おまけ。「坂田利之の安堵」
坂田利之 33歳 AO機器会社営業課主任
「鉢植右から3番目」のヒロイン兼田(漆原)都の元同僚。
都とはたまに飲みに行くような気軽に付き合える仲だった。
久しぶりに再会した都にアプローチをかけるが断られる。
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真夏の夕方、人ごみで目が回るような駅前で、俺は懐かしい顔を見つけて立ち止まる。
後ろから歩いてきたサラリーマンが急に立ち止まった俺の背中にぶつかって、イライラと舌打をした。
それにすみませんと謝って、急いで体の向きを変えた。
「兼田!」
声をあげるけど、相手には聞こえてないようだった。
えらく大きな紙袋を足元において、交差点で何かを考えているようだ。
「かーねーだ!」
もう一度叫ぶ。その間にも目的の相手に近づきつつあった。
怪訝な顔して振り返る。そして、あら、と口が動くのを見た。
俺は自分が笑顔になるのが判った。
さっきまでの鬱々とした気分は、かなり久しぶりに会った元同僚の彼女との再会で吹っ飛んだみたいだった。
「あら、坂田君」
にこりと微笑んだその笑顔は3年前より確実に柔らかさを増している。
夏の夕方人波の中で、俺は突然奇妙な感覚に捉われる。
そして一気に、色んなことを思い出した。
勤めているAO機器の会社で、彼女は総務に居た。
そして俺は営業課。有給の取り扱いやら何やらで彼女にはやたらとお世話になったから、よく話す女の子だった。
歳も、1つ下。
営業課故の出張の多さで、チケットの手配を頼むときに一度年齢の話が出て、それで判ったことだったけど。
兼田都と言う名前で、テキパキと物事を処理する好感のもてる子だった。
仕事も早かったし、よく気がつく子だったから、俺は実際何度も助けられていた。
明るく笑う。だけどいつでも影があるというか、どこか暗い印象を持っているなあと思っていたんだった。
当時は俺にも付き合っている彼女がいたし、兼田とは本当に気の合う同僚の仲で、たまーに飲みに言ったりもしていた。
その彼女が、実は長期間に渡って広報部の部長と不倫をしていたと知ったのは、3年前の秋だった。
最初に社内の噂で聞いた時、妙に納得したのを覚えている。
・・・ああ、それで、あの暗さかと。
人に言えない恋愛をしていて、それ故の破れかぶれ的なところがあっ
たんだな、と。
相手の部長は社内でも有名な出世株で、美形で、不倫が出来るくらいの要領の良さと収入があった。だけれども、社内でも女性社員の憧れの的である有名なその彼が不倫相手に選んだのがどちらかと言えば地味な兼田だったから、皆驚いていたんだ。
え?総務の?誰って??って、女子社員が騒いでいた。
不倫が終わった原因は奥さんにバレたことで、嫉妬の嵐のようになったらしい奥さんは、最終手段に出たのだ。
自分のダンナとその部下の不倫を調べつくし、それを細かく書いて会社中の部にファックスとメールと電話で公開したのだ。
一夜にして、兼田都は人の夫を寝取った悪女になった。
会社のロビーに入った時から夕方退社するまで休みなく飛んでくる中傷や誹謗や冷たい視線に、彼女は真っ青になりながらも毅然と堪えていた。
そして一人で黙々と仕事をしていた。
しかし勿論上に呼ばれることとなり、そのまま自己都合による退職と言う形になったんだった。
その最後、上に向かうエレベーターで、俺は偶然、兼田に会った。
酷い顔色で、自嘲気味に笑った彼女を覚えている。
「・・・行き着くところまで行ったの。不倫をしてた女への罰なのよね、これが」
俺は、カチンときた。
黙ってられなかった。
だから彼女を見て言ったんだ。
「お前だけが悪いんじゃねえだろ。ビクビクするな。今日までみたいに、格好よく立ち向かってくれ。・・・俺は―――――」
既に泣きそうな彼女の顔が、更に歪んだ。
「・・・俺は、軽蔑したりしないから。兼田は、恋愛をしただけだろ」
まだ上にはついてないのに、途中の階のボタンを押して、彼女は走って出て行った。
泣きに・・・行ったんだろうなあ〜・・・・。エレベーターの中で、俺は自分の頭を叩いた。
なんだよ、俺!偉そうに!
