2、ビールと話と男と女。@
目を開けたまま、呆然と突っ立って、ぽろぽろと涙を落とした。
桑谷さんが手を伸ばして、私の左手を引っ張った。
そして一緒に歩き出す。
濡れて霞んだ視界で、ぼんやりと前を歩く大きな背中を眺めた。
・・・・・・私、泣けたじゃん・・・・。
『それでも―――――――君が欲しいから』
貰った言葉が頭の中で回る。
彼の表情に、空気に、発音に、小さな光が舞うのが見えた。
桑谷さんは百貨店の近くの駐車場に車を停めていたらしい。
「・・・・・電車で出勤じゃないんですか・・・」
鼻をすすりながら聞くと、ドアを開けて促しながら、彼は言った。
「どうしても君を捕まえるつもりだったから、足があったほうがいいかと思って。・・・でも出勤するとは思ってなかったんだ、本当は。君は休むだろうと思っていた」
私を捕まえるために、車で通勤・・・行動派だ。やっぱり、この人から逃げるのは難しそうだ。
「・・・休みませんよ」
私がぼそっと答えると、彼は振り返って切れた口の左端をきゅっと上げた。
「俺に会いたかったから?」
「斎のバカ野郎の店が気になったからです」
まあそうだろうけどよ、彼は拗ねた口調でそう言いながら私が乗ったのを確認してドアを閉める。
鞄からティッシュを出して、目元を拭いて鼻をかむ。
「―――――俺の家行くけど。ここで先に聞くほうがいい?」
桑谷さんがそう言うのに、私は助手席にもたれかかって目を閉じた。
「・・・何でもいいです」
彼は肩をすくめたようだった。シュルっと音がして、シートベルトを締めたのが判った。
そして車が動き出す。
・・・・この人、どこに住んでるんだろう・・・。助手席で揺られながら、私は目を閉じてぼんやりと考える。
名前は桑谷彰人、年齢・33歳、職業・百貨店の鮮魚売り場責任者、沈着冷静、たまに獰猛な目つきをする男。
なんて意味のないものばかりなんだろう。結局、どういう人かが判らないんだわ、これでは。
話を聞こうと思ったわけではない。
ただ、彼から逃げるのを諦めただけだ。
寝不足が祟った上に緊張が取れて、私は眠ってしまった。
着いたぞって起こされて、一瞬何が何だか判らずにぽかんと彼を見上げる。でも彼の唇が切れて滲んでいるのを見て、パッと全部を思い出した。
そうだ、私が桑谷さんを引っぱたいたんだったって。それで、彼の家に連れてこられたんだ・・・。
彼は、商業ビルの一番上に住んでいた。
下はスナックやバー、小さい不動産なんかがごちゃごちゃと入っている狭いビルで、その一番上のフロアーに一人で住んでいた。
・・・・テナントビルに、人って住めるものなの?
案内されてエレベーターで上がっていく間、私は首を捻っていた。
飲み屋に連れてこられたのかと思った。でも俺の家って言ってたしな・・。
着いてみると、いかにも元事務所なだだっ広い一つの部屋だった。後で取り付けられたらしい簡易台所とトイレ、シャワールームがあって、後は大きなベッドと事務用の散らかったデスク、やたらと書類の詰まった本棚。片側一面に並んだ窓にはカーテンもブラインドもない。
床は板がむき出しだった。
「どこでも座って」
鍵をデスクに放り投げながら、桑谷さんが言った。
・・・・座るって・・・・そんな場所ないし。カーペットもなければ、椅子はデスクの前のやつ一脚だけ。少し考えて、恐らくダブルサイズのベッドに腰掛けた。
「・・・・冬、寒そうな部屋ですね・・・」
ぽつりと感想を述べると、彼は面白そうな顔をして振り返った。
そして小さな冷蔵庫からコロナビールを出し、飲む?と聞く。
「頂きます」
とにかく、この部屋は暑い。タンクトップの上に羽織っていた夏用のカーディガンを脱いで鞄の上にのせた。
ビールの栓を抜いて、ライムを切って瓶口から突っ込み、渡してくれる。
「うるさいけど、我慢して」
そう断って窓を次々開けていき、桑谷さんは部屋の中に溜まった真夏の空気を入れ替えた。
途端に繁華街のパチンコと飲み屋の呼び込み、人の足音や笑い声の喧騒が入ってくる。
私はぐぐーっと一口ビールを呷って、ため息をついた。このやたらと暑い殺風景な部屋の中で、貰ったコロナビールだけが癒し所のように感じる。・・・ああ、美味しい。口の中に広がるキリリと冷えたライムの味をゆっくりと飲み込んだ。
桑谷さんは窓辺にもたれて、私を見ていた。喧騒に負けない声で口を開く。
「お腹空いてる?」
「・・・空いてますが、今はいいです」
「了解、じゃあ、話を始めよう。・・・何から言ったらいいか・・・」
唇に人差し指をあててしばらく考える彼をビールを飲みながら見ていた。
外から入るネオンの明かりに彼の黒髪が艶やかに光っている。
「―――――食品の責任者、小林部長は、俺の大学でのクラブの先輩なんだ」
暫くして、彼が顔を上げて話し出した。
窓から入ってくる騒音よりも強く、彼の声は鼓膜を打つ。
桑谷さんは時折ビールを飲みながら、ゆっくりと話した。
小林部長は百貨店には転職で入った中途入社組で、元々は証券会社でえらく苦労をした人なんだ。
大学のOB会で出会ってから、良くして貰っていた。
俺が百貨店に入った時に付き合いが復活して今に至るんだけど、去年から、部長は守口を警戒していたんだ。初めて『ガリフ』に入ってきたときから、こいつはいつか大きなクレームを作る男になるかもしれないと思ったらしい。
