1、バックヤードの危険・階段@
パーティーから2日目、早番で出勤した私は売り場に向かうためバックヤードの階段を降りていた。
駅から直結の2階に従業員の入口があり、3階にロッカールーム、そして勤務するのは地下一階の食品売り場である私達は、毎朝階段をうろうろするハメになる。エレベーターの使用は節電の為に一応禁止となっているし、一々到着を待つのも面倒くさい。というわけで、私は今日も階段をトントンと降りていた。
数ある階段で私がよく使用するのは一番北側にある階段だった。
ここは売り場への入口に遠いので、あまり使う人がいない。それを利用して、食堂が一杯の時なんかはこの階段で休憩したりしていた。
今日は納品もないし、そんなに急ぐことはないのだが、開店前に配送を何点か作っておきたいといつもと同じ時間に出勤していたのだ。開店したら忙しくてそんな暇はないかもしれないし。
足音を立てて3階から2階まで降りる。踊り場でくるりと反転しようと思ったら、突然影から人が出てきて抱きかかえられた。
「っ・・・!!!」
驚いて体を強張らせる私を抱きかかえた人物が、そのまま強引に顔を近づけてキスをした。
驚いて固まる私の手からは私物鞄が落ち、そのまま階段を数段落ちていく。その音だけを呆然と聞いていた。実際のところ、いきなりすぎて何が起きたのかよく判っていなかったのだ。
誰だか判らない相手はきつく私の腰を抱いている。ちょっとやそっと力をいれたくらいじゃびくともしない感じだった。
近すぎてピントが合わず、誰の顔かが判らなかったけど、舌をねじ込んできた感覚にハッとした。
これは―――――――斎だ!
「んっ・・・!!」
カッとして、私は全身に力を込めてヤツを押し返そうとする。だけどそれは余計に私のバランスを崩し、体の向きを変えて壁に押し付けられてしまった。
斎は腰に左手を後頭部に右手を回して私を固定し、角度を変えて激しく唇を求めてくる。その気持ち悪さに背中におぞけが走った。
「〜!!」
ばっか野郎〜!!放しやがれこの脳無し男!気持ち悪いんだよクソじじい〜!!心の中で暴言を吐きまくり、両腕にも両足にも力をこめる。
舌で口内をまさぐられて身震いをした。
・・・畜生、このっ・・・・バカ野郎ーっ!!
息継ぎのためにほんの少しヤツの唇が離れた瞬間に、私は凄い勢いで斎の唇に噛み付いた。
「!!」
ドン、と私を壁まで突き飛ばして、斎が手の平で唇を押さえる。
「ってえなあ!何すんだよ!」
更なる攻撃を恐れてか数歩後ろに下がって、ヤツはギラギラした目で睨みつけてくる。
息が乱れていたし、不快だった。私はトイレに駆け込んで吐き出したい気持ちを抑えて、出来るだけ無表情を作る。苦しんでるところなんかこの男に見せたくなかった。
斎の唇から流れた血が自分の唇に付いてるのを舌で舐め取って、顔を歪めてせせら笑ってやった。
「・・・こっちのセリフでしょうが。何のつもりよ、朝っぱらから。婦女暴行で訴えるわよ」
壁に背をついた状態で呼吸を整える。斎はこぶしで口元をぬぐって無意識に髪型を直した。
「仲直りに来たんだ」
「あん?」
ちゃんと聞こえていたけれど、その驚きの言葉は是非聞かなかったことにしてしまいたかった。・・・仲直り、だと?この後に及んで何を今更・・・。本当のバカ野郎だ、この男。
呆然としたが為に怒りが薄れてしまった私を暗がりから見て、斎がぼそっと言う。
「・・・・お前、まだ怒ってるのか」
「は?」
「あの夜、お前に言った言葉に怒ってるんだろ?だから色々嫌がらせをしてくるんだろ?」
・・・・あの夜。5月の夜の、こいつが吐き捨てたあの暴言。――――――――何を今更。
私は目をくるんとまわして見せた。
「・・・・あのねえ、あんたにムカついてることなんて星の数ほどあって、何から言ったらいいのか判らないくらいよ。自分でも本当、よく我慢してたと思ってるくらい」
「・・・」
「だけどそれをなかったことにする為にいきなり朝っぱらから元カノに襲い掛かるなんて、あんた頭大丈夫?」
私のいいざまに、さすがに斎もムカついたようだった。切れた唇をかみ締めてぎろりと睨んでくる。
