1−A



 売り場に戻ると、竹中さんが興奮で顔を赤くして待っていた。

 まさか、もう田中さんは喋っちゃったの?とちょっと呆れて隣を見ると、田中さんは居なかった。

「小川さん、小川さん、誰が売り場に来たと思います?」

 ・・・・何だ、小林さんの話じゃないみたい、と息をついて、私物鞄をしまいながら尋ねた。

「売り場に?さあ、誰?」

「百貨店の社員さんですよー!大きくて、長い髪をくくってる人です!」

「え?桑谷さんが?」

 竹中さんの興奮が判った。あんな目立つ男の人がチョコレート屋にきたら、そりゃあビックリだろう。もしかして鮮魚売り場のエプロン姿で来たのだろうか、と考えて私は苦笑する。あの格好はまさしく港の卸業者さんそのものだから、このやたらと小綺麗なお菓子売り場には似合わない。

「小川さんは休憩ですって言ったら、じゃあまた後でって言ってました」

 竹中さんはうふふふ〜と笑って、カウンターに身を乗り出して聞く。

「いつの間に仲良くなったんですか〜?もしかして、彼氏になったとか?」

 お目目、超キラキラ・・・。私は考えもせずに事実だけを述べる。

「・・・いや、まだ」

「まだってことは、見込みあり?!」

「・・・あっちは好いてくれてるみたいだけど・・・」

 多分ね。心の中で付け足した。売り場で一番若い彼女は、きゃああ〜と喜んでその場でピョンピョン跳ねていた。こらこら、お客様から丸見えです、とたしなめる。

 馴れ初めを、是非!と言うのを、先に在庫でしょうとスルーして、さっさとノートを持ってストック置き場に向かう。

 やれやれ・・・。倉庫に歩いていきながら、マーケットを見回す。

 姿は見えなかったけど、出勤だったのかな。売り場にいないということは裏で魚を捌いたりしてるのかな。

 一緒に飲んだ昨日、鮮魚売り場の業務内容を聞いていた。かなり多岐に渡り、驚いたものだった。

 捌いたり積んだりで常に触るから、俺、魚臭くない?と笑っていた。


 倉庫に入り、自分の店が使っている棚の前でノートを開く。トラウマになってしまっていて、ここに来るたびに、思わず頭上をチェックせずにはいられなかった。

 周囲をやたらと確認してから倉庫に入る、まさしく変な女だ。

 商品ごとに数を数えて書き込んでいたら、足音が聞こえてヒョイと顔を上げた。

「おい、これ」

 立っているのは斎だった。確かに疲れた顔をして、いつも輝いて見える美男子が今日は迫力がほとんどない。

 手にした白い封筒を私の方へ差し出していた。

「・・・・・何、これ」

 じっと見つめる。それなりの厚さがある白い封筒。ピンときた。

「お金?」

「とりあえず、50万入ってるから」

 私はすぐに受け取らずに、ノートを棚へ置いて斎を見る。

「・・・どうしたの、このお金」

 ヤツの綺麗な顔に一瞬イラっとした表情が浮かんだ。ぱたぱたと封筒を揺らす。

「どうでもいいだろ。返せっていうから作ったんだよ。いらねーのかよ」

 礼も言わずに手首のスナップをきかせて封筒を奪い取った。パシンと音がして、ヤツの手がはねる。

「・・・むかつく女だな」

「それはどうも」

「礼はねえのかよ」

「私のお金でしょうが」

「昔は可愛かったのに」

「あんたのお陰で陰険になったわ」

 言い合いに目を細めて不機嫌そうにふん、と鼻をならす。そのままパッと背中を向けて、斎は立ち去った。

 ほお〜・・・っと緊張を解く。知らず知らずの内に、ヤツが身近にくると緊張するようだった。生存本能のなせるわざか!

