3、ラヴァーズ・キス
ため息をついて歩き出す。夏の夕方で、6時すぎでもまだまだ明るく、風も熱くて街は人で溢れていた。
百貨店から連絡通路で繋がっている駅まで歩いていると、後ろから人が近づき、いきなり手を握られたから驚いて振りほどいた。
「・・・・・ごめん、驚いたよな、そりゃ」
桑谷さんが立っていた。
周りを歩いていた人たちが、何事かと振り返っていく。私は慌てて謝った。
「・・す、すみません、びっくりして・・・つい・・」
ぺこぺこと頭を下げたら、いや、俺が悪かったからと桑谷さんが笑った。
「そろそろ出てくるかと思って待ってたんだ。そしたら君が気付かずに行っちゃったから、つい手を取ってしまった」
人の流れに乗って歩き出すと、桑谷さんがそう言った。そして私を見下ろして聞く。
「手、繋いだら、暑い?」
え、繋ぐの?私は前を向いたままで目を瞬いた。
・・・・・恋人ではないんですが・・・。と思った。でも言わなかった。黙ってアクセサリーも何もつけてない手を差し出す。
それをするりと手を握って、桑谷さんは前を見て歩き出す。
何と、ドキドキした。
さっきまで考えてたことが原因であるに違いない、と思った。まさか・・・まさか・・・このシチュエーションを私が喜んでるなんてことは・・。
一瞬混乱して私は変な顔をしていたはずだ。
改札口が近づいてきて、彼が聞いた。
「・・・送って行こうか?それともどこかでご飯食べる?」
・・・お腹、さっきまで空いてたけど、今はもう判らない・・・。
「帰ります」
私が小さくそう言ったら、了解、と返事が聞こえた。
手を繋ぐには熱い気温だった。だけど、この手を外したくない、と思った。
電車の中では流石に繋いではいなかったけど、遠慮がちに手は触れ合っていた。それを意識してしまって彼の顔を見れない。
公衆の面前で話すこともなくて、窓の外を過ぎていく夏の夕方を見ていた。
「・・・メール、返さなくてごめん」
ぼそりと彼が言った。私は隣に立つ桑谷さんの顔を見上げる。
「いえ。忙しかったですか?」
「・・・寝てた。昼過ぎまで寝てて、そのあと買い物やらなんやらしてたらあの時間になったから、もうメールするより会いに行こうと思って」
ははあ!寝ていたのか。私は納得して頷いた。
「そうか、連勤だったんですよね。疲れは取れました?」
彼は電車のつり革に捕まって天井を見上げる。うーん、そうだな、と呟いてから答えた。
「まあ寝たは寝たから疲れが取れたとは言えるか。でも、人間って寝溜め出来ないってことがよく判った。寝すぎて今度は頭が痛くて・・・」
思わず笑ってしまった。
「桑谷さん、それ、年ですよ」
彼はむっとした顔でぷいと横を向いた。子供みたいだった。つい、あははははと笑いがもれてしまう。私の前に座った中年の女性が、ちらりと顔を上げて私を見たのが判った。
私の部屋の最寄り駅に電車が入っていき、笑ったまま降りる。
「・・・俺も行っていいの?」
後ろで聞く声に振り返った。そんなこと聞かれると思ってなくて、ビックリした。
「あれ?部屋には入らないつもりだったんですか?」
それを聞いて嬉しそうにする顔を見ていたら、意地悪がしたくなってくる。
「――――――そうですか、じゃあ、今日はこれで。送っていただいて、どうもありが――――」
大きな手の平が私の口に添えられた。
「行くってば。苛めんなよ」
彼は悔しそうな顔をしている。私が口角を上げてにやりと笑って見せたら、苦笑していた。
改札を出て駅前を歩く。
隣を歩く桑谷さんをやたらと意識して、もしかしたら歩き方が変だったかもしれない。
・・・・ああああ〜・・・・ヤバイ。うずうずしてきた・・・。全く、私は飲んだくれたおっさんかよ、と心の中で呟き、彼にばれないように深呼吸をする。
落ち着け、落ち着くのよ、まり!