どうしてあんたが怒るのだ。腹を立てていいのは私だけでしょうが。また少しずつ、怒りがこみ上げてくるのを感じて私は目を細める。
「聞きたい?一つ二つ、並べてみようか?」
私は完全な無表情になって言葉を並べ立てた。
「付き合ってきた中での数々の暴言が許せないわ。私はあんたの家政婦なんかではなく、両親に大切に育てられた娘なのよ。あんたとは赤の他人で、ボロボロにされていい人間じゃあないの。あんたがパクッてきた睡眠薬を飲んだ私が倒れると救急車を呼ぶだけよんでさっさと逃げたのも情けないわ。それでよく普通の顔して社会に出られるわね?小学生だってもっとマトモな対処するわよ!しかも、挙句の果てに私の貯金まで―――――」
「判った!・・・もういい」
パッと手を振って、斎が顔を背けた。
私は壁からゆっくりと背を離して、乾いてしまった唇を舐める。勿論、いい足りない。出来ることなら今すぐにでもこのまま階段から突き落としてやりたい。
「バカな男と付き合った私もバカだったのよ、だから、もうそれはいいわ」
ちらりと斎が私を見る。眼が不安気に泳いでいるのが滑稽だった。
「・・・目的はなんだって、聞いたわね」
私は自分でも驚くほどの低い声で続けた。
「私の時間とお金を返して頂戴」
「・・・・」
「時間は仕方ないわね、どうやっても返せないもの。もう27歳には戻れない。でもお金は返して貰わないと」
「・・・・金なんてしらねー」
自由な両手を胸の前で組んだ。そうでもしないと、すぐにこのバカ野郎を殴ってしまいそうだったからだ。
「私が入院中に通帳と印鑑を持ち出してしかも返せたのはあんただけなのよ」
「しらねーって」
ああ、イライラする。私は舌打をした。誰か、包丁を頂戴。そしたら遠慮なく、目の前の男を切り刻んでやるのに。
「あらそう?銀行の防犯カメラ見せてもらおうか?あんたのことだからきっと変装すらしないで窓口に行ったんでしょう。その目立つ容姿のお陰で銀行員が覚えてくれてるかもしれないわね、写真を持って一緒に銀行に行きましょうか」
ヤツが下を向いた。バレバレだ、その態度で。犯罪するには気の小さい野郎ってことなのよね。私はどんどん体を固める元カレを観察しながら、更に言葉を繋いだ。
「・・・それとも警察に届出ようか。あんたじゃないんだったら、空き巣に入られたってことだものねえ」
暗がりになって下を向いていたから、斎の表情は全然見えなかった。それでもこたえているのは判った。体の横で握り締めている手が震えていたから。
「・・・・もう、ない」
「え?」
小さな声が聞こえて、私は壁から体を離す。
「金は使った」
暗くて低い声だった。私は言葉に呪いを込める。地獄へおちろ、バカ男!
「やっぱり盗ったのね、このろくでなし」
階段を降りて私物鞄を拾い上げた。振り向いて、階上に立つ斎を見上げる。
「部長の娘さんに使ったの?・・・きっとそうなんでしょうね。女を喜ばせるために、他の女が貯めた金を使うなんて・・・まさしく、バカ男ね」
ヤツは暗い目をしていた。色男の片鱗も見えない表情で、じっと私を見ている。
「警察に言ってもいいわ。そして法廷で争って、返して貰うとか」
「・・・」
「いえ、やっぱりそれでは時間も掛かるわね。借金してでも、すぐに返して頂戴。私の201万。そしたら――――――」
言葉を切って、バカ野郎を見上げた。ヤツの視線と空中で絡みあい、火花が散るかと思った。斎が唇を舐めて促す。
「・・・そしたら?」
「永遠にあんたの前から消えてあげるわ」
そして私は階段をおりて売り場に向かった。
その日は結局一度も斎を見なかった。出勤日でないのに来て、私を待ち伏せしていたらしかった。最後の懐柔策だったのだろう、激しいキスで心を溶かそうと。
・・・てめーはキスが下手だって、言ってやったのに、あのバカ男。
心を溶かすどころか、逆に激しい嫌悪感を持っただけだった。あーあ・・・全く、無駄な朝だった。私は休憩時間、うんざりしてため息をついた。
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