2-A


「・・・・最近、部屋の模様替えをして、家具も新しく買ったんです」

 嘘ではない。桑谷さんは、ふーん、と言っていた。

 豚のしょうが焼きを定食みたいにして作って出したら、喜んで食べてくれた。飲みます?と聞いたら嬉しそうに頷いたので、缶ビールとグラスを出して置く。

「あ、美味い。嬉しいなー、人の作ってくれたご飯」

「ああ、それ判ります。一人暮らししてると有難いですよね、人が作ってくれるっていうのが、それだけで」

「そうそう」

 前に座って、私もビールをまた新しく出して飲む。

「・・・頬、赤くなってる」

 私のほうを見ずに、ご飯をかきこみながら彼が言った。

「3本目ですからー、ちょっと酔ってるかも・・・」

 ケラケラと笑ったら、機嫌いいなー、とホッとしたように彼が言った。


 ご馳走様でした、と彼が手を合せる。

「お粗末様でした〜」

 私は綺麗に空になった食器を運んで流しに置いた。明日は私も休みだし、もう片付けは明日に回してしまおうと思っていた。ビールがぬるくなる。

「ありがとう、本当に美味かったです」

「いえいえ、喜んで頂けて何より」

 小さなテーブルを挟んで座り、ビールを飲む。喉をみせて大きく呷る桑谷さんを見ていたら、この部屋に斎以外の男が・・・と思って不思議な気分になった。

 斎意外の男の人が入ったのは、初めてだ、よく考えたら。

 酔いだした視界で、つい、缶を持つ大きな手や、喉仏の辺りや、後ろにすいてサムライヘアーにくくっている髪の毛の後れ毛なんかを見詰める。

 あら、こんなところに素敵な喉仏と顎のラインが。そんなことを思って一人でおかしくなった。笑いは何とか飲み込んだけれど、目は中々離せない。

 ・・・・・ヤバイ。さっきまではなかった色気を感じ出している。

 そして、頑張っているけど目が離せない。

 ・・・・ってことは、当たり前だけど、私も―――――

「・・・その目で見るの、止めてくれる」

 低い声でそう言って、桑谷さんが缶ビールの淵からこちらを見た。

 私は謝りはせずにただ微笑する。

 ・・・やっぱり。やらしい目で見ていたに違いない。ううーん。ヤバイ、このままでは確実に―――――――――

 そういえば、女は30代が、一番エロイとどっかで読んだなと、ぼんやりした頭の片隅で考える。それは生物学的なことで、最後に子供を一人でも多く産もうとする為に体がそのようになるんだ、とか何とか。ちなみに男が一番性欲旺盛なのは17歳や18歳らしいけど。

 女友達の一人なんか、最近男をみるたびにこの人とセックスが出来るかどうかをまず考えてしまうの、って困っていた。

 好きとか嫌いとかではなく、その前に、男性としての色気をみてしまうんだと。

 ――――――――そして、私は30歳の独身。まさしく、今、その状態。

 燃えるような恋心を持っているわけではない。まだ、この人を全身全霊で欲しているわけではない。彼氏、恋人になってほしいかどうかは判らない。

 でも、今はとにかくこの男に抱かれたい―――――――――――

 もう一口、ビールを飲んで、私は笑った。

「すみません、私、ヨクジョーしてるんです」

 彼の、ビールを口元へ持っていく手が止まった。え、ていう顔で固まっている。

「―――――――え?」

 桑谷さんがが聞きなおす。それも可笑しくて、私はついにあはははと声に出して笑う。缶ビールをテーブルにおいて、彼を見上げる。

「ヨクジョーですよ、今、桑谷さんに・・・」

 ぐいっとテーブルに身を乗り出して、自分から彼の唇に自分のをゆっくりと押し付けた。一瞬彼がハッとしたように体を固めたのが判った。

「・・・欲情、してるんです、私」

 少しだけ離して、合せたばかりの彼の唇を見詰める。それは薄くて少しだけ色づいていて、ビールの味がした。

「・・・・・欲しいんです、キスが」

 もっと激しいヤツが。

 唇から視線を上げたら、欲望に染まった瞳にぶつかった。

 彼が缶ビールをテーブルに音を立てて置く。ゆらりと何かの気配が立ち上ったのが判った。

「―――――今夜も一晩、俺にくれんの」

「・・・あげますよ、明日の朝も」

 にっこりと笑ったら、あとは簡単だった。

 狭い部屋だから、布団までは30秒で到達する。彼がテーブルを回ってきて私を押し倒し、待ち望んでいたキスをくれる。だけどそれは、激しいものではなくてゆっくりとした熱くて深い口付けだった。

