B



「・・・親父を知ってるの」

 あたしの呟きに頷いた。

「昔、世話になったことがある。・・・・そうか、野口さんの。娘さん、確かに居たな」

 じっとあたしを見ていた。少しだけ、一瞬だけ、滝本からやばそうな雰囲気が消えた。

 腕を組んで、少し首を傾げている。

「・・・何?」

「――――――」

「ちょっと?もしもーし」

 長身の男から間近で見られることに圧迫感を感じて、あたしは少し後ろに下がった。

 この男の雰囲気や表情は全体的に柔らかいが、マネキンみたいな冷たさのある外見で無表情で黙られると生き物を相手にしている感じがしない。

「・・・選んでくれ」

「はい?」

 やっと口を開いたと思ったら、また元のように笑って滝本は机の向こうに回った。

 離れてくれたことにホッとしながらあたしは聞き返す。

 選べって、何を?

 椅子に座って楽しそうな表情で、滝本は指を振った。

「今日の詫びに俺の為に働くか、それともこのまま警察に突き出されるか。どっちがいい?」

 一人称が私から俺に変わり、喋り方が乱雑になった。

 あたしはまた緊張する。

 ・・・・詫びに、手先となるか、嫌なら檻の中か、だって?

「どっちも嫌だって言ったら?」

「協力を得られないなら、仕方ないから法の下に裁いてもらうしかねーな。野口さんの娘ならプロだろう。これが生業か?なら、いかようにでも引っ張れる」

 証拠がなくても犯罪の結果を作れる、と言ってるんだろう。だから、あたしを簡単に犯罪者に出来るって。


 ・・・・・ムカつく。


 深呼吸をした。

 やっぱり、逃げよう。とりあえず、今は。

「・・・あんたに協力したら、見逃してくれるってわけ?」

 低い声で聞くと、ニコニコと頷いた。

「俺はちょうど腕のいいスリが必要な案件を抱えてる。それを手伝って貰う」

「それが終われば、あたしはお役御免?」

「それはまたその時に考える」

 ・・・食えない男だ。やっぱり、危ない。こいつの言う通りになんかなったら、あたしの素敵な人生は真っ暗だ。

 あたしは鞄を抱えた。

 滝本はそれを見て、手をヒラヒラと振った。

「・・・お帰りの前に答えを貰おう」

「あたしは」

 ゆっくりと笑って慎重に口を開いた。

「命令されるのも、指図されるのも、嫌いなの」

「――――――つまり?」

 滝本が座っている大きな机にゆっくりと近づく。

「・・・お願いなら、やってあげてもいいわ」

 彼はひゅっと眉をあげて、驚いた表情を作った。そして大げさに両手を広げる。

「・・・ずうずうしいな」

「生まれつきよ」

 あたしはそう言って、鞄から黒革の財布を取り出した。ハッと目を見開いて、滝本は今度こそ本当に驚いたようだった。

 その顔を見て、少し溜飲が下がる。

「それは―――――」

「あなたの財布ね。後ろのポケットにいれるのはオススメ出来ないわ。スリにとっては何の障害もないんだから」

 一緒に隣を歩きながらすりとっておいた物だった。右手は彼に拘束されていたけど、左手だって使える。大体普段から、商売道具の右手はあまり使わないのだ。左手で日常の生活はこなす。

 この財布は出さないつもりだったけど、ここで逃げる為の小道具に使うことに決めた。

 切り札は常に用意すべし。

 あたしは指で滝本の運転免許証を取り出す。

「・・・これは、預かっておくね」

 そして自分の鞄に放り込んだ。

 ようやく笑顔を消した男を見下ろす。空気が一気に冷えたようだった。ここからが勝負だ。

 あたしは彼から目を離さずに、足元のゴミ箱を蹴り上げた。

 ゴミ箱は滝本の後ろの壁にぶつかって跳ね、中に入っていたゴミや紙くずが空中に散らばる。蹴り上げたすぐ後に、右手で彼の眼鏡を叩いて飛ばした。

「・・・!」

 滝本が片手で目を庇いながら立ち上がった。

 その時にはもう、あたしは事務所の外に出ていた。

 追いかけてくるだろう滝本の足元、丁度入口から出て第一歩を踏み出すだろう場所めがけて彼の財布を投げる。

 心理的に、人は財布を踏めない。

 お金という道具を使って世界を回している人間は、ただお金をいれているってだけの財布でも弱みになるのだ。

 ビルの内階段を手すりにお尻をのせて滑り降りる。

 毎日のエクササイズがここで効力を発揮した。

 そしてあたしは逃げた。

 文字通り、一目散に。

 後ろは振り返らなかった。気配なんてなかったから、ちゃんと逃げれたのが判っていた。

 だけど本名を知られてしまったから、本名で住んでいる家に戻れないのも判っていた。

 荒い息でタクシーに乗り込んで、最寄の駅へお願いした。

 ・・・畜生、素敵な毎日が、狂っちゃったわ。



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