2、「落とされましたよ」
朝日かキラキラと窓から差し込む。
あたしはベッドの上で逆立ちをしている。
ベッドという安定の悪い場所での逆立ち、腕立て伏せ、そして音楽をかけてのブレイクダンス、ヨガと太極拳をあわせたようなエクササイズ。
これを毎日必ずやる。
いってみれば、スリなんて職業は2本の指さえあれば成り立つので体を鍛えないスリも多いだろうとは思う。だけど、これくらいしなきゃ後はぶくぶく太るだけ。もしもの時逃げられないと、あたしの素敵な人生は終わってしまうのだ。
50階建ての高層マンションの32階に住んでいる。逆立ちすると景色は天しか見えない。でも、神様や天使なんて見えたことがない。だからあたしは無宗教だ。
見えないものは信じない。
逆を言えば、見えるものならどんなに馬鹿げたことだって信じる。
だから親父が一度1000万円を盗って帰ってきたときだって、別に驚かずにすんなり信じた。ボストンバックに入っている札束を見て、ビールを飲みながら、どこで?とだけ聞いたんだった。
親父はヤクザからすってやったといっていた。これは、人助けの一種でもあると。この金を俺が盗ったことで、世話になった人の敵討ちが出来たのだ、って。
だけど自分の仁義には反することをしたから、俺はこれで引退する、と。
そしてハワイに行くと言って、ある日姿を消した。
あたしはまだ大学生で、親父の置手紙を読んで、つまり、大学の後の費用は自分で賄えってことだな、と思った。
その時に、ホスト達からすることを覚えた。学費を稼ぐには金持ちに近づいてる時間はない。下調べをする時間がなくてお金を稼ぐには、同じく大金を稼げて独身の人間から貰えばいいのだ、と思ったのだ。
以来、一人で住んでいて、以来、毎日の日課としてこの一連のエクササイズをするのを自分に課している。
大体2時間かかる日課を済ませて、あたしは朝食を食べに下界に下りて行った。
いきつけのカフェに入る。
「おはよう、薫ちゃん」
コーヒーの芳しい香りと共に、今日も爽やかなこの店の店長の声が流れてきた。
「おはようです、岡崎さん」
にっこりと微笑む。コーヒーと岡崎さんの笑顔はいつでもセットなのだ。
本日も、イケメンのカフェ店長、岡崎俊一氏は爽やかな笑顔だった。ご機嫌麗しいようで、なにより。
毎朝とは言わないが、かなりの数の朝ごはんを、あたしはここで済ませる。その時にイケメン店長の岡崎さんの眩しくかつ控えめなお姿を拝見し、目の保養をするのだ。
カウンターの一番奥の席に座る。よかった、今日もこの定位置が空いていて。
「モーニングでいいの?」
カウンターの中で本人曰く命をかけているらしいコーヒーのドリップから目を離さずに岡崎さんが聞くのに、うん、と返した。
あたしはコーヒーの香りと朝のカフェの雑然とした空気に目を閉じて浸る。
うーん、好きだなあ、この雰囲気。
別にお腹が空いてなくても来てしまうのは、この、今から世界が動き出す前って感じの空気に浸りたいってのもあった。
皆が今日の予定を考えて行動する前の、余韻のような空気。
新聞をめくる音や手帳に書き込むボールペンの走る音、ヒールの音と衣擦れと椅子の動く音。それに、コーヒーの匂いが被さる。朝ごはんをテイクアウトしていくお客さんに、岡崎さんやバイトの守君と朱里ちゃんが行ってらっしゃいと言う声。
うーん・・・好きだ、この朝の一場面が。
「お待たせしました」
カフェでアルバイトをしている大学生の守君がホットサンドのモーニングセットを目の前に置いてくれる。
「ありがとうございまーす」
守君は大学3年生。年下とは思えないくらいにしっかりした青年なのだが、外見は子犬系童顔で女性客はよく騙される。
可愛い〜と思って色々話すと、その内にしっかりした守君にお説教されるハメになるのだ。遅刻しますよ、とか、忘れ物ないですか、とか、のソフトな注意から、そんな格好してるから痴漢に会うんです、とか、天気予報みて傘くらい持ちましょうね、的なお母さん注意まで。
ま、それが一部のお姉さん方には受けている。
「おはようございます、薫さん」
「おはよーございます、ラプンツェル」
