1−A



 百貨店を出て連絡通路の階段を降りると、前のビルの角にコンビニがある。

 まだ暑い空気の中、夕焼けまで時間があることが判る空の明るさだった。

 コンビニで水を買って立ったまま飲んでいると、斎がやってきた。

 私服の斎をみるのは久しぶりだ。この男を3ヶ月前までは彼氏と呼んでいたなんて、既に信じられないくらいに心の距離が開いていた。


 同じように人待ちをしていたらしい女の人が、斎を見てハッとし、羨ましげな目で私を見たのが判った。

 こんな羨望の目を喜んだこともあったんだよね。私は今やかなり冷静になってそう思う。最初の頃は、本当に誇らしかったものだった。かなりのイケメンが私を見つけて嬉しそうにやってくるあの瞬間が。そしてそれを見る周りの人間の視線が。

 ジーンズに白いTシャツ。そんなシンプルな格好が、斎の整った顔を更に際立たせている。

「・・・斎」

「お待たせ」

 軽く微笑んで斎が言った。そして私をじっと見て微かに頷いた。

「・・・お前が待ってるの、全然違和感がない。これが当たり前だって思える。こんな久しぶりなのにな」

 その言葉にくっとくる。一瞬、楽しかった頃のことを思い出してしまった。

 ヤツは駅前をぐるっと見回して、それから実に普通の声で私に言う。

「何食べる?ムードなくて悪いけど、俺ラーメンが食べたい」

 私は思わず苦笑してしまった。・・・こういうのが、斎の魅力でもあったな、そう思ったのだ。自分の欲望をハッキリ口にだすことろ。それに相手が頷いて当然と思うところも。

「・・・ムードなんてなくていいんだから、それでいいわ。この暑いのに、なんでラーメン、とは思うけど・・・」

 折角化粧を直したのに、また汗をかくわけね、とうんざりしていたら、あははと笑ってヤツが促した。

「じゃあ行くぞ。俺、お前の家の近くの王将行きたい」

「え?ここら辺じゃダメなの?」

 私は慌てて聞き返す。何だってわざわざ私の部屋の近くまでいくのよ。もうさっさと終わらせたいんだけど、そう思って。

 だけど斎は既に歩き出しながら振り返って言った。

「だって美味いラーメン出す店って知ってるのに。いいから来いよ、あそこは銀行も近いだろ」

「ちょっと・・・!」

 抗議をしようにも、斎はスタスタと歩いてしまっている。もう声は届きそうになかった。・・・くそ、あいつめ。私はムスッとして仕方なくヤツの後を追って駅前に向かう。

 確かに、斎はあそこのラーメンが好きだった、と思い出した。思い出のものを全部捨てたって、あの部屋に住んでいる限り斎は消えてくれないと判っていた。

 それになりに長い付き合いで、部屋だけでなくヤツの影はいたるところにあるものだ。

 部屋を一歩出ると二人で行った色んな店がいつでも見えるからだ。斎は目立つので、一人で食べに行くと「あの男前の彼氏はどうしたの?」と必ず聞かれる羽目になる。

 それが面倒で、別れてからの私は外食は百貨店の近くで済ませるようにしていたのだ。

 ・・・引越しも、本気で考えなきゃね。ちらりと斎を見た。こいつから返ってきた80万もあるし。実は少しずつではあったが、もっと安くて百貨店に近い部屋を休日ごとに探してはいたんだけれど。

 電車の中で斎が聞く。

「なあ、お前本当に桑谷さんと付き合ってないのか?」

 職場を離れて砕けた口調になった斎に、私はうんざりした顔をみせる。

「・・・しつこいわね。桑谷さんは好きではいてくれてるようだけど、私はあんたのせいで男はもうこりごりなのよ」

「―――――酷い言われようだぜ」

「あんた、私に何したか判ってんの?特に最後に言われた言葉に傷ついて、男性なんて信じることが難しくなったわ」

 ・・・そして、復讐を誓ったのよ。と胸の中で付け加える。

 すると窓の外を向いていた斎が振り返り、私を見て真剣な表情で言った。

「―――――悪かった」

「え?」

 ビックリして固まった私を見て、小さな声で斎が続けた。

「・・・・俺も反省した。俺の口が悪いのはお前は判ってるし・・・まさか、あんなことをするほどに傷つけたとは思わなかったんだ。そんなに傷つくとは。今は、考えれば考えるほど自己嫌悪に陥っている」