ご飯を食べて、百貨店と作戦の話をする。そうよ、今日はそれが目的。桑谷さんとご飯を食べて、百貨店と作戦の話を、する。口の中でぶつぶつと繰り返した。
それなのに。
ホルモンの方が、理性を凌駕した。
鍵を開けて、玄関に入ったところで我慢が吹き飛んだ。
繋いだ手の熱さがそのまま私の体全身を駆け上って脳みそを支配したみたいだった。パッと手を離して彼に向き直る。
「え」
驚いて声を漏らす彼の唇目掛けて、私は背伸びをする。ぐぐーっと伸び上がって、目を閉じた。
閉めたばかりのドアに彼を押し付けて長い長いキスをした。彼の両腕を押し付けて、寄りかかって体重を預けて。
時間をかけて好きなように彼の唇と舌を味わい、ゆっくりと離して目を開けたら、桑谷さんは瞳を細めて私をじっと見ていた。体の力を抜いて、ただ立っている。抵抗もしなければ、抱きしめようともせずに、完全に受身だった。
「・・・・桑谷さん?」
出した声は掠れていた。私の瞳も潤んでいるに違いない。
「・・・・俺は」
彼は、さっき私がしたキスは大して影響がなかったような普通の声で、静かに言った。
「君に惚れてる。それは伝えてるはずだ。それなりに、いつも我慢してるんだ、君に触れるのを」
相変わらず体の力は抜いてドアにもたれかかったままで、淡々と言う。細めた黒目からは何の感情も読み取れなかった。
「―――――爆発して乱暴しないように、頑張ってるんだ。なのに、君にこういう事をされると・・・抑制が効かなくなるんだけど」
「・・・・・我慢してたんですか?」
「そう」
私は背伸びを止めて、足をつけた。彼の半袖から出た腕をドアに押し付けていた自分の手を見る。よく考えたらこのドアはかなり熱を持っているはずだ。それを全く感じてないかのような彼に驚いた。
「優しいんですね、桑谷さんは」
私が思ったことを呟くと、彼はため息をつく。
「・・・何なんだ、傷つきたいのか?」
「いえ」
「俺とどういう事になりたいんだ?付き合ってるんだと思っていいのか?」
私は視線を下に降ろして押さえつけていた彼の両腕から手を放した。
なし崩し的にアレまで持っていけるかと思ったけど、甘かった。桑谷さんもよく判らない関係はもうごめんなのかな。
彼は、私を大事に扱おうとしてくれているのだろう。それだけはハッキリと判った。
うかつな事は言えない。それに、この男性を傷つけたいわけでもない。嘘だけはつかないようにしよう、とゆっくりと言葉を選ぶ。
「・・・・・桑谷さんの事は、好きだと思います」
「うん」
「でも、男の人とまた普通に付き合えるのかが判らない。斎との事で私は痛い目を長い間見てきました」
「・・・」
「ただ、あなたに抱いて貰いたかったんです。斎に感じな――――――――」
ぐいと、急に両手を引かれて二人の体は入れ替わり、今度は私がドアに押し付けられた。
「うっ・・・!」
背中が真夏の太陽で温められたドアにぶつかり、痛みに声が出る。
「あいつの事を―――――」
食いしばった歯の隙間から、押し殺した声で彼が言った。急に発生した怒りの気配を感じて、私は驚きに目を見開く。桑谷さんの細めた瞳に暗い感情が見えた気がして、私は恐ろしさに一瞬体を強張らせた。
「名前で呼ぶなと言ったはずだ」
「―――――――」
桑谷さんは怒っていた。むき出しの私の肌に食い込む、彼の指が痛くて熱い。その激しい反応に私は目の前の彼の瞳をじっと見る。
急に――――――――どうして―――――――斎の名前にあまりに激しい反応・・・。緊張して、こめかみ近くを汗が流れる。
「初めて君と飲んだとき、好きな男も彼氏もいないと言ったよな」
「え?」
展開についていけずに私は思わず聞き返す。
低くてザラザラした声で桑谷さんは続けた。
「・・・でも今は、俺が好きだと言った」
「桑谷、さん?」
彼はぐぐっと更に顔を近づけて目を細める。
「――――――――なら、もう遠慮はしない」
その言葉を吐くやいなや、激しく唇を奪われた。
背中にドアの熱を感じたままで、息継ぎも出来ないキスをしながら彼の手が体中を触る。
私の足を割って彼の右足が割り込み、シャツの下に滑り込んだ手が乱暴にブラを押し上げて胸を愛撫する。
その激しさに驚いた。
玄関先で、服を着たままで、ドアの外に通行人の足音を聞きながら、どんどん侵略してくる彼の指に私は簡単に翻弄される。
「・・・や・・・ちょっ・・」
切れ切れに言うも、話そうとすると口はすぐに塞がれてしまう。顔を背けるとすぐに手で戻される。そして彼が吸い付き、舌が口中を蹂躙する。
「こんっ・・・な、とこ、ろ、で・・・桑た・・・」
私が呼吸するのに必死になっていると、ざらざらした低い声が耳元で責めた。
「―――――――ここで誘惑したのはそっちだろう」
彼は器用に私を押さえつけたままで下着を取り去る。大きな指が的確に私の弱いところだけを狙ってきて、我慢出来ずについ声を漏らしてしまう。
淡々とした声で彼が言った。
「・・・聞こえるぞ、外を通るやつに」
私が下唇をかみ締めて耐えていると、彼はその上から唇を押し付けてクククと笑った。
「俺は別に構わない。ほら、聞かせてやれよ」
近付いては遠ざかって行く靴音が余計に刺激になる。
膝が震えて立っていられなくて、手を伸ばして彼にしがみつく。いつのまにやらほとんど裸の状態で、声を出さないことだけに一生懸命になっていた。