明るい声で挨拶をしてくれたのは、長い長い髪をアップにしてまとめている朱里ちゃん、25歳。一度髪はどのくらい長いの?と聞いてみたら、腰をゆうに超えてますと答えが来て驚いた。その姫系な優しい雰囲気と長髪で、あたしは勝手にラプンツェルと呼んでいる。
彼女は将来自分のカフェを持ちたいからと、修行にここで働いているそうだ。
「お仕事、どうですか?」
朱里ちゃんが聞くのに、にっこりと笑った。
「お陰様で、上々です」
外ではあたしの職業は、HPを作ったり、ネットショップを運営したりしていると説明している。実際に趣味でやっているそれを隠れ蓑にしているのだ。
まさか、スリをしてまして、とは言えないもんね。
「うちの入りも薫ちゃんのお陰だしね、感謝してます」
岡崎さんがカウンターの中から言った。
ここに通うのに慣れた頃、何のお仕事されてるんですか、と聞かれ、答えたら、うちの店のHPを作って頂けませんか、とお願いされて作ったのだ。
あたしはカラカラと笑う。
「カフェなんだから、岡崎さんのコーヒーのファンで繁盛してるんでしょう。ネットはそんなに影響ないと思いますよ」
あ、それと、あなたのその外見で。
黒髪を綺麗に整えて、優しい瞳で笑う岡崎さんの写真でも乗っければ、アクセス数は確実にアップするだろうけど・・・とこっそり考える。
すらりとした体に白いシャツをパリッと着て、黒い腰エプロンをまくイケメン店長のファンは多い。コーヒーも勿論美味しいし、この顔を朝から拝みたいと出勤前にOLさんたちが多数寄ってくるのを知っていた。
あたしはただ単にボリュームがあってお得なモーニング目当ての常連だったのが、仕事ですと言ってしまった手前HPの制作を引き受けたのがキッカケで、それからこの店の皆さんと距離が近づいたのだった。
今日は休みのフリーターの由美ちゃんと4人で回しているこの店は、行きつけ、になった。
あたしはホットサンドに齧り付く。トマトとツナとチーズが口の中でとろける。この極上の瞬間よ。
「家で仕事なさる方は、休みとかないんでしょうね」
ラプンツェルが水を入れるついでにあたしに聞く。
「オンとオフの区別はつきにくいかも、ですね〜」
あたしは適当に答える。だって、パソコンなんて出来たら便利だろうなあ程度ではじめたもので、本業ではないしな。家で仕事する人は、多分そうだろう。あたしは外で人に会わなきゃ稼げない。
さっきから、実は気になっている客がいるのだ。
胸ポケットから一度出した財布のふくらみ具合を、たまたま見てしまった窓際のスーツ姿の男。
ノーネクタイのあたりがIT関係の人間か、業界の人間かと思わせる。眼鏡も金がかかってそうだし。うーん・・・・・美味しそうなカモ・・・。
午前の9時過ぎで、普通の会社勤めならばまだここでコーヒーを飲んでいるのはおかしい。
自営業で、何かの待ち合わせかな?
ただ単なる金持ちなのかたまたま今朝だけお金を持ち歩いている人なのかがちょっと判らないけど、カウンターの鏡越しに何気なく観察していたら、やたらと暴言を吐くのが気になった。
水はいかがですか、と言ったラプンツェル姫に対して、誰がいると言ったんだ!と忌々しそうに言ったし、通りすがりの守君にさっさと灰皿を変えろと命令していた口調が気に入らない。
カウンターの中で、岡崎さんがちらりと目を上げて男を見ているのが判った。暴言に耐えたスタッフの心配をしているのだろう。
あたしはそっと眉をしかめる。
そしてぶらりと立ち上がって、その男の横を通り過ぎながらトイレへと向かった。
トイレに入り、開いた手の中には一枚の栞。
通りすがりにやつの鞄の中からはみ出しかけていた本から失敬したものだ。
「・・・まったく」
横暴なおっさんだ。朝から他人の気分を不快にする権利なんて誰にもないっていうんだよ。
よし、決めた。
あたしは手の平の栞を眺めて笑う。
本日最初のカモは、あの男だ。
トイレから出て、いつもは時間をかけて食べるモーニングをさっさと平らげた。
鏡の中ではあの男が立ち上がって、外に出る用意をしている。
あたしは岡崎さんにご馳走様と言って微笑み、守君に会計をお願いした。そしてラプンツェル朱里に手を振って、少し距離を置いて男の後について歩き出した。
男はそう急ぐ様子もなく、ぶらぶらと駅の方面に向かって歩いていく。
