための場所。

 各階の説明を受けながらロッカーまで行った。

「制服は明日には届くから」

 ニコニコして言う店長に笑顔で頷く。目的が復讐でも、私にお給料をくれる大事な会社だ。役にたつように努めなければ。

 売り場に行くと、本日の朝番である女性を紹介された。50代くらいのふくよかな女性だった。丸い目がくるくるとよく動いて可愛らしい人だった。

「大野です」

 笑顔で挨拶を交わし、商品の説明や売り場の紹介を受けた。

「右も左も判らない状態だろうから、今日はとにかく商品を覚えることを頑張ってね」

 大野さんの言葉にはいと返事をする。販売員は初めての経験だから、先輩の言葉は何一つ聞き逃さないようにしなければ。緊張しているのに気がついて肩をぐるぐると回しておいた。午前中一杯は、こんな状態だろうと小さくため息をつく。

 覚えることだらけの新人なのだ、仕方がない。

 ちらりと、自分の売り場の斜め前に位置する斎が勤めるクッキーの専門店を眺めた。まだ誰もいないあの2ケースの売り場で、守口斎という名前の悪魔が働いているのだ。

 今日は出勤するのだろうか。

 教えて貰うことを持参したメモに書いていきながら、私は鼓動が高鳴るのを感じた。

 この仕事になれたら―――――――

 はい、と返事をしながらメモに書いていく。その間にも頭の中では冷静に斎にしてやりたいあれやこれやの計画が浮かんでいた。

 ―――――――復讐の、開始だ。


 ゆっくりと、口元だけで微笑んだ。



 午前中一杯かかって、説明漬けだった。

 この業界のシフトや出入りの時間がまだ判らないが、昼の12時を過ぎても斎の姿は見かけなかったから、きっと今日は休みなのだろう。

 ならば、こちらに集中しなくては。

 仕事はさっさと覚えて周囲になじむべし、てのが長年の派遣生活で身につけた自分なりの規則だった。

 レジや接客は問題なかったが、初めてする包装には手こずった。大野さんが大体皆さん5日くらいはかかるから、大丈夫よと慰めてくれたけれど、ちっとも思い通りに動いてくれない自分の両手にイライラする。

 昼食に来た休憩室で大きく息をついた。

 まだ新しいこの百貨店は従業員の施設も綺麗で設備が整っている。首になったばかりの以前の会社では個人のロッカーもなく着替えはトイレだったし、食堂なんてのもなかったからこれは嬉しい驚きだった。

 レンジもあるし、お茶もタダ。よし、明日からはお弁当組になろうっと。いくら安い店員食堂でも、毎日ともなれば結構な出費だもんね。

 昼食を済ませて、考える。

 まず、私は何をしたいのか?しっかりとした目的を立てなければ、あの男の姿を見た瞬間に商品を山ほど投げつけてしまいそうだ。それはお店にも迷惑だし、第一格好悪い。

 ・・・・・お金、は、もういいか。あいつしか盗ることなんて出来ないが、管理が甘かった私にも責任はある。手切れ金のつもりで諦めよう。そこまで考えて、現在の口座残高を思い浮かべ、一人で首を振った。・・・・・いやいやいや、やっぱり搾り取れるんなら、貰いましょう。金持ちじゃないんだし、お金は大事よね、うん。

 そしてそして・・・。

 頭の中で斎のやたらと整った笑顔を思い出した。その綺麗な口から出てくる、仰天するほどの暴言。

 あれだ。あれに、私はひたすらボロボロになったのだ。

 バカ男が言った、数々の暴言を後悔させてやりたい。

 2年5ヶ月の付き合いの中で全部対等でなかったなんて認めるのが一番嫌だったのかもしれない。

 楽しいときだって、あったでしょう?と。

 私を好きだったことだって、あったでしょう?って。

 これだな、やっぱり私は、一言謝って欲しいのだ。そして女性を大事にしてほしい。女性は道具なんかではなく、好き勝手言える対象物なんかでもないってこと、ちゃんとした人間として扱ってほしいのだ。

 ・・・・ってことは。

 きっと今までバカになんかされたことがないだろう(女性には、だけど)あの男の、男としてのプライドを完膚なきまでに破壊する。

 今まさにあのバカ野郎の毒牙にかかりかけている女の人がいるはずだし、それを阻止する(私だけがカモだったわけはないと思う)。

 出来たら、仕事そのものを奪いとる(首になる痛みを思い知れってんだ)。

 これね、この4点。

 そして・・・・やっぱり、や〜っぱり後ろから近づいて階段の上で背中も押してみたい。手ではなく、足蹴りしてやりたい。するとヤツは階段を転がって落ちて・・・わはははは。

