1-A
中元の早割りが始まった。
各店ギフト商品をそろえて、催事場にての販売が始まる。
本格的な商戦は7月から8月のお盆までなので、始まったと言ってもまだまだ売り場は平常だった。
階段での斎との殺気立った会話の翌日、ヤツがふらりと私の売り場に来て、一人で店番をする私にぼそりと呟いた。
「金は、返す」
私はその彼をじっと見詰めた。
「・・すぐにとはいかないけど」
斎は真面目な顔をしていた。私は肩を竦めて頷く。
「判った」
斎は自分の売り場に戻っていく。バイトの女の子や周囲のパートさん達の好奇に満ちた視線を避けていた。私はその後姿から目を外して、用もないのに店のパソコンを開ける。仕事してますので話しかけないで下さい、の図だ。
どうするつもりだろうか。201万は、そうそうすぐには返せないはずだ。
あの男が彼女に借りたり、金融機関で借りたりなどとは信じられない。個人的にはローン会社やヤクザで借りて返せなくて勝手に破綻ってなパターンが望ましい(そのまま行方不明になってくれても構わない)が、それでもローン会社に迷惑がかかるしな。
返してくれたら目の前から消えてやる、というのは嘘だ。
それだけではまだ足りない。
あの男を社会的に抹殺するまでは、私の気は済みそうにない。
階段でのキスを思い出すと吐き気がしてくる。認めたくはないが、別に斎は本当にキスが下手なわけではない。ただ、私を感じさせることは出来ないってだけで。
私は完全に、あの男から心が離れている。
パソコンの画面を凝視したままで、小さく首を振った。
いやいや、もう忘れよう。血が出るまで噛み付いたし、これであれに関してはお相子だろうと。
それよりも・・・・。
取られたお金を返して貰ったら、それをどうするか考えてるほうが楽しいに決まってる。
暇な売り場を持て余して、私はそんなことばかりぼーっと考えていたのだ。
危険が迫っているとは、全く気がつかなかった。
それは、また、階段だった。
一番よく使っている、北の階段。
一日に二回ある休憩時間の二回目の時。
私はバックヤードの従業員トイレから出て、4階から階段を使って降りていた。踊り場の暗がりをみては斎に襲われたことを思い出して気分を悪くしたりして。
全く、あれは気持ち悪かった。
また思い出してうんざりしたその時、私物鞄に入れた携帯の振動を感じて、階段途中で立ち止まる。鞄の中に手を突っ込んで携帯を取り出し、開けた時だった。
突然強い衝撃を背中に感じ、バランスを崩した私は空中に体が放り出される。
・・・あ。
背中を、押された。
頭でそう理解して、落ちていきながら体を捻る。振り向きざま階段の上を視界が捉える。逃げていく白衣の後姿を視線の端に確認しながら、空中の、手すりがあるだろうところへ向かって手を伸ばす。
届かない・・・!
その全部が2秒くらいの間だったと思う。
背中を押された時、足が勝手に前に出たので落ち始めて2段くらいは踏めたけど、その後がダメだった。一直線に踊り場まで転がり落ちるんだな、と覚悟して目をつぶると、今度は全身に違う衝撃があって、体が止まった。
「・・・・へ・・・」
大きな手に肩と腰を支えられて、私の体は階段の途中で止まっていた。
中途半端なその体勢のままでパッと後ろに顔を上げると、私を助けてくれた人物は階段の上を見ている。
「・・・あ・・・すみません、ありが――――」
もつれた体を動かしてどうにか起き上がろうと頑張りながら声をだすと、遮られた。
「今の」
「は?」
「守口か?『ガリフ』の」
・・・・ええ、私もそう思いました。思ったけれど口に出さずに、今度こそと階段の手すりを掴んで自力で立ち上がった。
「・・・あ、危なかった・・・」
小さな声で呟いて、手すりに全身を預けて息をゆっくりと吐く。
今更ながら心臓がドキドキしてきた。全身に、ぶわあ〜っと汗が噴出す。落ち着け落ち着け、大丈夫よ、まり。
大丈夫、だった、けど・・・・私・・・背中、押された、よね?
