3−A



「悪い。でも同じ相手なら、ヤローが下手なだけじゃねえの、と思って」

 私は首を少しだけ捻る。別に斎を庇うつもりはないが、そんなことはない・・・と思う。

「・・・そんなことはないと思うけど。ずるずると付き合っていて、私はとっくに冷めてたんだな、て最近気付いたし。感じられないとしたら原因は私にあると思う」

「なら、さ」

 桑谷さんは椅子の背にだらりともたれて、明るい声で言った。あっけらかんと。

「俺を試してみない?」

 その言い方に呆れた。

「・・・軽ーい」

 相手を横目で見ると、彼は苦笑しながらヒゲの伸びかけた顎を撫でていた。

「真剣に言えば、チャンスをくれるのか?―――――――――それじゃあ・・・」

 何かを企んだような声にパッと振り返ると、いきなり腕が横から飛んできた。

 驚いて固まる私の椅子の背に右腕をのせてぐぐっと体を寄せる。そのままで唇を近づけ、無防備な私の耳元で静かに言った。


「このあと時間は?―――――――今夜一晩、俺にくれないか」



 私は思わずパッと両手で耳を押さえた。

「―――――――――」

 体中の血が顔に集まったのかと思った。きっと真っ赤になっているだろう。

 私を動揺させた張本人は乗り出していた身を引いて自席の椅子にもたれ、目を細めてこちらをじっと見ていた。

 そしてカウンターの中に、静かな声で、お愛想、と言った。

 私はいきなりうるさく鳴り出した鼓動を抑えようと小さく深呼吸をする。全身が熱を持っているのはアルコールだけのせいではない。それは確かだ。

 彼が立ち上がってレジへと向かう。

 私は鞄を掴んで何とか立ち上がり、次に誘われてるのに会計に口を出すのも失礼だろうと先に店を出た。


 生暖かい風がボブの髪を揺らす。


 ・・・・ビックリした。耳朶に感じた吐息を思い出して身震いした。

 自分の反応にも驚いていた。まさか、17や18の小娘じゃあるまいし、なんてウブな反応を・・・。もう30歳だというのに。

 いやいや、そんなことより―――――――――


『このあと時間は?―――――――今夜一晩、俺にくれないか』

 低い声が蘇る。それは私の体温を再び上昇させて、夜空に上っていく。

 どうするの?帰るなら、今しかない。会計にしては時間が掛かっているのは私に猶予をくれているのだろう。

 彼についていく?それとも一人で帰る?着いていけば―――――――それは勿論、抱かれるということだ。

 突然降って沸いた恋愛の気配に混乱していた。だってそんなつもりは全然なかったのだ。ただ晩ご飯を食べて倉庫と階段で助けて貰ったお礼を言い、別れるはずだった。そして私はいつものように一人の夜を過ごして、斎のバカ野郎への対応を練って・・・。

 行動を起こせば何かがガラッと変わってしまう、それが判っていて、それでも私の足は電車へ乗るためへの一歩を踏み出せずに、その場に留まっていた。

 だって私は――――――――復讐の・・・途中で・・・。

 あの人は、まだ二回、いや、三回しか話したことのないよく判らない男で・・・。

 
 ガラガラと音がして振り返ると、彼が店から出てきたところだった。

 彼は暖簾をくぐり、私を見て立ち止まった。ハッキリとした顔が店の明りに照らされてよく見える。少しばかり驚いているようだった。

 私はそれを見ながら心の中で苦笑する。・・・驚いてるわ、あの人。まあね、私だって驚いてる――――――――

「・・・帰ったと思った」

 桑谷さんはゆっくり近づいてきて、私の隣に並ぶ。風に彼の髪が揺れて顔に被さる。それを首を振って払って、淡々と言葉を出した。

「君のとこ、俺のとこ、それともホテル」

 ゆっくりと私の目の前に手が差し出される。大きな手だった。私はそれを慎重に掴んだ。

「・・・・・・ホテル」

 また風が吹いてシャツの袖をはためかす。

 口元にうっすらと微笑みを浮かべて、桑谷さんが静かに言った。

「・・・了解」


 スタスタと歩く彼に手を引かれてついていく。生暖かい風を感じて、真っ暗な空を見上げたりしていた。

 ・・・都会では、星が見えない。ずっと前から当たり前に思っていたそれを、何故か今晩は残念に思えたのだった。

 少し、緊張していたのだと思う。


 シンプルなビジネスホテルの部屋に入ってからは、考えるのをやめた。

 別に悩む必要などないのだ。

 彼はよく知らない気を遣う必要のない相手だし、好きで付き合っている、大切にしたい彼氏ではない。これで付き合いが壊れてしまうのが困る友達でもないし、職場でも直接は関係のない人だ。

