2、バックヤードの危険・倉庫
斎との関係は日に日に悪化していたが、それとは別に現実的な嬉しいことがあった。
デパ地下で働き出して最初の給料日、通帳を見ると13万2300円の振込みがあったのだ。
「おおおお〜!」
思わず銀行の前で飛び跳ねてしまった。保険も年金もひかれて手取りでこれだけあれば、生活出来る。
勿論ギリギリだし、贅沢も貯金も出来ないが、赤字にはならないように出来る金額だ。
しかも、途中で辞める事になった派遣会社から、日割り計算での約2週間分の給料も振り込まれていて驚いた。
契約違反をしたのはこちらである。貰えないものと思っていた。恐らく交通費も含めてであろう、9万円も振り込まれていた。
二つの収入を合わせるとマトモな収入になるではないか!これが喜ばずにいられようか!
「・・・ああ、ほんと良かった〜・・・。神様、ありがとう」
思わず小声で呟いてから、自分で打ち消した。いやいや、派遣会社様、ありがとう、だな。
派遣会社には、百貨店での勤務が決まったあとに、担当者に電話して謝罪していた。
原因は言わず、急な入院で携帯を家に置きっぱなしだったことは伝えたのだ。仕事に穴を開けてしまい、ご迷惑をおかけしました、と。長年私の担当だった長野さんは声を和らげて、それならばとチャンスをくれたが、その時にはもうすでに斎への復讐計画が始動していたから、お礼を言って断ったのだった。
わーい、嬉しい!
通帳をしっかりと鞄の中に仕舞って、私はうきうきと銀行を出る。
これは今月だけのこととはいえ、これで残り少ない貯金に手をつけずに済むってもんである。
その日は休みだったので、臨時収入に頭を下げて、買わなければならなかった日用品などを買いだめした。
そして部屋で、じっくり計画を練ることにする。
今度は私の命まで掛かっているのだ。真剣にならなければならない。
百貨店では、表面上は二人とも非常に機嫌がよさそうに勤めていたけれど、倉庫やバックヤードですれ違う時には嫌味の応酬や鞄をぶつけたりなどしていた。
どけよ!と言われて邪魔よ!と返す。非常に悪い雰囲気の中での品だしをしたり。一度それを聞いてしまったらしい別の店のアルバイトの男の子が、怯えた目で私達を見て行ったこともあった。
梅雨に入り、毎日雨が降っていて、地下の職場である私にはあまり関係がなかったけど、護身用にもなるかと折りたたみの傘を私物鞄にも忍ばせていた。
今のところ使わなければならない気配はないが、念には念をってやつである。
そして、そんな風に過ごしていて、7月に入る直前のことだった。
また、危ない目にあったのだ。
その日は遅番を終えてから翌日から始まる催事の手伝いをしていて、福田店長に、これをストックにしまってくれたら上がっていいわよ、と言って貰った後だった。
「はーい、それじゃあ、このパッキンを棚に直して帰りますね。お先に失礼します」
私は凝りまくった肩を上げ下げしながら言う。
ご苦労さん、と笑顔で手を降った店長に会釈をして、私物鞄とダンボールを抱えてストック場へ向かった。
ああ〜・・・結構疲れた・・・もう9時半じゃん。ううー、こんな日はビールが飲みたい・・・。
ぼんやりそんなことを思いながら倉庫へ行き、指示通りにダンボールをスチール棚の空いてる場所に突っ込む。
さて、と体を起こしかけて、私は何かに滑り、バランスを崩してしまった。
「ひゃあ!」
何とか体勢を保って足元を見ると、隣の店のダンボールが床に敷いてある。それで靴が滑ったようだった。
わお・・・あ、危ない。
「・・・何でパッキンが床に敷いてあるの?危ないじゃない・・・」
倉庫の狭い棚の間で私物鞄を置いて足元のダンボールを取ろうとした時だった。
右側のスチール棚が、いきなり大きく揺れたのだ。
―――――――――え?
