1−A
30歳の私、小川まり。
派遣会社に登録をしていて、出向先で事務をしていた。2年と5ヶ月付き合った美形の彼氏がいて、学生時代に出てきた都会で一人暮らしをしている。
それが、4日前までの私。
付き合っていた美形の悪魔は守口斎(もりぐち いつき)。爽やかな美形と称される外見を持っていたけど、実は中身は悪魔だった男なわけだ。年は一個上で、付き合っている時から口も性格も根性も悪かった。だけどまさか、こんな仕打ちが出来るほどに腐りきったやつだとは知らなかった。
自分が余りにもバカだったと私は一人で口元を歪める。
やつは金使いも悪かったわけだけど、異常に外見が格好良かった。やっぱり世の習いで外見が良いと外道になるものなのだろうか・・・全国のイケメンさんに疑いのまなざしを向けてしまう。
とにかく、ヤツの素敵な外見と極上の美声につられて付き合った2年5ヶ月。よく考えたら私、幸せだったことってあったっけ?
私が病院で目覚める羽目になったのはこういうこと。
4日前の夜、晩ご飯を食べている最中に突然やってきた男に、自分の分も晩ご飯を作れと命令されたことに腹を立てたのだ。ほとほと疲れた私が罵って反抗すると、ヤツは綺麗な顔を恐ろしく歪めて吐き棄てるように言ったのだった。
『お前みたいなぼろ雑巾女に付き合ってやってるのは、家政婦が欲しかったからなんだよ。ごたごたぬかさずさっさと作れ!』
心臓に直接ナイフを突き立てられたようなショックがあった。
彼はそれまでも口も悪い男だった、それは十分知っていたけれど、私に対してそんな言い方をしたことは一度だってなかったのだ。
私は親にも勿論、そんな暴言を吐かれたことなどない。驚愕して立ち尽くすのには十分な言葉だった。
呼吸を止めて目を見開く私をみてせせら笑い、更に悪魔は言った。
『そろそろ抱くのにも飽きてきたし、お前はもう用無しだな。大した体じゃねーのに抱いてやったんだから、礼を言って欲しいくらいだぜ』
『いっ・・・斎』
私が小さな声を零すと、ヤツは鬱陶しそうにそれを手で払って壁にもたれかかった。
『飯だよ、飯。さっさと作ってくんない?せめて最後にそれくらいの奉仕はしろよ』
頭の奥で、確かに何かが切れた音を聞いた。
あまりの強烈な怒りに飛び掛ると、簡単に突き飛ばされた。頭が沸騰している時は、体もうまく動かないものだ。そしてそのままヤツの鞄の上に無様に倒れた私の目の前に、ヤツの鞄から転がり出てきた睡眠薬の小瓶が転がってきたのだ。
これは、以前の職場の薬品室からパクッてきたものだとヤツが自慢していたものだったと思い出す。
あの時、それって窃盗よ、最低ー、と言った私の目の前で瓶をふり、美しい目を細めて笑いながら言ったのだった。
――――――――辞める前に何かもらっとこうと思ってよ――――――――
斎はまだこれを持っていたのか、と思った私はとっさにその小瓶を手の中に隠した。
『見苦しいな、いい加減にしろよ、まり。女殴るなんて後味悪いこと俺にさせんなよ』
後ろでぶつぶつ言いながらテーブルを蹴っ飛ばす斎をちらりと見ながら、私は立ち上がって台所に行った。
大人しく晩ご飯を作る気になったのかと思ったのだろう、斎は様子を見に来ることもなく、まだ文句を言いながらソファーに座る。
そのソファーも、俺これが欲しいと斎が言ったから、買ったものだった。
今着ている服も、斎の趣味。髪の色も、灰皿も、カーテンも、それからそれから―――――
私は冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出した。
白い錠剤を数えもせずに手の平に落とす。バラバラと音をたてて小さな錠剤は私の手のひらに山盛りになる。
錠剤を口に放り込んでビールを勢いよく呷った。ごくりと音を鳴らして飲み込む。それを間をあけずに何度も繰り返す。
ビールの苦さが喉に染みて、すこしばかり咳き込んでしまった。
そんなにすぐには効かないのかな。でもその時の為に酔っ払ってるくらいのほうがいいよな、てぼんやり考えたのを覚えている。
缶を開ける音に気がついた斎がふらりと台所にやってきて、缶ビールを一気飲みする私を見て言った。
『飲むんだったら、俺にも――――』
斎の視線がビールを大きく呷る私から、手元の小瓶へと移ったのが判った。
『――――おい!!』
パン、と音を立てて、ヤツが私の手から瓶を叩き落とす。その衝撃で台所の壁に体ごとぶつかって、私はそのままずるずるとうずくまった。
ビールの苦い味と、ぐるぐる回る視界に吐き気が襲う。斎が何か叫んでいたけど、耳の中では自分の鼓動しか聞こえてなかった。
口から涎を垂らしながら、私はにやりと笑った、と思う。
『・・・・バイバイ、最低の男』
そしてそのまま―――――――――意識を手放したのだ。
病院の看護師さんが、睡眠薬では人間は簡単には死ねない、と教えてくれた。
普段のんでいない人間には拒絶反応が出て、吐き出そうとするから無駄にしんどいだけだとも。その顔にはハッキリと同情が浮かんでいて、私がしたバカな行動に彼女が心を痛めているのがわかってしまったのだ。
それで余計に疑われたわけね、私は、と思った。
あの強烈な吐き気は拒絶反応だったのか・・・。体って、死ぬのはやっぱり回避しようとするんだなあ、とぼんやり考えたんだった。
吐きながら倒れた私を見てさすがの斎もビックリし、救急車を呼んだらしい。それから通帳や印鑑を持ち出して逃げたのだろう。私は4日も入院していたから、いつでも返しに来れた筈だ。
救急隊員がつくと家の鍵は開けっぱなしで意識を失った私しかいなかった為、私が目覚めてからの事情聴取となり、その頃には私は一切を秘密にしようと誓った後だったので、『ただ量を間違えてのみ、無駄に苦しんだバカな女』になったのだ。
目が覚めて、病院のベッドの上で、考えた。
警察に言う?親にも言う?そしてアイツを法に裁いてもらう?