「――――――――」

 パン、と額を叩いていやいや、と首を振った。通りすがりの男性が変な顔をして私をちらりと見たのに気がついたので、ニヤニヤしていた顔を元に戻した。

 殺人はダメよ、まり、殺人は。

 アイツは一人くらい殺してそうだけど、それでも殺人はダメよ。逃げれる自信もないし。

 全てが終わった後、私が幸せになる為には不必要な罪は犯してはならない。あくまでも、最低な嫌がらせを延々と続けるくらいで止めておかないと。

 お茶を飲み干し、立ち上がった。

 方針が決まった。だからもう今日は斎のことは考えない。早く一人で売り場に立てるように全力で頑張ろう。

 ケータイを取り出し、工務店に電話する。

 そして夜に部屋の鍵を取り替えて貰う約束をした。



 夜。

 鍵を取り替えて貰った部屋の中を這いずり回って、メジャー片手に色んなサイズを測りまくっていた。

 そしてパソコンを立ち上げ、次から次へと注文する。5万円以内で納めなければ、来月の家賃が払えない。

 カーペット、布団一式、本棚、机、食器・・・。キーボードの上で忙しく指を動かして入力した。デザインはある程度妥協して、安さで選んだけど、しめて3万8900円也。

 良かった、これで今月も餓死はしなくて済みそう。

体を起こして、ほーっと息をついた。

 あとは明日の朝、使ってないブランドの鞄4点を売り払いに行けば多少の余裕も出来るだろう。斎好みのこの茶髪を黒く染めたい。

 音楽も鳴らさずテレビもつけず、しーんと静まり返った部屋の中で、ペタンと座り込んでいた。

「・・・・」

 何してるんだろう、私・・・・。ほとんどの家具を捨てた部屋で、憎たらしい元彼への復讐を企んだりして。

 そんな時間あったっけ?それよりさっさと結婚相手をみつけるべきじゃないの?もしくは正社員のちゃんとした仕事を?そして全部忘れて、平和に暮らすべきじゃあないの?


 一体いつから斎は変わってしまったんだろう。

 派遣先の出入りの営業だった斎に誘われて飲みにいった。美形に声をかけられたことが嬉しかったし、あの声で話しかけられたらそれだけで幸せだった筈が。

 段々、あたりがきつくなってきたのは付き合って半年くらいからかなあ・・。言葉に棘が出だして、私はどうしたらいいか判らずにオロオロしていた。それでもあいつからは別れの言葉は出なかったから、尽くそうと頑張ったんだ。努力すれば、また愛して貰えるかと。

