1、追いかける男、逃げる女。@



 今日は遅番で勤務日だった。

 明け方からうつらうつらと少し寝て、太陽が高く上がった午前10時頃、暑さに耐え切れなくなって、布団から手だけを伸ばし、リモコンのスイッチを入れてクーラーを始動させた。

 ・・・そろそろ起きなきゃ、仕事に間にあわない・・・。

 ぼんやりと起き上がって、顔の前にかかる髪をかきあげる。

 カーテンを閉めていない窓の外には夏の空。入道雲が地平線の近くに湧き上がって、青と白の見事なコントラストを作っていた。

 それをぼーっと見詰めながら、ぐるぐると回っていた昨日の記憶がまた蘇るのを止めることも出来ずにまた流される。


「ナイフを離してください」

 何回か警官に言われて、やっと自分が斎のナイフを握り締めたままだったのに気がついた。

「・・・あ」

 手放そうとするも、真夏の夜なのに冷え切ってしまっている私の指はいう事を聞かない。見かねた警官が手伝ってくれて指を一本一本はがし、やっとナイフは地面に落ちた。

 そのまま地面にへたり込む。

 私の頭は停止したままで、何かを警官が聞いているのにも満足に答えられなかった。

 パトカーに連れて行かれて乗せてもらい、渡された缶コーヒーを飲む。

 それでやっと、現実が私に戻ってきた。

「・・・大丈夫ですか?何があったんですか?」

 私は警官に顔を向ける。同じ年か、少し上くらいの男性で、無表情で私をじっと見ている。彼と視線を合わせ、私は簡潔に答えた。

 元彼にここで襲われた、と。男性が一人助けに来てくれた時に犯人が落としたナイフを拾ったのだと。何もされていない、大丈夫だけど怖かった、と流れるように話した。

 自分の名前、職業や住所を答える。機械的に話していて、声に抑揚がないから聞き取りにくかったらしく、何度も聞き返された。

 斎が落として行った鞄の中から身分証明書が出てきたらしい。別の警官がそれを私に見せ、守口斎、この男に間違えないですか、と聞いた。

「・・・・さい、じゃないです。いつき、と読むんです」

 ぼんやりと名前を訂正して、間違いない、と頷いた。斎は、警察に改めて手配された。刃物所持と暴行で。

 事情聴取に時間がかかり、私が解放されたのは夜の11時だった。警官が送ってくれたので、私はアパートの自分の部屋に戻り、シャワーを頭から浴びて汗を流す。よく見てみれば、体のアチコチにアザがあったし、使い慣れない筋肉が悲鳴を上げだしているのが判った。