 彼は少し目を開けた状態で、私の下唇を噛んで舐め、舌を絡ませた。

 大人って、こういうことを言うのかな、と思った。あんなに激しい瞳で見るくせに、まだ余裕があるようなのが癪に障る。

 片思いは俺だけかよ――――――――――

 桑谷さんの言葉が蘇った。私はちょっと悔しくなる。だって・・・今、必死なのは、私だけ。

 思う存分、全てを忘れて抱かれた。今度は本気で彼との行為を楽しめた。そして、どこにも帰らなくていい私の部屋で一緒に眠った。


 それはとても、素敵なことだった。

 天上世界を垣間見て、私はその幸せな気分のままで眠りに落ちた。

 夢も見ないで、彼と抱き合って。


 裸のままで、一つの布団で抱き合ったまま目が覚めた。

 目が覚めた時は一瞬混乱したのだ。あれ?手が動かない、とか思って。それから隣で眠る桑谷さんに気がついて、私はようやく思い出した。

 ああ、そうだ。昨日の夜はとても楽しかった、って。

 私が見ていると、動いたせいか彼も目を覚ました。

 うううーん・・・と絡まった手足を解いて、眠い目をこすっている。

「おはようございます。手足、痺れてませんか?」
 
 うっすらと瞳を開けた男に聞くと、寝起きの掠れた声で、大丈夫、と返ってきた。

 壁の時計を仰ぎ見ると、朝の9時過ぎだった。枕元のリモコンでクーラーを入れる。こんなに暑い部屋で、人肌の熱さも気にせずによくも長い間寝れたもんだと感心した。

「ちゃんと、寝た?」

隣で大きく伸びをした桑谷さんが聞いてくる。

「はい、今回はちゃんと。ところで桑谷さん」

「ん?」

「今、おいくつですか?」

 暑い、とタオルケットを跳ね除けて、仰向けからうつ伏せになった桑谷さんが、目を閉じたまま答えた。

「33。・・・君は?」

「30です」

 へえー、3つ上だったんだ。落ち着いた物腰や言動で勝手に年上だろうと判断していたけど、33歳。そりゃあ男としていい時期だよね。

 掛けていたタオルケットをどかされたので全裸のまま横たわる私を、長いこと見詰めて彼が微笑んだ。

「・・・・裸のべっぴんさんが、隣で寝てる・・・」

「服、着ましょうか?」

 観賞に値する裸であるとは思ってない。だけど彼はにっこりと笑って首を振る。

「寒くなかったらそのままでいて」

 私は枕を引き寄せて頭をのせ、頷いてから口を開いた。

「・・・・こんな格好ですけど、昨日の続き、いいですか?」

「朝から抱いてもいいの?」

 彼が目を開いて私を見る。私はにこりともせずに打ち消した。

「―――――――その続きじゃなくて。店食の話です」

 彼は、あははは〜と軽く笑った。そして右手で顔をこすって、ため息をつく。

「どうぞ」

「私が何をしてると思ってるんですか?」

「危ないこと。・・・多分、ガリフの守口に関することで」

「どうして危ないことだと思うんです」

 彼がうつ伏せから横向きに転がって、強い片手で私を抱き寄せた。

「・・・階段で君が落ちてきたの、あいつが押したんだ、と確信を持ってる」

「・・・・」

「その後注意してみていたら、君達二人は売り場で話そうとしてない。通路ですれ違う時なんかはにらみ合ったりしている。それと――――――」

「それと?」

 間近にある一重の瞳が真っ直ぐ私を見ている。

「・・・・二人とも、それぞれに色んな人たちとよく話してるのを見る。周囲に気を配ってるのが判った」

 ・・・本当、よく見ている、この人。特に私に注意を払っていたんだろうから判ったんだろうけど、この男はバカじゃない。

 彼は口を閉じて目も伏せた。私の説明を待っているけど、それは君のペースに任せる、というような雰囲気が漂う。

 クーラーが効いて少し冷えだしたので、タオルケットを肩まであげた。

「・・・あれ、隠しちゃうの?」

「寒いので」

「おいで」

 また抱きしめられて、目を開けたままで軽いキスをした。それは一度では収まらず、彼はわざと音を立ててキスを繰り返す。

 桑谷さんは私の唇から耳朶、鎖骨のくぼみにも順番に舌を当てる。右手が降りてきて太ももの内側に入り込んだ。

 昨日の夜を思い出して体が熱くなりかけているのが判った。彼の指と舌が生き物みたいに動く。

 だけど、今はダメでしょ。私は何とか煩悩を追い払うと、私の首筋に唇を這わせていた桑谷さんに言った。

「・・・・・守口さんには貸しがあります」

「貸し?」

 驚いたのだろう、パッと愛撫をやめて、彼が顔を上げた。

「私の貯金の200万が、アイツに盗られたので。返せと責めました」

 目を見開いた。真剣な顔になって、桑谷さんが私の体から手を離す。

「200万?盗られた?」

「正確には、201万。私が居ない間に通帳と印鑑を持ち出して、勝手に下ろしたんです」

 そんな事とは思ってなかったらしい。驚いた表情は崩れないまま、唇に人差し指をあてて考えていた。

 そして、裸のままで寝転ぶ私を見た。

「・・・・それ、俺が払うっていったら、手を引くか?」

 私はじっと、彼を見た。そして思ったままを言う。

「・・・意味が判りません。どうして桑谷さんが払うんですか」

 彼の一重の瞳が鋭く細められた。口元もぐっと結んでいる。真剣な顔になると、男らしさが強調される人だ。

「それで君が危ない事を止めるなら、出すよ。守口は犯罪を犯したわけだろ?そんなヤツを責めるなんてどうかしてる。・・・気持ちは判るにせよ、危ない。現に君は階段から落とされたわけだし」