 私は目を見開いて、目の前に立つ男を見ていた。


 ・・・・・謝った。この男が。悪かったって、今・・・謝った・・・・。

 頭が真っ白だった。

 まさか、斎がそんなことを。


「・・・そんなに驚かなくても。俺だって悪いと思えば謝る」

 私の反応に苦笑して、斎がそう言うのと、電車が駅に入るのとが同時だった。

 呆然としたままだったけれど、私は開いたドアをいつもの習慣で降りる。この駅で降りる人は少なく、ホームは人影もまばらだった。

 電車のドアが閉まって発車する。私はホームに突っ立ったまま、振り返って斎を見た。

「・・・・本気で謝ってるの?」

「何だよそれ」

「信じられなくて」

 斎が困った顔をした。頭の後に手をやって、ガリガリとかく。

「・・・これ以上、俺はどういえばいいんだ?」

 風が吹き通る電車のホームで、他には誰も居なくなっていた。私は前に立つ斎を見詰める。やつも私を見ていた。

 ・・・謝った、んだ、この男が。・・・私に。

 頭を振って、私はもういいと呟いた。

「判ったわ、もういい。許してあげるから、ここでバイバイしましょ」

 へ?とマヌケな顔をして、斎が首を捻る。

「ここでバイバイって。だって、ラーメンは?」

「・・・一人で食えよ」

 私の言いように唖然とした顔をしたが、いいから食おうぜと強引に引っ張っていかれた。

「私はお腹空いてないのよ!」

「俺は空いてんだよ!それにお前、金の返済も済んでないだろ!」


 改札を出ても、まだ斎と言いあいをしていた。端的に言うと、私は多いに混乱していたのだ。だから本気で力をいれてやつの腕を振り払ったりなどは出来なかった。


 驚愕だ。謝られてしまったってことに。


 それが最終目標ではあったけど、まさか、電車の中でこんなあっさりと願いが叶うとは思ってなかった。 


 本当に駅前の、懐かしい中華料理屋まで歩く。

 ガラガラと引き戸を開けて二人で続けて入った。

「いらっしゃ―――・・・あら!」

 店のおばさんがパッと気付いて笑顔になった。

「まあまあ久しぶりねえ!元気だったの、二人とも?」

 エプロンの前で手を拭いて出てきたおばさんと斎が楽しそうに話している。この男は本当に愛想がいい――――――私以外には。

 私は先にカウンターの席に着き、厨房の中から覗いて手を振っていたおじさんに醤油ラーメンを注文した。

「あ、俺も。それと、チャーハン」

 バタバタと隣の席に来て、斎がカウンターから厨房に向かって声を張り上げた。

 あいよ、とおじさんが返事をして、おばさんが冷えたお茶を出してくれた。

 それを二人で飲んで、ほーっと息をつく。

 暑い中の冷えたお茶は本当に美味しい。クーラーも効いていて、汗がひいていくのが判った。

 斎に謝られたことでいきなり心が軽くなっていた私は、視界が開けて丘の上から遠くを見渡しているかのような開放感を味わっていた。

 目的が達成されてしまって、私の気持ちは晴れやかに。そこにきてこの冷えたお茶だ。それはもうかなりの心地よさだった。

「―――――お金は」

 斎が小さな声で言った。

 料理をする音とテレビの音で、周囲には聞こえないだろうというくらいの声で。

「お前の部屋で渡すよ。もうここは近いし、送っていったついでに」

 鍵を替えた部屋に住んでいるのに、そこに斎に入ってこられたんじゃ意味がない。私は首を振った。

「・・・送ってもらう必要はないわ。本当に近いし、大丈夫。食べた後に銀行に寄るんでしょ、ならお金はやっぱり振り込んでくれない?」