別に何かに焦っているようでもない・・・。あたり構わず八つ当たりしているのが見えたり暴言を吐いていれば、彼には今日何かとてつもないストレスを感じることがあるのだろうと、見逃してやろうと思っていた。
だけど、そんな様子は見えない。
・・・・おっさん、善良な働く若者をいびるなよ。
あたしは首をかしげて微笑み、おもむろに男に近づいた。
「すみません」
少し息を切らして声をかける。
太って小柄なその男はいぶかしげに振り返った。そしてあたしを見て、何だこいつという顔をする。
あたしは目を見開いて、ぶりっ子の表情を作って言った。
「これ、落とされましたよ」
男の目線があたしの手の平の栞に落とされ、あれ?という顔になった。
はい。隙だらけ。
男が左手に持った鞄を覗き込んで右手で本を取り出そうと身を捻ったときには、あたしの右手は男の懐に入っていた。
一緒になって鞄を覗くような動作をしつつ、財布をするりと引き抜く。そのまま自分の左脇に挟み、背中にそって左手の中に落とす。
男は、自分の右手がスーツを体から離してしまったとは気付かずに、あれ、本当だ、と呟いた。
「挟んでたのになあ。俺のだ」
そして、栞をあたしの右手から摘み取る。
「・・・じゃ」
何と、そのまま礼も言わずに視線だけをあたしに放って、背中を向けて歩き出した。
「・・・・・」
あたしは冷めた目で、男の背中を睨みつけた。
礼儀知らずのバカ野郎だ。カモにして、正解。
本当はあたしがすってたものだけど、そんなことあの男は知らないハズ。人に物拾って貰ったら、礼だろうがよ、礼!!
だけど、これだけ重い財布なら、なくなったのに気付くのも早そうだ。
あたしもくるりと背中をむけて、さっさと歩き、最初の角を曲がった。これで、万が一男が振り返ってもあたしはすでに消えている。
ふん、と鼻で笑って、あたしは自分の部屋に引き上げる。
収穫の確認をしなくっちゃ。
何と、現金で24万入っていた。
クレジットカードもブラックカード。ブラックカードなんて久しぶりに見たぜ。
「・・・わお」
簡単に感想を漏らす。なんだ、あのいけすかない男、金持ちだったのか。よかった、ムカつく金持ちで。良心も欠片も痛まないわ。
運転免許書をみながらネットで検索すると、やはりIT業界の人間らしかった。最近勢いがあり、確かこの前上場したばかりのIT企業だ、この企業名。挟まれている無機質な名刺を見ると、肩書きは役員となっていた。
あの無愛想でも通じるんだから、いいよな。
ふん、とゴミ箱に名刺を突っ込む。
そしてまたいつもの通り、機械的に手袋をはめ、触れたものには丁寧に布で拭いてから財布と小銭、カード類をクリアケースに入れた。
また繁華街の交番だな。放り投げるのは。
このおっさんのお陰で今月は更に貯金が増えたわ〜。鬱陶しい無愛想顔の男を頭から追い払って、あたしはホクホクとノートに記入する。
もう今月はいいかなあ。それか、物品にするか?
ここ何ヶ月かしてない、腕時計を狙う?
うーん・・・と軽く唸って首をほぐす。
腕時計をするのは高等技術だ。何せ、当たり前だが腕に嵌めている時計を相手に気付かれずに盗らなければならない。外国では握手の習慣があるからやりやすいのだが、日本にはそんな習慣はない。むしろボディタッチは嫌うお国柄だ。
椅子にもたれて座り、天井を睨みつける。ボールペンで唇を叩いた。
革バンドならやりやすいが、最近は金属バンドのほうが多いので困難さのレベルが上がっている。
革バンドなら外してそのまま落とせるが、金属バンドの腕時計は手から引き抜かなければならないからだ。それを、相手に気付かれずに、一瞬でしなければならない。
しかし、困難には燃える体質のあたしなのだ。
ようし、やろうかな。
口元に笑みを浮かべて体を捻る。
そのまま楽しい気分になってきたので、ステレオのスイッチを入れた。
アメリカの女性アイドルのアルバムを音を大きくして流す。しばらく目を閉じて突っ立っていて、そのうち体が自然に動き出すのを待つ。
きたきた!
そして一人でくるくると踊る。
あたしは笑い、飛んで、跳ねていた。
この素敵なダンスタイムが終わったら、腕時計用の訓練をしなければ。
そんな事を考えながら、クタクタになるまで踊り続けた。
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