 それだけではないんだけど、私は心の中で呟いて、彼から視線を外した。

 起き上がってタンクトップを着て下着とショートパンツをつける。そして台所に行って冷たい水をコップに注いで一気飲みした。

「水、いりますか?」

「今は要らない」

 私は肩をひょいと竦めた。

 そして、コップをシンクに置いてから寝転んだままの桑谷さんを振り返って言った。

「・・・・お金は勿論大事。でもそれだけじゃないんです。・・・アイツは・・付き合っている間色々なことで私を苦しめた。言葉、態度・・・なのに、傷ついたのは私だけで、アイツは全然平気な顔してのうのうと生きている」

 震える手をコップで隠した。

「諦めようとしたこともあるんです。だけど、仕事についてから顔を合わせるあの男の平気な顔を見ていたら・・・何もしないなんて出来ない、そう思ったんです。お金を返して、そういったらあのバカは私を階段から突き落とそうとした。そんなこと、許せるわけがない」

 彼は黙って聞いている。

「私は、あいつが許せない」

 桑谷さんの目は私の手元を見ていた。気付いているんだ、私の高まる感情に。

「―――――金を盗られただけじゃあないんだな」

 はあ、と彼が大きなため息をついた。

 眠る前にほどいた彼の黒髪がシーツに広がっている。横向きに寝転がる彼の顔にかかる前髪を、大きな手でかきあげて唸っている。

「・・・詳しく聞きたいですか?」

 私が口元を歪めて聞くと、いらねーと手を振った。

「聞くのが辛そうだから」

「不快ではあるでしょうね」

 じゃあやっぱりいいや、そう言って手をフラフラ振っていた。そして、あーあ、と呟く。

「・・・折角君といい時間を過ごせたのに。・・・守口のせいで台無しだ」

 その拗ねた言い方に、申し訳なくなった。まあ確かに性欲は吹っ飛んだよね、そう思って。

「すみません」

「別に、君が謝る必要はないんだけど。―――――よし」

 最後を勢いよく言って、彼がガバッと起き上がった。

「何が問題か教えてくれ」

 私は台所の入口に肩を預けて考える。

 ・・・どうする、この人にどこまで話す?凄い勢いで考えた。だけどもこれ以上私が個人で動いてどうにかなるものでもない、てことは判っている。お金の出所が知りたければ、もっと突っ込める協力者が必要だ。

 この人は、斎が私を階段から突き落としたことは知っている。

 それに百貨店の社員。


 ――――――――よし。


 覚悟を決めた。

「・・・・斎が、50万返してきたんです。でもあいつがそんなお金持っているわけがない。どこで手に入れたのかと調べてました」

「うん」

「そしたら、百貨店の社員さんと最近たくさん話しているのが判りました」

 そして、皆から集めた情報と、私の考えを話した。シーツの上に座り込んで、目を伏せたまま桑谷さんは聞いている。そして、全部を聞き終わってから、にっこりと笑った。

「俺が、調べる」

「は?」

「こっちの社員には、俺の方が話は聞きやすい。俺が調べる。だから頼むから―――――」

 彼の笑顔がヒュッと消えた。睨みつけるような目線で、低く言った。

「・・・しばらく大人しくしといてくれ」


 優しい表情は完全に消えて、獰猛な顔つきになる。私はその場で一瞬怯える。これが、さっきまで私を抱いて微笑んでいたのと同じ男?

 あの悪戯っ子のような瞳はどこに消えた?彼の雰囲気は今や一遍し、その迫力に、自分の部屋に入れてしまったことを後悔するほどだった。

 ・・・この人は、恐ろしい男なのかもしれない。

「いい?」

 返事がない私に彼が重ねて聞くから、はい、と答えた。

 どのみち、これから真夏の繁忙期に入る。斎は仮にも繁盛店の店長だし、ほとんど店に出てると思って間違いない。私は私で勤務があるし、とにかく夏を乗り切らねば、と思った。

 立ち上がって服を着だした、大きな男の人を眺める。

 私は今、少しややこしいことになっているかもしれない。だけど―――――――――


 誰かと話すということ、誰かに頼るということ、それは何て心地よいのだろう・・・。


 例えそれが、よく判らない男性であったとしても。

 一人じゃない、その安心感が私を侵食していくのは早かった。


 シャワー借りていい?と言う彼の声に応えるべく、台所から出た。




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