とっさに頭上を仰ぎ見ると、大きく揺れた棚の一番上に置いてあるダンボール箱が滑り落ちるのが、見えた。
ドカッと大きな鈍い音を立てて、ダンボールは広げた私の両足の間に落ちてひしゃげる。
敗れた隙間から、中に入っていたらしい配送伝票の束がいくつも流れ出す。
「・・・・・はっ・・・・」
冷や汗がこめかみを伝うのが判った。
驚いて尻餅をつき、とっさに足をひろげたのが良かったらしい。
伝票の束は重たい。このダンボールが私の頭の上に落ちていたら、まず間違いなくあの世行きだった。
荒くなる呼吸を胸を押さえてなだめる。
落ち着け、落ち着け!とりあえず、もう棚は揺れてない――――――――――
「・・・ってか・・・おかしいでしょうがよ」
呟いた声はすこしばかり震えていた。
・・・・何で・・・地震でもないのに棚が・・揺れ・・・。
目を見開いて固まっていたら、憎たらしい声が聞こえた。
「大丈夫か?」
私は唇をかみ締める。それから顔を上げて、声の主のほうをゆっくりと睨みつけた。
「・・・怪我はないようだな」
棚の入口のところで、斎が白衣に両手を突っ込んで立っていた。
細めた瞳からは悪意しか感じない。寒々とした雰囲気を全身にまとって、私を見下ろしている。
―――――――――お前か。
私は片手で汗を拭い取った。
・・・背後だけでなく、頭上にも注意が必要だったってことね・・。私自身を落として失敗したから、物を私に落とすことにしたってわけ?
「――――――・・・ええ、残念ながら、無事よ」
スカートにも関わらず大きく開いていた両足を閉じ、ひしゃげて潰れているダンボールをヤツにむかって蹴っ飛ばした。
「無事だったなら、それに八つ当たりするなよ」
ニヤリと笑って斎が言う。
「・・・あんたが私を殺したがっているのはよーく判ったわ」
食いしばった歯の間からそう言葉を押し出すと、斎はヒョイと肩をすくめて両手を挙げて見せた。
「まさか。そんな恐ろしいこと」
ヤツは口元に薄笑いを貼り付けている。それを見ていたら瞬間的に激しい怒りが湧き上がってきた。怒りに突き上げられて、恐怖はどこかへ飛んだらしい。体の横でこぶしを握り締めて私は叫ぶ。
「さっさとお金を返して自由になったらいいじゃないのよ!ろくでなし!!」
「俺は今でも自由だぜ」
「くっそバカ野郎〜!!」
「・・・まり、お前、そんなに口が悪かったっけ?」
ちょっと呆れた顔をしていたけれど、ヤツはひょいと肩を竦める。
「ま、いいや」
それより、と呟きながら近づいてきた斎は、さっきまでの邪悪な表情を消して、まるで清純そのものって顔をしていた。
な・・・何だ何だ!?次は何をしようって言うのよ?私は思わず下がって、座り込んでいた地面からパッと身を起こした。
斎は近づいてしゃがみこみ、膝をついて中腰になった私と目線を合わせる。
「もう俺達、やり直せないのか?」
「――――――・・・は?」
万が一に備えて近くにあったプラスチックの備品を掴んでいた私は呆気に取られた。
どんな罵り言葉にも驚かなかっただろうが、これには度肝を抜かれた。開いた口が塞がらない、とはこのことか。
ぽかーんと口を開けた間抜けな顔のままの私の前で、天使みたいな表情の斎は柔らかく言葉を続ける。
「よく考えたら、俺達ちゃんと別れたわけじゃないよな。でも、そこを敢えて、もう一度付き合えないか?」
・・・何だ、こいつ??もしかして今まで人間だと思ってたけど、実は宇宙人だったとか?そんなバカなことを考えながら、相変わらずマヌケな顔で私は言う。
「・・・何言ってんの?頭、大丈夫?」
傷つくぜ、そのセリフ、と頬をかく斎を呆然と眺めた。
何だって?今、こいつは何てった??
「・・・斎は今、小林部長の娘さんと恋人なんでしょ?」
私の問いかけに、ヤツはまた肩を竦める。その動作にイライラした。
「その前にお前とは終わってない」
全く会話になってないじゃないの〜!!埃まみれのお尻を払うことも忘れて、膝を床についたままの格好の私は眩暈に襲われた。
ああ、本当にイライラするったら!