「大丈夫?」
低い男性の声。それが耳の中に響いて、私はハッとする。
ようやく階段の出入り口から目を離してこちらに向き直った人に、その場で慌てて頭を下げた。
「あ・・ありがとうございました。助かりました」
「あ、串カツ」
「はい?」
パッと顔を上げると、長髪を後ろでくくった男が微笑んでいた。
・・・ああ、あのパーティーで、余ったご飯を渡した人か。えーと、鮮魚売り場の・・・・。胸元につけている名札に目を凝らす。・・・桑谷、さん。
「――――――あ、ええと・・・。その節は、どうも」
よく判らない挨拶をして、とりあえずと私はもう一度頭を下げておいた。
それにしても、串カツって・・・。
まだ心臓は早打ちしていたけど、思わず気が抜けて私は笑ってしまう。
「あいつ、押したのか、もしかして?走るとこはみたけど」
桑谷という名前らしい男がまた出入り口のほうをみた。私は深呼吸をして、足が震えてないことを確認する。
私物鞄は階段の下まで落ちてしまっていた。
「・・・・まさか、そんなことはないと思いますが」
静かに言った。
桑谷さんは眉間に皺を寄せてこちらを見た。うわあお、迫力満点の顔。怒ったら怖そうな男だなあ、と冷静に考える。私がじいっと彼を見ていると、眉間に皺を寄せたままでボソッと呟く。
「・・・自分で落ちたにしちゃ勢いありすぎだろ」
曖昧に微笑んで答えない。答えれるわけがない。さっきのは、確実に絶対悪意を持って私の背中は押されたのだ。
そして地球上で、そんなことをしそうな男、する理由がある男は斎しかいない。
あの野郎。金を返すとか言って油断させて、突き落とすなんて・・・。
だけどそれは、この人には関係のない話だ。誰かを巻き込みたいわけではないし、実際のところ詮索されるのは鬱陶しい。
「休憩終わりますので、行きます。本当にありがとうございました」
もう一度頭を下げて私物鞄を取りに降りようとすると、あ、と声が聞こえた。
振り返って仰ぎ見る。
長身長髪の体格のいい男は制服のポケットに両手を突っ込んで、口を開いた。黒い瞳が真っ直ぐに私を見ている。
「・・・名前は?」
名乗る必要があるんだろうかとふと思ったが、恩人にすげなくは出来ない。大して愛想もよくない声で、私は応える。
「小川です」
言うだけ言って、落ちていた携帯を拾い、私は階段を降りて行った。
急ぎ足でバックヤードを移動する。そうしていなきゃ、何かにヤツ当たりしそうだったからだ。
――――――・・・桑谷さんが通りかかってなきゃ―――――
「私、死んでたわ」
声に出して言ってみて、ぞっとした。
・・・ようやく生き返ったばかりだってーのに。冗談じゃねーよ。
アイツの中では今や私はゆすり女になってしまったのだろう。懐柔策も効かなかったし、これは消えて貰うしかないって思ったわけ?
・・・マジで。それって単純すぎない?
大怪我をさせたら怖くなって逃げるだろう、なんて考えたんだろうか。睡眠薬に関しては、ヤツが直接手を下したことではないわけだし。
・・・でも。
手をだしたなあああああーっ!!
ムカついた。本気でムカついた。このまま警察に行ってもよいが、これまた結局証拠はない。バックヤードの階段には防犯カメラなどないし、他には誰もいなかった。桑谷さんは見ていたかもしれないが、多分守口、程度の確信しかないだろう。ということは、自分の不注意で終わってしまう話だ。
警察には行けない、嫌なら仕事を辞めて逃げるか、怯えて暮らすかと考えたんだろうか。
店員通用口で一礼して売り場まで歩いていく。
斜め前の売り場では斎がいつものように働いていた。ふと顔を上げたやつと目があった時、微かに苦笑したのを見逃さなかった。・・・なんだ、無事だったのか、って思ってるのかしら。
私は大きく笑顔を作って会釈する。体の底で、ふつふつと怒りの炎が燃え上がっているのを感じていた。
無事だったんだよ、バーカ。私はお前なんかに絶対負けない。
これからは北階段は使わないこと、背後に十分注意すること、と自分に言い聞かせる。
そして斎には益々圧力を掛けてやる。
私は一度死んだも同然。
てめーなんかに・・・・
売り場に入りカウンターの前に立って、笑顔を貼り付ける。
・・・・・もう一度殺されたりなんか、しないんだから。
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