「・・・ここ。それと・・ここもだな」
腰を抱え上げて突き動かされ、ポイントだけを何度も攻められる。世界は二人だけになり、羞恥心など吹き飛んでいた。自分が今どんな格好で、どこに何をされているかが判らなかった。
最初の時は、様子見だった。
次の時は、優しい、型どおりのやり方で。
そして今日のこれは、激しくて、淫らで、遠慮のない正直な欲望で溢れ返っていた。
「――――――目を開けて、俺を見て」
声は聞こえているけれど、快楽に流されてちゃんと反応ができない。ただ体を震わせてこみ上げる激しさに声を上げていたら、突然、動きが止まった。
満たされない体が泣き声を上げる。霞んだ瞳を無理やり開けて彼を見たら、目を細めて汗を流した桑谷さんが口元だけで笑った。
私はこんな状態なのに・・・まだまだ余裕気なその表情に悔しさが生まれる。
「目、閉じたらダメだ。俺を感じてるんだって判らせて」
「・・・・・」
「返事は?」
強く突き上げられて、思わず声が出た。力が入らない。何とか頷いて、また動きを止めてしまった彼に小さな声で言う。
「・・・は、い」
「聞こえない」
「はいっ・・・」
軽いキスをして、彼はゆっくりと微笑む。そしてまた動き始め、私を完全に支配した。
夏の夕方、私の部屋の狭くて小さな玄関は、世界中のどこよりも、やらしくて、激しくて、熱かった。
全て終わった後、まだ整わない呼吸の中、切れ切れに、彼が言った。
「・・・謝らねーぞ。俺は人が好くて優しい男なんかじゃない。貪欲で、我儘な、33歳の男だ」
荒い息の中繰り返した口づけで、私は眩暈が酷かった。くらくらと回る世界の中で、全世界は溶けて流れ出していた。
こんな底抜けの快楽をくれた男は初めてだった。
こんなに激しく求めてくれた男も初めてだった。
我を忘れて反応した自分に驚いていた。
そして、この人から離れるつもりがないことを悟った。
―――――――――恋というのは、落ちるものだったんだって、今本当に理解した。
「・・・桑た・・・・―――――彰人、さん・・・」
私を見詰めていた彼の目が、一瞬大きく開かれた。
初めて彼の名前を呼んで、汗だくの体を抱きしめ、私は言った。
「・・・・恋、しちゃったみたい・・・あなたに」
まだ体が繋がったままだった。それにほとんど全裸で玄関の扉に背中を押し付けられたままでの告白に、唖然とした後、本当に嬉しそうに、彼が笑った。
初めは口の中で、それから声に出して、あはははと笑う。
抱え上げた私の腰に回した手に力を入れて、ゆっくりゆっくりと柔らかく唇を押し当てるキスをする。
潤んだ視界の中、彼が真っ直ぐに私を見詰めていた。
「・・・じゃあこれは恋人のキスだな」
私は荒い息をしながら、ふふふと笑う。
嬉しかった。
体中痛くてベタベタしていて、唇は間違いなく腫れ上がっているだろうし、温度の上がりすぎた玄関先で倒れそうな眩暈を感じていたけれど、全身を満たすのは、強烈な喜びだった。
「痛かった?」
桑谷さんが私を下ろしてそう聞く。二人とも汗だくでヨロヨロだった。凄い場所で、凄い激しい運動しちゃったな、そう言って彼は苦笑する。
「大丈夫、です」
ちょっと嘘だけど。でもだって、あなた謝らないって言ったじゃない、私はそう心の中で呟いて、重たい体を引き摺って居間へと入って行く。
それぞれがシャワーを浴びて綺麗になり、クーラーの空気に冷やされて正気に戻ったあと、照れながら玄関を片付けて、足に力が入らないまま台所でご飯の支度をした。
そして何とか笑いながら二人で食べて、少しだけお酒も飲んで、また腕枕で眠りについた。
幸福だった。
私をとりまく世界は淡いピンク一色で、斎のことも、小林さんのことも、頭から消していた。
翌朝起きたら、もう桑谷さんは居なかった。
テーブルの上のメモ帳に、『仕事に行ってきます。今日はゆっくり休んで』と書置きを見つける。
私はそれを手を伸ばして破りとって、手帳に挟んだ。
寝転んだままで、部屋の天井を見上げる。
彼は、私の大事な人になったんだ―――――――――
体も心も軽くなった感じがした。
窓を開けて扇風機を回す。
汗をだらだらとかきながら、真夏の街が遠くで霞むのを窓側からみていた。
恋をしちゃった・・・。呟いて、一人で笑う。
ある程度の復讐は斎にした。全てではないがお金も戻ってきたし、謝って貰ってはいないけれどもあの男の思惑は全部壊した。
アイツは今、確実に不幸の中を漂っている。何もかもが思い通りにいかなくてイラだっているはずだ。そして私は男性と恋に落ち、手の中では希望がキラキラと光っている。
小さな小さな輝きでも、確かにそこにあることが判った。
もう男を好きになんてなれないんじゃないかと思っていた。
こんな穏やかな気持ちにはなれないのではないかと。
甘くなってしまった体を自分で抱きしめる。
・・・・・良かった、また愛されて。良かったね、私。斎が吐いた暴言は、桑谷さんが流してその穴を埋めてくれた。
あの力強さと率直さで。
冷たい水を飲んで、顔を洗う。
真っ白な気持ちになった私が、鏡の中で笑っていた。
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