どんなことを言っても、現実には確かに悪者だ。法律で守られている妻という座を脅かしてはいけない。妻が不快感を感じることはしちゃいけない。それが、法律だ。
だけど、嫌だったんだ。不倫は悪いことかもしれないけど、それに一人で堪えている彼女を見るのが嫌だったんだ。
部長はどこにいるんだよ、出てきて庇ってやってくれよ!そう思っていた。
恋愛は一人で出来るものじゃないのに、どうしてあいつは一人なんだって。
悔しかったんだと思う。
不機嫌なまま戻った自分の机をガンと叩いたら拳が痛かった。
俺は、同僚としてだけど、兼田が好きだったから。
彼女はいつでも背筋を伸ばして仕事をしていた。
「久しぶり〜、偶然だねー」
そう言って笑う兼田は、髪が伸びていた。
今では32歳になっているはずだ。軽やかな笑顔だったから、安心した。
「時間あるならお茶しないか?俺喉カラカラなんだ」
そう言うと、角のカフェを指差したから、二人で入った。
適度に冷やされた店内は、天国みたいだった。
ふう〜、と大きく息を吐いて、肩の力を抜く。
・・・ああ、極楽だ。
格好いい店長がいるんだよ、と嬉しそうに言って、確かにやたらと美形の男性をじっくりと見詰める兼田が面白かった。
そうそう、こんなノリだった、と思って。
やっと汗が引いて、アイスコーヒーを飲む。口に含んだら少しある苦味がやたらと美味くて、思わずグラスを取ってマジマジと見てしまった。
・・・美味いな、これ。
当時兼田と不倫関係にあった部長のその後を話すかは迷った。
だけども会社の誰かと連絡を取っている様子はなかったし、知りたいかと思って話すと、そう、と簡単に頷いてもう興味がなさそうな顔をしていた。
驚いていると、ぽつりと呟く。
「・・・実際のところ、今は彼の元奥さんにしか申し訳ないとは思わないわ」
「そりゃあそうだろうな。あの人も会社を辞めるんだって思ってたけど、残った。それが凄いなって皆言ってた」
部長のその後は皆気にしていた。だけれども一事務の女性社員と違って将来を有望視された出世株だし、まさか首にはならないだろうって。
最初こそ悪い顔色で出勤してやたらと出張ばかりしていたけど、その内普通に戻ったと俺はムカついていた。
だけどある日社内メールで匿名の情報が流れて少しだけ、胸がすいたんだ。
それは部長の離婚を知らせるメールだった。
ちょっと、ざまあみろって思ったやつは沢山いたと思う。部長の奥さんはいい所の、社長とも付き合いのある人のお嬢さんで、それが原因となってやっぱり僻地への移動になった。
送別会は開かれなかった。あったとしても俺は行かなかったと思うけど。
でも今前に座る彼女が、吹っ切れたような、淡々とした表情だったから、ちょっと後悔した。
・・・余計なこと言ったかもって。今が、楽しく暮らしているなら必要ない情報だったかなって。
だからもう過去はいいやって今の話に戻した。
何してんの?と聞くと、明るく笑って言った。
「歯医者の受付してるよ〜。狭い世界だけど、あれはあれで楽しい」
俺も力を抜いて話をする。出来るだけ、会社の話はしないようにした。
夕焼けが消えそうになるまで話していたら、俺のケータイが鳴る。ディスプレイには課長の名前。
うんざりしながら兼田に謝って席を立ち、店の外で電話に出る。
『お前今どこ?締め切り前だぞ、早く帰社しろよ』
「・・あー、すみません、長引きまして。もう戻ります」
新規の開拓で最近の成績が芳しくない俺は課長に見張られている。春の人事異動で直属の上司になった今の課長は他力本願な男で、力量に合わない人事に自分が一番びびっていた。
それで、成績不良者への圧力をかけまくることに決めたらしい。自分の足を引っ張るヤツの面倒は見れないってことだな・・・。と理解した。てめえの面倒も見れてねーじゃねえかよ、とは心の中で呟くだけにした。
席に戻って兼田に告げる。
「悪い、俺会社戻るな。今日は会えてよかった、心配してたんだ」
彼女は一瞬不思議そうな顔をして何度か瞬きをした。俺は多少の気まずさを感じる。
彼女が退職してから一度も連絡しなかったからだ。だけど、何度かトライはしようとしたのだ。電話をかける勇気がなかっただけで。
だって、何て言えば?