証券会社で色んな人間をみて、守口はちょっと危ないかもと思ったと言っていた。
ただ、その時はやつは一メーカーの社員だったし、関係のない内はと放っておいたらしい。実際のところ、その頃出来たのは見張ることくらいだしな。
まさかあんなに早く店長になるとは思ってなかったし、移動してきた自分の娘がヤツに夢中になるとは部長は夢にも思わなかっただろう。
そこで、真剣に守口がどんな男か見極める必要が出来た。
今度は職場の為でなく、娘を守る為に。
2月のバレンタインが終わったころ、初めて部長から相談されたんだ。
「・・・・どうして桑谷さんに?」
私はビールを飲み干して聞く。彼はお代わりを持ってきてくれて、そのまま窓を閉めに行き、壁にかけてあったリモコンを押してクーラーを入れた。
その場で振り返って、デスクにもたれかかって私を見た。
「・・・実は」
私の反応を心配するような目をしていた。
「俺も転職組みなんだ。・・・・以前は、警備会社と調査会社にいた」
カチリと私の頭の中でピースが嵌った音がした。
あの身のこなし、油断のない顔つきと視線、状況把握能力や獰猛な目が、それを証明していた。
階段で助けられた時の事を思い出す。降ってきた私に驚くより先に、周囲を確認して、逃げて行く斎に気付いていた。
・・・警備会社。そして、しかも、調査会社にまで。
何だ―――――――この人、その道のプロじゃんか。
何でそんな男が魚屋さんなのよ・・・似合ってるけど。百貨店の鮮魚売り場での格好を思い出して、私は段々と可笑しくなってきた。
じっと私を見ていた桑谷さんが、どうやら私が笑っているらしいと気付いて、おーい、と言った。
「・・・・どの辺りが、笑うとこだった?」
くっくっくっくとお腹と口元を押さえて笑う私が、ベッドサイドにビールを置いてベッドに転がっているのを、不思議そうに見ていた。
「あはははははは」
もう我慢しないで全開で笑う私を、頭に手をあてて見ていたけど、呟いた声は呆れていた。
「・・・泣いたり笑ったり、忙しいお嬢さんだな」
「はははは・・・はあー・・・」
仰向きにゴロンと転がって、私はやっと笑いの発作が収める。
空腹にビールだけを入れていて、常識はずれな展開の話を聞いていたら夢の中にいるみたいだ、と思った。
「・・・寝てる?」
目を閉じて規則正しく呼吸をしていたら、桑谷さんの声が聞こえた。
「・・・起きてます。続きをどうぞ」
暫く間があって、また話し出した彼の声をベッドに仰向けで寝転んだまま聞いていた。
そんなわけで、部長の相談を受けてから、簡単にだがアイツの過去を調べた。
この10年間をちょっと見ただけでも3件の怪しい経歴があった。いづれも女性がらみで、逮捕や起訴や立件はされていないけれど、警察に名前を覚えられるくらいのことはしたはずだ。
「・・・マジで」
私は目を開けて呟いた。
女性がらみで3件も。しかも、この10年で。アイツは一体どれだけの非道なことをしてきたんだろう・・・。それが判らずに付き合って、命まですてかけた私は本気で大ばか者だわ・・・。
凹んだ。
自分の人を見る目を疑った。
2年も付き合っていて、何も判っていなかった。
小林部長は一発で見抜いたらしいのに・・・・私ったら、一体どこに目をつけてんのよ・・・。
私は一度起き上がって、ビールを手に取り残りを飲み欲した。そして慎重に瓶をサイドテーブルに置いて、またごろんと転がる。
「大丈夫か?」
彼の声に、手を垂直に上げて応える。
「はい、大丈夫。何てバカだったの私!って、一人反省会してただけです。どうぞ続けて」
彼は苦笑する。
「・・・判った。でもビール、まだ必要だったら言ってくれ。えーっと・・君が気になっているだろう5月のことだ。守口と俺は飲みに行った。それは、偵察だったんだ」
私は目を開けて彼を見詰める。5月の飲み。斎があの神社で行っていた、桑谷に関すること、のあれだ。あの一言で、私の中で桑谷さんに対する不審感が生まれたのだった。
彼は時々考えるような顔をしながらゆっくりと話す。
「今までの女性が絡んだ話を聞きだせるかと思って、催事の打ち上げの時に小林部長から守口に紹介して貰って、二人で飲みに行ったんだ。結局ヤツは口が上手くて、のらりくらりとかわしてうまくはいかなかったけどな」
守口は転職もかなり多い。それを遡って調べるのが手間だった。だけど調べていたら、近々の彼女として君が登場した。
――――――――あら、私?私は寝転がったままで声を出す。
「・・・私のこと、前から知ってたの?」
桑谷さんがデスクから腰をあげて冷蔵庫まで行き、ビールを取った。
「うん。一度守口をつけた。その時に君が一緒にいた。笑わない彼女だなーっと思ってた」
苦笑してしまった。・・・笑わない彼女。そうだろうなあ、もう最後の方は、斎と一緒にいても疲れるばかりだった。セックスも拒んでいたし、デートらしいデートもしてなかったし。
しかし、つけられていたとは。人間て気付かないものなんだ・・・。ちっとも知らなかった、誰かに見張られてるなんて。
「ブサイクな顔してたわけですね」
私の返答に彼が笑った。
「いや、楽しそうではなかったけど、綺麗な女だと思ったよ。髪形が違うから今と印象が全然違うけど。・・・俺は、今の方が似合うと思う」
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