 布団の上で、目を開けたまま横になっていた。

 守口斎と桑谷彰人の顔が交互に出てきては、消えいく。

 何が何だか判らなかった。

 とにかくまた殺されかけたけど、私は無事だった、それだけが頭の中をぐるぐる回っていた。

 
 午前3時頃、やっと震えが来た。


 ガタガタと震えて、私は毛布に包まってその中で小さく丸まる。


 無事だったんだ、私は、まだ、生きている―――――。



 でも。


 手の中にあった輝きは消えてしまったけれど・・・・。



 昨夜の記憶を再現していた私の顔に太陽の光が真っ直ぐにあたる。よろよろと直射日光を避けた。

 ぼーっと布団の上に座ったままで、私は気付いた。

 そういえば、昨日百貨店から退出した時以来、携帯を見ていない。

 そろそろと鞄に手をのばし、携帯を取り出す。

 開けて見ると、着信が5件、いずれも桑谷彰人から。そしてメールが一件。

『君を傷つけたことは判っている。話をする必要がある。頼むから、電話に出てくれないか。心配している』

 昨日の、12時のメールだ。

「・・・・」

 パタン、と音を立てて携帯を閉じた。

 ・・・・うるせー、バカ野郎。何が話よ、今更何を言うつもり。私はぐっと目を閉じる。男なんて、皆、畜生以下だ・・・。

 携帯電話は布団の上に転がして、そのままで布団を畳んでやった。これでもう煩いことは言えないでしょ、そう呟いて。

『心配している』

 桑谷さんが送ってきたメールを思い返して、ムカついた。

 テーブルの上に出しっぱなしだったグラスを掴み、私は勢いよく台所の壁に投げつけた。

 がちゃん、と結構な音を立てて割れて散らばる。

 その破片をじっと見詰めた。

 壊れてしまったガラス。

 壊れてしまった、あの人への信頼―――――――――


 そして私は立ち上がり、出勤の準備を始めた。

 仕事はうんざりすることもあるが、少なくとも時間を潰すための有効な手段だ。私は今日という日を消化しなくてはならないし、私が死に掛けたことなんか関係なく今日も世界は動いている。

 斎は逃げた。

 売り場責任者不在になったはずの今日の『ガリフ』がどうなっているか、確かめに行かなければ。


 私の心は昨日の神社からずっと、凍ったままだ。

 狂ったように笑う斎に、あの悪魔に最後まで女としての屈辱を与えられたけど、それよりも深く傷ついた、桑谷さんの疑惑。

 私と出会う前から斎と飲んでいることが判った。

 ならば、もしかしてあの階段も計画の内だったのだろうか。

 斎が私を落として桑谷さんが「偶然」私を助ける。

 そして、私と仲良くなる?

 斎と桑谷さんは共犯で、私を罠にかけたのだろうか。だけどそれだと斎が返してきたお金を私が持っているのはおかしい。目的はお金じゃないのかな。一体何が目的で桑谷さんが私に近づいたのかがハッキリとしない。

 正体がわからない。どうしてあそこにいたんだろう。何が目的だったんだろう。

 キラキラが消えてしまった手の平を、電車に乗っている間、じっと見ていた。

 斎によってえぐられた傷口を埋めてくれた男性に、更に切りつけられるとは。

 私はため息をはいて電車の座席に寄りかかる。

 夏場の明るい電車の中は空いていて、空調がきき快適だった。乗客の中で暗い顔をしているのは、きっと私だけだろう。


 5月以来泣いていない私の瞳は、それでも相変わらず乾いたまま。

 復讐は、一応の終わりをみせたのに。悪魔の逃走という形で。


 泣けない―――――――・・・どうして、私は。



 電車から降りて見る夏の空は、眩しすぎて直視できない。犯罪者みたいに背中を丸めて、百貨店への連絡通路を歩いていった。


 百貨店の通用口を入ったところにある名札が裏返っているのを見て、桑谷さんが今日は早番で出勤なのだと知る。

 ・・・・来てるんだ、今日。

「・・・面倒臭いなあ・・・」

 つい声になって出た。

 あーあ。まあでもあちらが休みだと、待ち伏せくらいされそうだし、一緒か・・・。だけどこういう時、売り場が近いと見えてしまうから逃げようがない。仕事中ずっと監視されるようなのは勘弁だった。

 着替えてトイレで化粧と制服をチェックする。

 睡眠不足で多少だるそうではあるけど、いつもと同じ顔で接客は出来るだろう。

 瞼が腫れてるので、今日はアイシャドーはブルーを少しだけ塗った。きりっとした印象の女が鏡の中にいた。

 ・・・・負けちゃダメだ。自分に呟く。悪魔が居なくなってなお、今度は正体不明の男とまだ戦いが続くとは・・・。

 よし、と気合を入れて、デパ地下に降りて行った。

 
 鮮魚売り場は見ないように気をつけて自分の売り場へ直行した。

 斜め前の『ガリフ』ではいつもと同じ早番担当のバイトの女の子が仕事をしている。パッと見には普段通りだ。

「おはようございます」

 福田店長に挨拶をしてカウンターに入る。

 すると、挨拶を返してくれたあと、綺麗な眉をひそめて福田店長が言った。

「小川さん、守口さんが大変だって、聞いた?」

 ・・・・あ、やっぱり、話はいってるんだ。




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