「倒れた私をほったらかしにした時点で関係なんて終わってるっつーのよバカ男!」
「ちゃんと救急車呼んでやっただろ?」
「あんたは私のお金を取ったのよ!?本気でよりを戻そうなんて一体どの口が言えるのよ!」
ああ、目の前の男を血だらけになるまでひっかきたい。でも残念なことに、百貨店の食料品売り場で働くにあたっては爪を伸ばすなどご法度なのだ。武器のない指先を恨めしく見詰めて、私はどうやって攻撃をかますべきかを忙しく考えた。
「終わってるならまた始めればいいだろ。俺達、カップルに戻ろうぜ、まり」
「あんたがバカなのは判ったって言ってんじゃないの!この間も今も、私を殺しかけたんでしょうが!!」
「今のは俺じゃないって。不幸な偶然」
呆れて、私は斎から距離を取ろうと膝をついたままで後ずさった。きっともうストッキングは破れてボロボロになっているはずだ。
「―――――――語るに落ちるとは、このことを言うのよ。やっぱり階段で押したのはあんただったってわけね」
「今無事に生きてるじゃねーか」
ヤツが笑いながら、手の平で私を指し示した。
カッとした。逆上した頭で罵声を浴びせようとしたら、静かで落ち着いた、しかもよく通る声が響いた。
「俺が、助けたからな」
ハッとして、二人で同時に振り返った。
興奮していて忘れてたけど、ここはデパ地下の倉庫の中なんだった。閉店後で少ないとはいえ、勿論従業員は何人か残っている。
やば、今の、聞かれ――――――――――
「あんたら、座り込んで何やってんの?」
低いのによく通る声が、倉庫の中を走って私達のところの空気を震わせる。
長身に長髪の桑谷さんが、入口に肩を預けてこちらを見下ろしていた。だらりともたれかかっているのに、ダラしなくは見えないのは彼の体格がいいせいだろうか。今日は既に私服だった。
深緑のTシャツに黒いカーゴパンツをはいている。シンプルな格好がよく映えていた。彼の一重の黒目は真っ直ぐに私達に向かっていて、無表情だった。
「・・・・・今、取り込み中でね、外して貰っていいですかね」
背中越しに顔だけそちらに向けた斎が低い声で言う。桑谷さんは、私をチラリと見て、無表情のまま口を開いた。
「・・・その人、嫌がってるようにみえるけどな」
その見透かすようなあけすけな視線に、私は思わず顔を伏せる。
くそ、邪魔が入った・・・。斎がそう小さく呟いたのを聞いた。
「まり、飯行かないか?」
顔をこちらに戻した斎が慎重な声で聞く。私は即行でぶんぶんと首を振った。今度はご飯に毒でも入れるつもりでしょ、と言いかけて、無理やり飲み込んだ。ダメダメ、まだここには他の人がいるんだった。
おい―――――――と斎が言いかけた声に被せて、桑谷さんが言った。
「俺と行こうぜ。さっきから待ってたんだ」
「「は?」」
斎と私の声が被った。二人で揃って入口に立つ桑谷さんを振り返る。
「小川、さん。飯に誘おうと思って待ってたのに出てこないから、見に来た」
人差し指で私を指差して、口元に笑みを浮かべる桑谷さんをじっと見た。
「・・・・待ってた?私を?」
「そう」
斎が立ち上がって、イライラした様子で突然の侵入者に向き直る。
「おい、何なんだよ――――」
「お前は」
彼はそのよく通る低い声で、斎の言葉をかき消した。
「部長の娘と食いにいけよ。明日からのセールで、あっちもどうせ残業だろう」
「・・・」
「お前の彼女は、あっちなんだろ?」
一瞬ぐっと詰まった斎ににやりと笑って、桑谷さんは私に手でおいでおいでをした。
私は立ち上がって、体中の埃を手で払った。そして無言で、誘われるがままに歩き出す。
「おい!まり!」
怒鳴った斎を振り返る。
「・・・・お疲れ様、守口さん。すみませんけど、それ、直しといて下さいね」
床に散らばった伝票の束と、ひしゃげたダンボールを指差した。
「―――――――――それと」
突っ立ったままの斎に冷たい声が出た。
「気安く名前で呼ばないで」
そしてゆっくりと丁寧に倉庫のドアを閉めた。
[ 11/32 ]
←|→
[目次]
[しおりを挟む]
[表紙へ]