するとどうなる?
まずは周りに同情される。だけど別にアイツは刑務所にいくほどのことをしたわけではないから、たくさんの人に話しを聞かれてその度に私は傷をえぐるハメになるんだろう。
悪い男にひっかかったのね、何てバカだったの、アナタ。そういわれるんだろう。同情の目をしながら口元を微笑ませた人たちに。私だって、他の誰かどうでもいい人の話だったらきっとそんな反応だ。
そして、斎はまたもとの生活に戻るんだろう。
女を真剣に愛したことはないんだ、とせせら笑っていた。女なんてただの道具にすぎないと。付き合いも最後の方になると、機嫌が悪い時の斎はよく本音を出していたのだな、と今なら判る。
だけど私は彼女なのだから、この人にとっても特別なはず、そう思い込んでいた過去の私を蹴り飛ばしたい。
天井をにらみつけた。
周りには、黙っていよう。家にも電話はしない。この入院はなかったことにしてみせる。
最低な男にひっかかった挙句に目の前で死のうとするなんて、私も最低だっただけだ。
こんなことは、人には言えない。
汚い部屋を一日かけて掃除した。
壊れた心にはいいかと思って、ビョークのアルバムをリピートかけて掛けっぱなしにした。
あの歌声で、全部忘れられるかと思って。
斎が付けたタバコの焦げ跡も私が吐いた跡もあるカーペットはもう丸ごと棄てた。いらねー、いらねーよ、もう、全部。ソファーも。本棚も。おそろいのカップも歯ブラシも全部、それをみたらあの男が出てくるようなものは全て棄てた。
燃やしたいところだったけどそんなことは勿論出来ないから、普通の方法でゴミに出した。
まるで断舎利みたいに。部屋はすっからかんになった。
肩で息をしながら、物もほとんど残ってない部屋の真ん中に立っていた。あとの物は全部コンビニで貰ってきたダンボールに突っ込んだので、4年住んでる私の部屋は引っ越してきたばかりの部屋みたいになった。
そして、私は次の行動へうつる。ざんばら頭をひとつでくくってまとめて、現金がいくらのこってるのか確かめに、銀行に行ったのだ。
斎が私から奪ったお金は大金だったから、引き出しには印鑑と窓口が必要で、それは既に印字されているはずだ。だけど病院代はATMでおろしたので、まだ通帳には今現在の残高は書かれていない。
昨日はまだその数字を受け入れる勇気がなくて、通帳を開いていなかったのだった。
既に判っている結果ではあったけれど、やはりドキドキしていた。恐る恐る通帳をATMに突っ込む。
音がして機械から吐き出された通帳を震える手でゆっくりと見下ろした。
20××、0514 払い出し 2010000
「――――――――――」
目の前が、真っ暗になった。
ぱっとした暗算で200万くらいはなくなっていると思ってはいた。でもまさか・・・。本当に、あのバカ野郎は200万も私から盗ったのだ。
しかも、あと1万円プラスして。
「・・・」
ATMの列から離れて、私は胸を押さえながらヨロヨロと歩く。
銀行の真ん中で絶叫しそうになった。
しがない派遣生活で、節約に節約して溜めた200万である。
口座の残高は13万8000円。
30歳、独身一人暮らしの無職、現金13万8000円。
月末に落ちる家賃で半分に減るほどの残高を見ていたら、目が回りだした。
痛い社会勉強だったと思って、放っておこうと思っていた。
私がバカだったのだと諦めようと思っていた。
部屋の鍵だけかえて、新しく人生をやり直すつもりだった。
すっぱりと忘れて。思い出す価値もないからと。銀行の後は、職探しをしようと思っていた。
それが、30まで生き抜いてきた社会人の行動だと思っていた。
駄菓子菓子。
眩暈が酷いのでと座った銀行のソファーで、頭を下にむけたまま自分の握り締めた手を見詰めていた。
あの、プラス1万が異常に堪えた。
200万ではダメだったの?どうしてその1万?全額盗るんじゃなくてそれだけにしたのは親切心から?私が溜めた201万。苦労して、少ない給料で一人暮らしをしながら溜めた201万。かかった病院代。あの男に買った色々なもの。女性としてのプライドも砕かれた、ぼろぼろの自分。失った仕事。
綺麗な顔で斜めから見下ろして笑う斎の顔が浮かんだ。そしてあの美声で、いつでもぞくぞくしたあの声で、「ありがとよ」って言う、あの野郎の言葉まで聞こえた。
・・・・・・・無理。
全部、忘れるなんて無理。
痛い社会勉強をするのは私だけじゃ不公平でしょう。
通帳を鞄にしまって立ち上がった。
ありがとうございましたーの爽やかな声を背中に聞きながら、銀行を出る。
前を向いて、横断歩道を渡り始めた。
あのバカ男。
必ず、復讐してみせる。
後悔なんて生易しいものじゃ許されない。
跪いて土下座させ、小川まりに済まない事をしたと謝罪の文章を書かせてそれに血判を押させ、更にそれの記念写真を撮るまでやってやる。
私は姿を見せ始めた夕日に向かって誓いをたてた。
唇をかみ締める。血が出るのではないかと思うほどに強く強く、かみ締めた。
・・・なってやるのだ。
私は、復讐の鬼になる。
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