 斎はじっとこちらをみていたけど、ため息をついて目を閉じると頷いた。

「―――――――・・・判った。じゃあ、口座教えてくれ」

 私は鞄からメモ帳とボールペンを出して、支店名と口座番号を書いて斎の前に滑らせた。

「・・・じゃあ、41万、宜しく」

 黙ってメモを取った斎はそれをポケットにしまった。

「はーい、お待ちどおさま!」

 賑やかに登場したおばさんが、出来たてのラーメンを前に置いてくれる。

 さっきまでは確かにお腹が空いてなかったのだけれど、悩み事が解消した上で目の前に置かれると、やたらと空腹を感じた。

 私は嬉しくお箸を取り、頂きます、と手を合わせて食べ始めた。斎は少しボーっとしていたようだけど、私の視線に気付いて箸を取った。

 二人で黙ってラーメンを食べる。

 不思議な感じだった。

 もう別に話す事はなくて、懐かしい店で久しぶりのラーメンを並んで食べていた。

「美味かったよ、ご馳走様〜」

 斎が綺麗な笑顔を浮かべておばさんとおじさんにそういう。汗も引いてお腹も満たされて、幸福な気持ちで私も席を立った。

 また来てね、と手を振るおばさんに曖昧に微笑んで店を出る。

 もう斎とここに来ることはないハズだ。私はこの街から引っ越すと決めたし。

 そんな事はわざわざ言わないけど。


「・・・流石に日も落ちたな」

 斎が空を見上げて言った。

 いくら夏と言っても7時半過ぎ、既に辺りは暗くなっていた。

「そうね」

 私は斎を振り返る。

「それじゃあ、ここで。銀行どうぞ宜しくね」

 ここからは道路を渡って神社を通りぬけたらすぐに私のアパートだ。

 斎は鞄を肩に担いで言った。

「まり、せめてアパートまで送らせてくれ」

「いいってば」

 ヤツが困った微笑になった。その斎の顔を見ていたら、切なくなってきた。


 ――――――――やば。・・・何か、私、泣きそう・・・。

 太陽の残り日が地平線のビル群の隙間でオレンジ色に輝いている。

 夏の夜の風が通り抜け、小さい頃から流れてきたような懐かしい匂いがした。路地裏の声、蚊取り線香の煙、取り忘れた洗濯物、子供の家に急いで帰る声、そんなものが匂いとなって一気に押し寄せてくるようだった。

 ノスタルジーに捉われかけて、私はぐらりと心を揺らす。

 ため息をついてから唇をかみ締めて斎に背中をむけ、私は一言呟いた。

「―――――・・・勝手にすれば」

 斎を見ずに、そのまま歩き出す。ヤツが後ろをのんびり歩いてくるのが判った。


 虫の鳴き声が聞こえる。

 歩道を渡って、この街の土地神様である限田神社の階段を登って行った。

 私はいつもこの中を通り抜けてアパートまでのショートカットをしていた。2年5ヶ月付き合っただけあって、斎は勿論それを知っている。

 生ぬるい風が頬をなでる。

 階段を上りきった所で、斎が何か呟いたのを聞いた。

「―――――何か言った?」

 くるりと振り向くと、少し離れたところで斎が微笑んでいた。

「・・・・・いや、ごめんなって」

 周囲はすっかり暗くなって、神社にある二つの街灯だけでは良くは見えなかったけど、とても綺麗ないつものあの笑顔なんだろうな、と思った。

 彼の、あの美しい二重の瞳を柔らかく細めた、素晴らしい笑顔。

 私は少し笑った。

「謝罪はさっき聞いたわよ」

 私の返事に斎がまた笑った気配がした。ヤツは肩にかけていた鞄を持ち替えて下に降ろす。


 そして、フ、と息を吐いた。




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