 封筒の中身をちらりとみると、確かに諭吉さんが沢山入っていた。そのまま数えずにエプロンのポケットに落とす。

 ・・・詮索はやめよう。私には関係ないし。少なくとも今は、そんな時間もないし。

 うん、と自分に頷いて在庫チェックに戻った。

 倉庫を出ると、売り場にまっすぐには戻らずマーケットの鮮魚売り場の前通ってみた。すらっとした大きな背中を探す。しかし、夕方でマーケットはお客様でにぎわっていたから、結局姿は見つけられないまま売り場に戻った。



 ・・・・終わったあああ・・・。

 午後8時半、本日の勤務が終了し、ロッカールームに置いてあるベンチに座ってしまった私は、そこから動けないでいた。

 あああ〜・・・・もう、ここで寝てしまいたい。着替えるまでは、他の人々に混じって流れるように出来たけど、一回座ってしまったら凶器のように眠気が襲ってきた。

 一瞬でも目を閉じたらそのまま10時間ほどは眠ってしまいそうだ。

 ううう〜・・・でも、何とか帰らないと・・・。明日は休みだし、昼過ぎまで眠れる身分じゃないの!と自分に叱咤激励を繰り返す。

 それに今日は大金まで持っているのだ。無事にこれを持って帰って、銀行に入金せねば。

 疲れたような暗い斎の顔が瞼の裏に浮かんだ。

 ・・・・絶対、普通の方法でない気がする。このお金の出所。

 思考の深みに嵌りそうなのを自覚して、よっこらせと体を起こした。

 とりあえず、帰らなくちゃ。

 ふらふらと店員通用口まで歩く。

 眠い眠い眠い・・・・。ぐるぐると頭の中で繰り返して、余計眠くなる。

「お疲れ様でした」

 警備員に声をかけられて、許可証を出してないのにやっと気付いた。急いで鞄を探って出し、無事に外へ出る。

 ぬるい風が頬を触っていく。

 昨日はここで、桑谷さんが待っていたんだった、と思ってそっちの方を何気に見ると、昨日と同じ影がゆっくりとこちらに歩いてくるのを見た。

 デジャヴかと思って一瞬目が覚めた。

 それは幻なんかではなく、ちゃんと桑谷さん本人だったけど。

「・・・お疲れさん」

 今朝、早朝も聞いた声なのに、懐かしく感じた。

「・・・・お疲れ様です」

 小さく答えると、彼は不思議そうな顔をした。

「どうした?ぼんやりしてないか?」

「・・・・・眠くて」

 その返答ににやりと笑ったみたいだった。

「やっぱり寝てなかったんだ。起きたら一人でビックリした」

「・・・すみません。仕事もあるしと思って先に失礼しました・・・」

 本当に眠そうだな、と呟いて、彼が私の顔を覗き込んだ。

「色々話をしたかったんだけど。・・・無理っぽいな。送るって言ったら迷惑かな?」

 すぐに返答出来なかったのは、別に困っていたとかそんなのではない。

 正直、どうでもよかったのだ。眠すぎて。

「・・・困ってる?」

 聞いてくる本人の方が困ってるようだったから、少し笑えた。

「・・・・いいえ。迷惑じゃないですけど、本当に眠くて眠くて、相手が出来るかどうか自信ないです・・・」

 すると彼は、また子供みたいにニッコリ笑った。

「お構いなく。送りたいだけだから。車なんだ、寝てていいから」

 ぼーっとしながら、はーい、と返事をした。

 普段は気軽にあまり知らない人の車なんかには乗らないが、この人が変質者でも、いいや、とにかく眠れるなら。そんな心境だった。

 大体今は、悪魔の斎に比べると他の全ての人間が天使に思えるぜ。

 ミニバンの助手席に座って何とか住所を伝えると、本当にすぐに私は寝てしまったのだった。


 乗っているのは30分くらいだと思うが、昏々と寝ていたようだ。

「・・・・起きて」

 よく通る声で何回か言われて、ハッと目を覚ました。

 ガバッと身を起こして周りを見る。

「ごめん、着いたと思うから起こした」

「え?」

 隣を見たら、運転席から桑谷さんがこっちを見ていた。私は呆けた顔で、彼をじーっと見詰める。・・・あら?どうして桑谷さんが、ここに?ってか、ここはどこ?