 ・・・・それなのに。

 斎の言葉が蘇る。

『お前みたいなぼろ雑巾女に付き合ってやってるのは、家政婦が欲しかったからなんだよ』

『たいした体でもねーのに抱いてやったんだ』


 体がカッと熱くなった。

 本当のところ、ここ長い間抱かれていて感じた事がなかった。

 いつも苦痛で、早く終わらせようとその度に演技をしていた。

 アイツはいつも私が簡単にイクと思って満足していたらしく、「お前早えーよ、まだイクんじゃねぇ」と、あの美声で責め立てた。

 あまりさっさとフリを始めると相手は誤解した挙句興奮して余計に長くなると学んでからは、いつもの手順の中ごろから、などと冷静に考えもした。

 思えばその頃から、私は斎に疲れていたのだろう。

 体が触れ合うたびに泣きたくなった。感じることが出来なくて、自分が異常なのかと思いずんと落ち込んでいた。

 でも、好きじゃあなかったから、なんだな。もう心が拒否していて、一種の拒絶反応だったんだろうな。

 それにしたって二人であの行為を真剣に純粋に楽しんでいた頃だってあったのだ。あの綺麗な瞳を潤ませて、愛おしそうに私を見詰めていた時だってあったのだ。

 なのに。

 なのに。

 最後に投げつけられた言葉はあれだった。

 家政婦が欲しくて――――――――ボロ雑巾みたいな―――――――――

 あの言葉が、完全に私の情を吹き飛ばした。今までの少しだけでも確かに存在した、キラキラした時間が消え去ったのだ。

 あの悪魔を倒さなければ、私は二度と人を愛せないかもしれない。男性に全くの興味がなくなってしまうかもしれない。


 それは・・・・バカらしいことだわ。



 閉じていた目を開けた。


 やっぱり、アイツには詫びを入れさせなきゃ。




 二日目の今日は遅番の上に研修中ということで昼過ぎの出勤だったので、朝、開店と同時にブランド物を売りに行った。

 大して興味もなく、斎が買えというから買ったバック4点は、9万3千円に化けた。

 思い出も捨てられた上に現金まで手に入ったぜ〜!とウキウキしてその足で美容院に駆け込む。

 肩を越えるストレートの髪を顎のラインで揃えてもらって、色を暗めに変えた。

 前よりも落ち着いた印象になり、出来上がりに満足する。これで三角巾でも帽子でも髪をくくる必要もないし、肩こりも改善されるような気がする。

 軽くなった頭につい笑顔が出る。ああ、軽い。少しずつでも、私はこうやって笑えるようになって行かなきゃ。そう思った。

 百貨店の最寄の駅前で昼食を済ませ、出勤した。

 売り場に着くと、福田店長が目を細めて新しい髪形を褒めてくれた。茶髪もいいけれど、今の方が魅力的よって。そしてもう一人のパートさんの紹介を受けた。

「竹中でーす、宜しくお願いしまーす」

 年は28歳です、と可愛い笑顔で言った彼女にはもう子供が二人もいるらしい。結婚が早くて、専業主婦から社会復帰して2年目でーすと明るく喋っていた。その話を聞いたりしていて、まだお客さんの少ない昼下がり、和やかに盛り上がった。

 ふと、竹中さんが視線を固定したのに気付く。何となく頬が赤くなっている。なんだろうと振り返って、そこに斎の姿を発見した。

「あ」

 私がつい零した声は小さくて、誰にも聞かれなかったらしい。

 クッキー専門店の『ガリフ』のカウンターの中に立ち、男性販売員の制服である白衣を着て黒い帽子を粋に被った斎は、相変わらずの端整な外見で目立っていた。

 売り上げのノートか何かを見ているらしい。涼しげな目元は真剣な表情で、それを見て、竹中さんは反応したようだった。

 通路を挟んで斜め前の売り場で、声は聞こえていないようだが人の気配と視線を感じたのだろう、ノートから顔を上げて、斎がチラリとこちらを見た。

 視線が空中で絡み合う。

 私は急速に緊張したけど、スカートの後ろでこぶしを握り締めて動揺を隠した。

 斎がハッとした顔をした。目を見開いてこっちをみている。


 ―――――――悪魔と対峙だ。負けちゃいけない。ここが、勝負。


 私は受付嬢で鍛えた華やかな笑顔を意識しながら、にっこりと微笑んだ。

 うまく笑えてるかな?

 艶やかな笑顔になってるかな?


 私の笑顔に気がついて、カウンターの前に立っていた福田店長も後ろを振り返る。そして、ああ、と声を出した。

 ノートを閉じてカウンターの前に出てきた斎に向かって声をかける。

「守口店長、昨日からうちに入ってくれてます、こちらは―――――」

「小川です。お久しぶり、守口さん」

 後を引き取って、私が静かな声で言った。

 え?と福田店長が振り返る。

「小川さん、知り合い?」

 竹中さんが斎と私を見比べながら言った。

 こちらに顔をむけた福田店長の後ろで、斎の顔がひきつって歪んだのを確認して、私は更に笑みを大きくした。

「ええ、以前お付き合いしてたんです。まさか、ここで会うとは」

 えー!守口さんの元カノですかー!?と声を上げる竹中さんの声でハッとしたらしく、斎が笑顔を作った。それは完全に余所行きの笑顔で、綺麗ではあったけれど固い印象が残っている。

「あらあら!それは偶然ねえ〜」

 福田店長も面白そうな顔をして、私と斎を交互に見ていた。

「・・・・久しぶり、小川さん」

 斎が幾分抑えた声でそう言った。

 久しぶりに聞いたこの男の声。私は反応して大きな音を立てた心臓を、懸命に無視した。

「どうぞ宜しくお願いいたします」

 頭を下げた私を冷たい目で見て、こちらこそ、とヤツは呟く。それから福田店長と竹中さんに会釈をして売り場に戻っていった。

 隣近所の売り場の女の人が、皆興味津々な顔つきで盗み見ているのが判った。

 福田店長と竹中さんも私をじっと見ている。

 イケメンの守口店長の元カノが洋菓子売り場に来たと、きっと今日中にはデパ地下に広がるだろう。おば様達のゴシップ伝達スピードは重々承知している。これで今現在、斎と付き合っている人がいれば自ずと情報が伝わるだろうし、彼女が居なければ堂々と斎のあくどい情報を流せる。

 口端を持ち上げて笑った。もう既に、冷や汗や震えは消えてしまっていた。



 ファーストコンタクトと種まき、完了。







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