 しかも、最初からこの行為を楽しめないかもしれないってことまで、私は告知しているわけで。

『俺を試してみない?』といった、彼の言葉をそのまま受け入れることにした。

 化粧は落とさずにシャワーを浴びてから、白いシーツに横たわる。自分の部屋にいないことだけが、不思議に感じられた。

 ・・・あら、私、ホテルになんているんだわ、って。


 彼の男っぽい外見から想像していたのは、多少強引なセックスだったけど、実際はそんなことはなかった。

 初めはほとんどリードらしいリードもなく、私の思うように動いていいと笑った。

「リラックスして。なんなら、マッサージだと思えばいい」

 男性の体を自分の好みのままに触ったことなどなかった。だけど私は、頷いたのだ。考えないって決めたのだから。

 恐る恐る始まった営みは、最初は困惑した手付きで、それから丁寧な仕草で繰り返される。だけれども、私の体のスイッチが入った時にガラリと支配関係が変わったのが判った。

 彼はそれまで静かに私を観察していたようだった。手を添えるだけにして、自分の欲望は押し殺した状態で、ただ私のすることに従っていた。それが突然にっこりと笑って、俺の番ね、と目を光らせる。その変化に私は驚いて、つい呼吸を忘れてしまった。

 彼の冷静な瞳にゆらりと獰猛な光が揺れるときは、情熱的な愛撫の始まりだと判った。

 柔らかく押し倒されて、眩暈がするほどの激しいキスを受ける。

 優しいけど待ったなしの指と舌に思わず吐息を漏らして声が出た時、彼が呟いた。

「・・・今のは、演技?」

 彼の作る熱の波に流されかけていた私は一瞬ハッとして、持って行かれそうな理性を捕まえて答えた。

「・・・違、う・・・」

 体が震えていた。熱が上がって汗をかき、隅々までに血が行き渡っているのを感じる。こんなことは本当に久しぶりだった。

 思考はまどろみ、溶けて流れる。

 彼の指がもたらす一つ一つの快感に一々反応してしまう体に驚いていた。

 私の答えを聞いて、桑谷さんはくくく・・・と低い声で笑った。

「それは何より」

 ・・・じゃあ、もう遠慮なしで。そう低い声が聞こえたと思ったら、私は目など開けていられない状態に放り込まれた。

 彼が私の腰を捕まえて、激しく動き出す。抵抗できない快感に目の奥がチカチカ光る。自分が大きな海になって、潮の満ち干きで揺れているようだった。

 部屋の壁には卑猥な水音が大きく反射している。二人が作る影が一緒に動いているのが見なくても判った。どろどろに意識も体も溶けてしまう。

 ああ、こんなに、熱くちゃ・・・壊、れ―――――――――――

 私の全身に痙攣を引き起こして彼は笑う。その声でさえも、今は脳天に痺れをもたらすほどだった。

「・・・悪いな、もう・・・そろそろ――――――――」

 焦らすこともしないで、彼は激しく、一直線に解放に向かう。

 熱に翻弄されて、すべてが真っ白になった。

 何も判らなくなって体がシーツに沈む。はあ、はあ、と荒い自分の呼吸が耳の奥に響いていた。

 彼が呼吸を整えながら、大きな手で私の熱を持った頬を撫でる。そのままで、私の乱れた髪を指先で梳きながら言った。

「・・・・・不感症じゃあねえな」

 混沌とした私の意識の端っこに、その声が引っかかった。

 うっすらと目を開けて、さっきまで私をめちゃくちゃにしていた男を見上げる。

「君は、不感症、なんかじゃない」

 ベッドライトの明かりの中、とても満足そうな笑顔をみせて、彼は言った。


「君を抱けて、光栄だ」




 逞しい腕に抱かれて眠った。

 仕事の後で、命の危険に晒されて、アルコールもたっぷり飲んでいて、しかも久しぶりの激しい運動で疲れていたのに、明け方にふと目が覚めた。