経費で落とせるからと言う俺に丁寧に断りをして、彼女は自分の会計を済ませる。
そうだ、確かに、こんな子だった。
俺は人波の中で真っ直ぐに立ってこちらを見る彼女を改めて見詰めた。
いつでも、こうやって立ってたな。
前をちゃんと向いていた。
突然、ぐっと胸に迫るものがあった。
何だこの焦燥感。・・・このまま、彼女を行かせてはならない、そんな焦った感情に翻弄される。
喧騒も全部が一瞬で遠ざかった。
多い荷物を足元に置いてじゃあまたね、と言葉を出す彼女につい、言葉を投げていた。
「あの――――――兼田、今度は晩ご飯に行かないか?」
え?という顔をして、兼田は目を見開いた。
驚いている。
そりゃあそうか・・・俺だって、驚いている。
でも今、まさに、今、彼女に恋をしかけているのかもしれない。そう思った。
だから、言っておかなければ――――――――
いきなりドキドキとうるさくなった心臓を無視して、俺は彼女に近寄る。
「・・・今、彼氏がいるのか?」
彼女は困惑した表情のままで、それでも質問には答えてくれる。
「いないけど・・・」
いない?よしよし。俺にも彼女はいない。
ここ最近は仕事に殺されていて、笑うことすら忘れていた。今日兼田に久しぶりに会って、本当に心から笑ったんだった。
カラカラだった心が潤いだしたのが判った。
だから、逃したくない。
無意識に拳をぎゅっと握って、言った。
「じゃあ飯、行かないか?俺はもう一度兼田に会いたい」
彼女はまた目を見開いた。
鼓動がうるさい。だけどもこのドキドキだって、俺には久しぶりのことだった。緊張していた。頼む、いいって言ってくれ――――――――
しばらく考えるような顔をして、呆然と彼女は俺の前に立っていた。瞳が遠くを見詰めているようだった。
・・・どうした?返事が遅くて俺は焦る。
言葉が足りない?もっと、何か・・・・
「・・・ごめんね、坂田君」
その時、彼女の声が聞こえた。
凛とした声だった。迷いみたいなものが一切感じられない、ハッキリした発音で、こう続けて言った。
「私、もう結婚してるの。名前は今は、漆原都なの」
―――――――え?
俺はつい、彼女の手元に視線を落とす。そこに結婚指輪はない。
こちらの混乱を感じ取ったか、彼女はごそごそと鞄を漁りだし、夕日の残り日にも煌いて輝く指輪をするりと左手薬指に嵌める。
普段は外してるのって。
何だか、力が抜けてしまった。
うるさかった鼓動もシュルシュルと落ち着いていく。
だけど、何だか安心して笑ってしまった。
「・・・そっか、じゃあ今、幸せなんだな」
幸せの中に、いるんだな。
暗い影のなくなった笑顔で彼女は笑っていた。それが安心の元だと判っていた。
・・・ああ、そうか。ちゃんと彼女を愛して、大切にしてくれる男とめぐり合ったんだな、って。
振られたばかりだというのに、俺は嬉しくて笑う。
「そうね」
彼女も頷く。
「判った。じゃあ諦めるよ。でも今日は、会えてよかった」
ふ、と息が漏れる。・・・会えて、よかった。
彼女は見送ってくれるようだった。
だから俺は重い鞄を持ち直して駅に向かった。
これから帰社して、それから書類の作り直しできっと終電だろう。だけど何だか爽やかな気分になっていた。
あのムカつく課長の顔を見ても、ちゃんとした顔で報告出来そうだ。これも全部、兼田の――――――あ、結婚したんだっけ、何て名前って言ってたかな。・・・ま、いっか。これも全部、彼女のお陰だ。
電車に乗ったときに判った。
俺が気に入っていたのは、これだって。
彼女は不倫をしている時も、それがバレた時も、一切の言い訳をしなかった。すくなくとも俺にはしなかった。
それって結構凄いことなんじゃないかな。
心が弱る恋をしていて、人にそれを零さないなんて・・・俺にはきっと出来ないだろう。
やっと薄暗くなってきた外を窓から見詰める。
会えて良かった―――――――本当に。
おまけ、終わり。
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