 ちょっとしたパニック状態で恐る恐る口を開く。

「・・・・桑谷、さん」

「うん」

 周囲をぐるりと見回したら、見覚えのある場所だった。そこでやっと思い出す。そうだ、通用口のところに彼が待っていて―――――――――

「・・・えーっと・・・・送ってもらったんですか、私?」

 彼は小さく苦笑した。

「そう。ほとんど寝てたもんな、百貨店出てきたときには」

「・・・すみません」

「いえいえ。送らなかったら、逆に危なかったかもな。電車は確実に寝過ごしだな」

 あらまあ、私ったら・・・。片手をおでこに当てて唸る。なんて女だ。

「家、このアパートであってる?」

 桑谷さんが、道の向こう側のアパートを指差した。私は頷く。

「はい、あれです。本当にすみません。―――――あの、コーヒーでも・・・」

 言いながら運転席を見たら、ハンドルに腕をおいた体勢で桑谷さんは首を振った。

「そうしたいのは山々だけど、今日は遠慮しとくよ。帰って寝た方がいい」

「でも」

「上がったら―――――」

 私を見て、口の端をあげ、にやりと笑った。悪戯っ子のような笑顔だった。

「また、君に手を出したくなる」

 私も何とか笑顔を作った。

「・・・元気ですね」

 いやいや、そう言いながら桑谷さんは運転席にだら〜っともたれかかった。

「元気ねーよ。俺明日は早番だし、もう実はクタクタのぼろぼろ。今日は苦情処理もあってそんなに売り場に入れなかったし」

 ・・・へえ、そうだったんだ。苦情処理もしてるなら、結構責任者なのかな?売り場に見当たらなかったのは、裏で事務所に入っていたからなのか。

 私はふう、と小さく息を吐いて頷いた。

「・・・じゃあ、帰ります」

 鞄を持って、座ったままで頭を下げる。

「送って頂いてありがとうございました」

「ああ」

 車から降りて、ドアを閉める時になって、気付いた。あ、と口から言葉が出る。

「ん?」

 シートベルトをひっぱりながら、桑谷さんが私を見た。

 ドアを一度閉めると、窓を開けてくれる。私は運転席側に回り、窓際に顔を寄せて聞いた。

「桑谷さん、下の名前、何て言うんですか?」

 彼がにっと口の端を持ち上げる。

「おー、俺に興味持ってくれてんの。嬉しいー」

 ・・・・軽い。この体格のいい男が、このノリってどうよ。私が正直にがっくりしていたら、あははと笑った。

「何だと思う?」

「・・・・・もういいです。帰ります。お休みなさい」

 体を起こして行こうとしたら、窓からシュッと手が飛んできて、私の手首が捕まった。

 そしてそのまま引き寄せられて、するりと窓から身を乗り出した彼にキスをされた。

 唇に、温かくて柔らかい感触。

 押し付けるのではなく下唇を包み込むようなそのキスに、一瞬のことで、反応も出来なかった。

 私が目を開けたままで驚いていると、唇を離して近距離で見詰めながら、桑谷さんがボソリと言った。

「・・・あきひと」

「え?」

「名前、彰人。宜しく、小川まりさん」

 そのまま呆然としていたら、彼は私を放してシートに収まり、ひらりと片手を振って窓を閉める。ゆっくりと目の前を通り過ぎていく車を、角を曲がって消えるまで見詰めていた。

「・・・何で・・私の名前・・・」

 知ってるんだろう。

 自己紹介をした覚えはないんだけど・・・。

 ぼーっとしたまま突っ立っていた。

「くわたに、あきひと・・・さん」

 眠気は覚めていたけれど、唇に残った感触が私の中にざわざわとした生き物を生み出して、混乱したような状態だった。

 ようやく頭が動き出して、とにかくと自分の部屋に帰ったのは、その10分も後だった。




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