 カーテンの隙間から見える空はまだ暗く、外も静かなようだった。

 頭の下の腕が温かい。

 規則正しい寝息を立てて、男が間近で寝ている。その寝顔を見て、ハッとした。

 ・・・・なんて安心感だろう・・・。

 うっすらと、序序に明るくなっていく部屋の中、一つのベッドで誰かと眠るなんて、いつぶりだろう。

 感じないことが苦痛で避けていたし、最後に斎に抱かれたのはもう去年の終わりの話だ。それでなくても斎はいつも泊まらずに帰って行ったし、夜にたずねてきたのは睡眠薬騒動のあったあの夜のこと。

 もう随分長いこと、一人で眠っていた。そしてそれは気楽だったけど、やっぱり寂しかったんだと判った。

 死に掛けて、助かって、色んなショックで壊れた心を治すために斎への復讐を誓った。

 原因を抹殺しないと私は立ち上がれないって思ってた。

 自分もバカだったのだからと諦めて、色んなことを事務的にさっさと処理してきた。

 だけどそれは―――――――――――


 更に、自分の傷口をえぐってたんだった・・・。


 布団の中は二人の体温で温められている。それはとても安心する温度で、私はゆっくりと目を瞑った。


 人に必要とされて一緒に眠ることが、こんなに嬉しいことだとは知らなかった。気付かずに生きてきた。

 この人のお陰で・・・・・気付けたんだ。

 彼の長い髪が顔にかかっているのを布団から手を出して額からどけたら、すっと、彼の目が開いた。


 桑谷さんは何度かゆっくりと瞬きをして、掠れた低い声で言った。

「・・・・・眠れないのか?」

「・・・寝たわ。もう朝よ」

「何時?」

 ベッドサイドに置いた携帯電話に手を伸ばして開き、時間を確認する。

「―――――4時20分」

「・・・・・・早いな」

 私は手を伸ばして、はみ出た彼の裸の肩に布団をかけなおした。

「もうちょっと寝て下さい。私も、また眠るから」

 ゆっくりと微笑んで、彼はまた目を閉じた。

 私はそれをじっと見て、寝息が聞こえ始めてからも暫く待ってから、そっとベッドを抜け出した。

 シャワーは浴びずに静かに身支度を整えて、ベッドサイドテーブルのメモ帳を引き寄せた。

 少しだけ考えて、シンプルに『ありがとう』とだけ書き、ちぎって見えやすい場所に置く。

 ホテルを出て早朝の街を駅前に向かって歩き出す。さっき調べたら、あと10分で始発が動くはずだった。昨夜とろけてもう使い物にならないかと思った両足は、何とか力を取り戻しつつある。

 今日は遅番で勤務がある。

 自分の部屋に帰って出勤の準備をしなくちゃならない。

 お泊りなんてする予定は勿論なかったから、着替えも化粧品も持ってなかった。

 ガラガラの電車に乗り込んで、ため息をついて椅子にもたれかかった。

 色々あり過ぎでしょ、昨日一日で・・・。

 でも。
 

 瞼の奥に浮かぶのは、さっきホテルの部屋で寝ていた男。

 私に、まだ愛される資格があるのだと思わせてくれた男。

 無骨な顔で、子供みたいに笑う大人の男の人。


 体は重たくて疲れていたけど、重い気分ではなかった。久しぶりの快感がストレスを全部吹き飛ばしてくれたようだった。

 一人しか居ない車両で、私は黙って微笑む。


・・・・そういえば、桑谷さんて・・・下の名前、何ていうんだろう・・・。


 輝きだした朝日の中、最寄駅に電車が滑り込んだ。


 その光景に感動した。

 

 ゆっくりと、自分の部屋へ向かって歩き出した。





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